ナイジェリア(その他表記)Nigeria

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共同通信ニュース用語解説 「ナイジェリア」の解説

ナイジェリア

西アフリカに位置し、人口はアフリカ最多の約1億8千万人。1960年に英国から独立後、クーデターや内戦で軍事政権誕生を繰り返し、99年に民政移管。アフリカ最大の産油国で、2013年の国内総生産(GDP)は南アフリカを抜きアフリカ首位となったが、貧困層が人口の過半数を占める。北部はイスラム教徒が大半、南部はキリスト教徒や伝統宗教が中心。近年、イスラム過激派ボコ・ハラム」が北東部で爆破テロや襲撃を繰り返し、昨年4月には女子生徒200人以上を拉致し「奴隷として売り飛ばす」と脅迫、国際的非難を浴びた。ナイジェリアや周辺国の軍が掃討作戦を進めている。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「ナイジェリア」の意味・読み・例文・類語

ナイジェリア

  1. ( [英語] Nigeria ) アフリカ中央部、ギニア湾に面する連邦共和国。一九六〇年イギリスから独立し、翌年旧ドイツ領カメルーンを編入、六三年に連邦共和国成立。住民はフラニ(フルベ)、ヨルバ、ハウサ、イボなど二五〇におよぶ部族からなり、部族間の対立が激しい。首都アブジャ。

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改訂新版 世界大百科事典 「ナイジェリア」の意味・わかりやすい解説

ナイジェリア
Nigeria

基本情報
正式名称ナイジェリア連邦共和国Federal Republic of Nigeria 
面積=92万3768km2 
人口(2010)=1億5830万人 
首都=アブジャAbuja(日本との時差=-8時間) 
主要言語=英語,ハウサ語,ヨルバ語,イボ語 
通貨=ナイラNaira

西アフリカの東端に位置し,アフリカ最大の人口をもつ連邦共和国。国土の南はギニア湾の支湾のベニン湾とボニー湾に臨み,西はベニン,北はニジェール,東はカメルーンと接し,北東端はチャド,ニジェール,カメルーン,ナイジェリアの4国の国境が接するチャド湖に面する。

広大な国土をもつナイジェリアの自然は,きわめて変化に富んでいる。遠くギニアの山地に源を発したニジェール川は,大きく屈曲しながら西アフリカを貫流し,ニジェールとベニンの国境に沿いながらナイジェリアに流入する。ケッビ川など北部の河川を集めたニジェール川は,ナイジェリア西部を南東流して,ロコジャ付近でベヌエ川Benue Riverと合流する。ベヌエ川はカメルーン中部のアダマワ高原にその源を発し,カメルーン中北部からナイジェリアに入り,南西流してニジェール川に合流する。大河川となったニジェール川は南流してギニア湾に注ぐ。その河口一帯には広大なデルタが形成され,デルタには乱流するニジェール川の分枝流が無数に走っている。このニジェール・デルタを含め,ナイジェリア最南部のギニア湾海岸線は,幅約80kmにわたって低平な湿地帯をなし,マングローブの茂る浅瀬や礁湖(ラグーン)が複雑に交錯している。

 内陸部は,ニジェール川,ベヌエ川流域をはじめ,標高600m前後の緩やかな起伏の丘陵が続いているが,ニジェール,ベヌエ両河川にはさまれた中部と北部は平均標高1000mを超す高原となっており,とくに中部のジョス高原では標高2000m近くに達する。また東部のカメルーンとの国境地帯は,古い褶曲(しゆうきよく)山脈が走り,火山帯となっている。

 ナイジェリアの気候は,海洋気団の影響でギニア湾海岸部では,年間4000mmに達する降雨をみるが,内陸を北に向かうほど乾燥する。すなわち南部では一年中降雨があり,熱帯雨林気候に属するが,中部や北部では降雨が雨季に集中して,乾季と雨季との差が明瞭なサバンナ気候となる。それに伴って植生も南部では熱帯雨林が各所に発達しているが,中部以北ではサバンナが卓越する。最北部では乾燥が著しく,半砂漠も出現する。12月半ばから2月半ばにかけてサハラ砂漠から吹く乾燥した熱風ハルマッタンの影響は,とくに北部に強くみられる。
執筆者:

