日本大百科全書(ニッポニカ) 「アウォロウォ」の意味・わかりやすい解説
アウォロウォ
あうぉろうぉ
Obafemi Awolowo
(1909―1987)
ナイジェリアのナショナリスト、政治家。ヨルバ系。西部州イケネに生まれ、アベオクタ、イバダンのミッション・スクールで教育を受け、さまざまな職業を経験した後、ナイジェリア自動車運輸組合などを組織し、ナイジェリア青年運動(NYM)に参加、その西部州書記を務めた。同時に、ロンドン大学の通信講座を受け、1944年商学士の称号を授与された。ロンドンへ留学し、弁護士の資格も取得。1945年にヨルバ文化を推進する文化団体エグベ・オモ・オドゥドゥワEgbe Omo Oduduwa(ヨルバの神の子孫たちの会)を組織し、『ナイジェリア解放への道』Path to Nigerian Freedom(1947)を著す。1947年に帰国後、西部州を中心に独立運動を進め、1950年3月に行動党(Action Group、略称AG)を組織し、1951年3月に正式に発足。1954年には、西部州の首相となり、初等義務教育制度、農村地域の保健事業の改善などを図った。1959年、西部州首相を辞任して、連邦選挙に出馬したが、敗北を喫し、北部州の北部人民会議(NPC)と、イボ人を主体としたナイジェリア市民会議(NCNC)の連合政権下に、野党リーダーとなった。1962年、行動党(AG)の西部州アキントラ首相との対立による西部州議会の混乱のなか、1963年、反逆罪の廉(かど)で10年の刑を受け投獄されたが、1966年7月のクーデター後の軍部政府によって釈放された。1967年には、ゴウォン軍部政府の財務相を務めたが、1971年に軍部の政権継続を拒否して辞任した。
1979年の民政復帰にあたり、ナイジェリア統一党(UPN)を結成し、1979年、1983年の選挙で、大統領候補として出馬したが、ともに北部を地盤とするナイジェリア国民党(NPN)のシャガリに敗れ、野党リーダーにとどまった。1983年12月、シャガリ政権の崩壊とともに引退し、1987年5月9日生地イケネで死亡。民族集団を基盤とした連邦制を唱え、社会民主主義的なナショナリストとして、またヨルバ文化推進のリーダーとして、生涯変わらず活動した。
[中村弘光]