1億を超える人口をもつ大国であるが,西部のヨルバ族,東部のイボ族,北部のハウサ族およびフルベ族(フラニ族)の大きな部族が勢力を分けあっている。これらの部族は人口も500万から1000万以上を数え,もはや部族ということばはあてはまらない。そのほか100以上の部族が居住しており,言語,文化の異なる部族の分化傾向が強く,国全体の政情は不安定で,ビアフラ戦争はその破綻の一例であった。

 ヨルバ族はクワ語群に属するヨルバ語を話し,その人口は1000万を超え,隣国のベニンにも居住している。もとは,より北に居住していたが,19世紀に北方からのフルベ族の圧迫で,森林地帯に南下した。イバダン,オヨ,イロリン,アベオクタなど,ヨルバ都市と呼ばれるいくつもの都市を形成し,それを中心にそれぞれ王国を形成した。伝説によれば,ヨルバの祖先は天からイフェに送られたといい,ヨルバ諸王国の王はイフェのオニ(支配者)に忠誠を誓った。ヨルバの都市は城壁で周囲が囲まれ,王宮,市場,モスクなどが中央部に所在し,住居の密集した都市景観を呈した。植民地化される以前,イバダンはアフリカ最大の人口をもつ都市であった。ヨルバ都市の住民は大部分が農民で,今日でも都市住民が鍬を持ってバスや車で郊外の遠方の畑へ通う光景が見られる。ヤムイモ,キャッサバトウモロコシ,ココヤシ,アブラヤシなどが栽培される。ヨルバは商業的才能にも秀でており,ナイジェリアから広く西アフリカ各地で活動している。

 イボ族は人口800万ないし900万を数える。ヨルバと異なり,中央集権的な政治組織は形成せず,村落連合レベルの統合しかもたなかった。イギリス植民地下にあって,官吏や商人としてナイジェリア全土で活躍した。またかつては奴隷交易の仲介人として一役買った。イボ族の有能な活動は,他部族とくに北部の住民の反目を買ったが,それがビアフラ戦争につながる一要因となった。

 北部のハウサ族はアフロ・アジア語族(ハム・セム語族)のチャド語派に属するハウサ語を話す。ハウサ語は共通語としてアフリカ大陸で最大の言語人口をもっており,その数は2000万以上にものぼる。ハウサはモロコシ,ミレット,トウモロコシ,ラッカセイ,ワタなどを栽培する農耕民であるが,同時に広域に展開する商業活動でも有名である。14世紀後半にはイスラムが入り,イスラム的要素の強い,囲壁をもつ都市を核として,カノ,ダウラ,ラノ,カツィナ,ザリア(ザザウ),ゴビル,ビラナの七つの国家(ハウサ諸国)を形成した。16世紀初めにはソンガイ帝国の支配下に置かれたが,16世紀末にはその支配を逃れ,各都市はサハラ砂漠南縁に位置することによって,長距離交易の終結点として商業的繁栄をみせた。ハウサはみずから商人として交易に従事したが,南の森林地帯で産出するコーラの実交易の独占に特徴があった。コーラの実はサバンナの住民にとってかんで楽しむ嗜好品として貴ばれたが,同時に贈物などに用いられる大事な品であった。ハウサ商人は,今日のガーナの森林地帯へ交易ルートを開き,キャラバンを組織した。また北部の牛を南部に売りさばく交易にも乗り出した。ハウサの社会は,職業に基づく階層が明確である。その頂点には王族,官僚,イスラム教師などが立ち,富裕な大商人,交易商人や職人,小商人がそれに次ぐ。職人は革細工,機織,染色,仕立て,大工などの職に携わり,さらに下位には奴隷や宦官(かんがん)などの層があった。しかし19世紀にフルベ族による支配を受け,それ以後はフルベの支配者がハウサ諸都市を治めている。

 フルベ族(フラニ族)は,13世紀に西方からハウサ地方に移住してきた。その後,本来の遊牧生活から,都市に居住しイスラム化する者が増加した。19世紀に入ると,サハラ南縁の地方にはイスラムの改革運動が続出した。ウスマン・ダン・フォディオはソコトを拠点として,堕落したムスリムに対しジハード(聖戦)を起こし,ハウサ諸国をつぎつぎと支配し,フルベを首長として置き,カメルーンにまで及ぶ広大な領域の王国を形成した。

 ナイジェリアの中央にはヌペ族ティブ族などの部族も,独自の社会,文化を発達させている。ニジェール川の河口デルタ地域にはイジョーやイビビオ,エフィクなどの部族が,かつては奴隷交易,その後はパーム油の交易で繁栄した歴史をもっている。

 今日,ナイジェリアの人口の50%強は農村に居住し,3000万ないし4000万が都市人口と推定される。1974年以降の石油ブームで,ラゴスをはじめとして都市人口が増大し,また失業者も大量に出現し,政府は対策に苦慮している。

 イスラム教徒が北部を中心に人口の50%を占め,南部にはキリスト教徒が多く,34%に及んでいる。公用語は英語であるが,北部でのハウサ語をはじめ,大部族の言語が広く用いられている。
執筆者:

西アフリカで最も古いとされる文化遺跡がナイジェリアで発見されている。それはニジェール川流域北部のジョス高原を中心に発掘されたもので約2000年前のものといわれる。この文化は,最初に発見された村の名にちなんで,ノク文化(ノク)と呼ばれており,土偶などの出土品は,今日のヨルバ文化に共通する特色をもっていたと考えられる。

 中世以後のナイジェリアの歴史は,北部と南部とでまったく異なる。北部地方は中央スーダンに属し,早くからイスラム化し,14世紀にはハウサ族諸国家(ハウサ諸国)が形成されていた。北部の大都市カノには11世紀に建てられた城壁が残されている。これらの諸国家も19世紀にはフルベ族の支配下に置かれた。一方,ニジェール川以南の南部森林地帯では,10世紀以後ヨルバ族のイフェ王国オヨ王国が形成され,14~17世紀にはビニ族(エド族)のベニン王国が栄えた。
執筆者: 1470年にヨーロッパ人としてポルトガル人が初めて,現在のラゴスの地域に渡来し,ベニン王とポルトガル王は使節を交換した。16世紀から19世紀にかけてヨーロッパ商人は,ベニン湾を中心に奴隷貿易を盛んに行い,海岸地帯は奴隷海岸と呼ばれた。1807年のイギリスの奴隷貿易禁止以後も奴隷貿易は実質的に継続されたが,イギリス系商人は当時イギリスで需要が増大しつつあったパーム油の貿易に転換した。イギリス政府は奴隷貿易の取締り,パーム油貿易確保のため,19世紀半ば以降,ニジェール川デルタ地帯に対する関心をたかめ,奴隷貿易取締りに反対したラゴス王コソコと対立した。1851年イギリスはラゴスを砲撃し,翌52年ジョン・ビークロフト領事はコソコの甥のアキトエ王子を応援して王に即位させ,奴隷貿易廃止の協定を結ぶとともに,ラゴスを勢力下に入れた。さらに61年には再度ラゴスを攻撃し,ラゴスを直轄植民地とした。

 19世紀後半ニジェール川デルタ地域では,イギリス系の統一アフリカ会社(UAC)とフランス系商社とが競合していた。84年11月から85年2月にかけて開かれたベルリン会議で,アフリカ分割のルールがヨーロッパ列強諸国間で決定され,ナイジェリア中部のロコジャより下流のニジェール川流域はイギリスの勢力圏として認められた。86年にはUACの後身のナショナル・アフリカ会社が現地の首長らと締結した協定ならびに貿易独占権がイギリス国王から認められ,同社は社名を王立ニジェール会社(RNC)と改めた。RNCは現地の首長,住民の激しい抵抗を受けながらも保護領を拡大していった。98年ルガードに率いられた軍隊が北部ナイジェリアに進出し,イギリス政府は1900年に北部ナイジェリア保護領の成立を宣言した。また同年には南部のRNC領などが改編されて南部ナイジェリア保護領となり,現在のナイジェリア全域がイギリスの支配下に置かれた。当初,北部と南部とは別個の総督の下で統治されていたが,14年に両者は併合され,ルガード(初代北部ナイジェリア保護領高等弁務官)が新総督に就任した。ルガードは北部ナイジェリアで実施していた間接統治制度を全域で施行し,各地の伝統的統治構造を維持することに努め,鉄道,道路の整備によって内陸部の経済・社会開発を進めようとした。

 第1次世界大戦終結後,西アフリカにおいても民族運動の萌芽がみられた。20年にイギリス領ゴールド・コーストのアクラでイギリス領西アフリカ国民会議が開催され,ナイジェリアからも6人が参加した。22年の立法審議会設置に伴い,マコーレーHerbert Macaulay(1864-1946)を党首とするナイジェリア国民民主党が結成された。カカオ,ラッカセイ,パーム油,ゴムなどの熱帯農産品の輸出に依存していたナイジェリアは20年代末の世界不況の打撃を受けた。30年代には青年層を中心にしたナイジェリア青年運動が結成され,アメリカ留学から帰国したアジキウェは《ウェスト・アフリカン・パイロット》紙を基盤にして民族主義,反植民地主義を主唱した。

 第2次世界大戦は,ナイジェリアの人々の経済生活ならびに政治意識に対して第1次世界大戦よりもさらに大きな影響を与え,44年にはナイジェリア・カメルーン国民会議(NCNC)がマコーレー,アジキウェを中心に組織され,民族主義的要求を明示した。また45年には戦争による物価高騰に反対する労働者が長期にわたるストライキを実行した。植民地政府側は,リチャードソン憲法(1947),マクファーソン憲法(1951)によって,西部,東部,北部の3州制への移行,選挙権の拡大を図った。これに対応して,北部州ではハウサ族を中心にした北部人民会議(NPC),西部州ではヨルバ族を中心にした行動党(AG),東部州ではイボ族が強力メンバーであったNCNCが支配的政党となった。イギリスとの独立交渉では,南(西部州,東部州)・北の指導者間の意見がしばしば対立したが,60年10月1日にナイジェリア連邦として独立を達成し,バレワAbubakar Tafawa Balewa(1912-66)(NPC)が連邦首相,アジキウェが総督(1963年の共和制移行後は大統領)に就任した。

独立直後にも,独立交渉中にみられた地域間,部族間,指導者間の対立が継続・再現し,政情は不安定であった。1963年の人口調査(センサス)の実施とその結果の発表,64年12月の総選挙の混乱は政党政治への国民の不信を増大させた。この政治的混乱を背景にして66年1月15日に軍部によるクーデタが起きた。A.ベロ,バレワなど北部系指導者が殺され,イボ族のイロンシ将軍Aguiyi Ironsi(1934-66)が政権を獲得し,統一国家への再編を図った。しかし同年5月の連邦制廃止法公布直後に,北部州に在住するイボ族が大量に殺害され,イロンシも7月29日に殺された。この第2次クーデタによってゴウォン中佐Yakubu Gowon(1934- )が実権を握り,連邦制が復活した。しかし9月末に北部州で再びイボ族への虐殺が始まり,100万人を超えるイボ族が東部州に帰郷し,東部州と北部州および連邦政府との対立は急速に増大した。ゴウォンは北部州の細分化を含む多州化を図り,12州による連邦制度を推進した。東部州軍政長官オジュクEmeka Odumegwu Ojukwu(1933- )はこの案に反対し,67年5月30日に東部州のビアフラBiafra共和国としての独立を宣言,7月6日に内戦(ビアフラ戦争)が始まった。戦闘開始直後はビアフラ軍が優勢であったが,10月以降,連邦政府軍が反攻を始め,68年9月にはビアフラの石油積出港であるポート・ハーコートを略取した。内戦の進展に伴い,タンザニア,ガボン,コートジボアール,フランスがビアフラ共和国を承認し,アフリカ統一機構(OAU)が調停に乗り出したが,解決をもたらさなかった。70年1月,臨時首都のオウェリが連邦政府軍に占領され,オジュクはコートジボアールに亡命し,2年半にわたる内戦は終結した。

 ゴウォンは70年4月に戦後の第2次国家開発復興計画を発表し,民政移管を76年に予定した。急速に増大した石油の輸出収入を基盤に開発計画を進め,近隣西アフリカ諸国との協力関係を促進する西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の創設にも積極的に取り組んだ。74年10月に国内体制の不備を理由に民政移管計画の無期延期を発表したが,これは急速に拡大された経済活動による所得の格差増大ともあいまって,国民の政府上層部への不満を高めた。75年7月,ゴウォンがウガンダにおけるOAU首脳会議に出席中,無血クーデタが発生し,ムハンマド将軍Murtala Muhammad(1938-76)が政権を握った。ムハンマドは行政組織の簡素化,12州から19州への細分化,国の中央部のアブジャへの首都移転計画を決め,民政移管を79年10月までに行うと発表した。ムハンマドに対する国民の支持は大きかったが,1976年2月,軍内部の不満分子によって彼は暗殺された。しかしこのクーデタは成功せず,参謀総長オバサンジョOlusegun Obasanjo(1937- )が国家元首になり,ムハンマドの民政移管計画をそのまま引き継いだ。76年10月に新憲法草案が公表され,翌年には制憲議会が開かれた。そして78年9月に12年ぶりに政党活動禁止令が解除された。

 79年7~8月に実施された大統領,上下両院議員,州知事,州議会議員の選挙は,連邦選挙管理委員会によって公認されたナイジェリア国民党(NPN。北部のハウサ族を基盤とするが,ほぼ全国的に支持者をもつ),ナイジェリア統一党(UPN。西部のヨルバ族が基盤),ナイジェリア人民党(NPP。イボ族が基盤),大ナイジェリア人民党(GNPP。北東部のボルノ州が基盤),人民救済党(PRP。北部のカノ州が基盤)の5政党によって争われた。大統領選挙ではNPNの党首シャガリShehu Shagari(1925- )が約1/3の票を獲得し,UPNのアオロオ党首がそれに続いた。上下両院選,州知事選,州議会選でもNPNが勝利し,同年10月にシャガリを大統領として13年ぶりに民政に復帰した。シャガリ新政権下では,世界石油市場の悪化,輸出収入の激減,対外債務の増大によって財政・経済状况が悪くなり,83年1月には,ガーナなど近隣諸国からの不法な出稼労働者約200万を短期間に国外追放する措置をとり,大混乱が生じた。同年8~9月の選挙では,シャガリが全投票の47%を獲得して大統領に再選され,上下両院・州知事選挙ではNPNが60~70%を占めた。しかし選挙に際して不正行為が横行し,一部地域では暴動も起こった。83年12月に再び軍部のクーデタが発生し,ブハリMuhammad Buhari(1942- )が国家元首になり,再び軍政に移行した。

 84年1月ブハリを議長とする最高軍事評議会が発足したが,ブハリ政権の極端な経済緊縮政策,言論弾圧政策は国民大衆の支持を弱めた。85年8月,83年のクーデタの協力者で最高軍事評議会議員であり,故ムハンマド将軍政権に協力していたババンギダIbrahim Babangida(1941- )が無血クーデタを実行し,自ら大統領兼軍最高司令官に就任した。ババンギダ政権は政治犯を釈放し,言論統制を撤廃して国民の不満を避け,民政への移行を約束した。88年4月の制憲議会選挙を経て,89年5月に新憲法が公布された。政党活動も解禁されたが,ババンギダは二大政党制を主張し,最終的には,社会民主党(SDP)と全国共和会議(NRC)の2政党だけが認められた。

 外交的には非同盟中立を基本とし,アフリカ統一機構などを通じたアフリカ域内外交を重視している。西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)設立の主導国である。隣国カメルーンとの間に国境問題をかかえている。

1970年代以降,石油生産・輸出の増加,石油価格の急騰によって,石油輸出収入が急増し,経済活動は拡大した。80年代に入ると石油価格が低迷し,経済は大きな打撃を受けた。国内総生産(GDP)平均年成長率は1965-73年に8.3%,73-80年に3.4%であったが,80-88年はマイナス1.7%となった。1人当り国民総生産(GNP)は260ドル(1995年世界銀行推計)。

 1960年に独立するまでのナイジェリアは,パーム油・パーム核(世界第1位),ラッカセイ(世界第1位),カカオ(ガーナに次いで第2位)が主要輸出品であり,これら3品目で輸出収入の約70%を占め,天然ゴム,綿花,木材,スズも重要輸出品であった。輸出農作物は,小規模農家によるものが大半であった。しかし全農産物輸出の総輸出収入に占める割合は,70年には44%に,70年代末には約6%にまで低下した。80年代,90年代には,輸出収入の95%を石油が占めた。この低下は,石油輸出収入の急増によるものだけではなく,干ばつ,低生産者価格,労働力不足などによる農業生産の絶対的低落によるものでもある。86年以降,世界銀行および国際通貨基金の勧告による構造調整計画が進められた。各種マーケティング・ボードの廃止,通貨ナイラの切下げ,品質管理の整備などによって,カカオ生産は回復し(年産15万t),ゴム生産は90年に15万tに達してリベリアを抜くアフリカ1位となった。

 石油は南東部ニジェール川デルタ地帯とその沖合に産出する。1956年に最初の採掘が行われ,70年代前半にナイジェリア経済の基幹産業となった。86年に石油部門はGDPの18%を占め,総輸出の97%を占めた。89年には日産174万バレル,埋蔵量200億バレルと推定されている。ニジェール川デルタ地帯はまた,2兆8000億m3と推定される天然ガスを埋蔵し,シェル石油などによる開発が進められている。

 貿易構造は石油,農産品などの一次産品を輸出し,工業製品ならびに食糧品を輸入する,という発展途上国型構造である。相手国別にみると,輸出ではアメリカを首位に西ヨーロッパ諸国,輸入では西ヨーロッパ諸国,アメリカが大きな取引国である。近隣アフリカ諸国とはECOWASを結成しているが,域内貿易の比率はきわめて低い。経済活動のナイジェリア化(現地化)を促進するため,〈ナイジェリア企業促進法〉(1972制定,77改正)によって,外国資本の参加がまったく認められない業種,40%まで認められる業種,60%まで認められる業種に分けて規制している。外資の参加率が60%を超える企業はいかなる形態,業種でも認められない。

 4次にわたる長期経済開発計画を通じて,工業化が進められている。初期には国内市場向け輸入代替型工業(繊維,ビール,タバコなど)が中心であったが,70年代には乗用車・トラック組立て,家庭電器,石油精製,肥料,セメント工業が誕生した。82年にはベンデル州アラジャにデルタ鉄鋼コンプレクスが完成した(生産能力年間100万t)。

 1981年以降の石油市況の悪化は,輸出収入の約95%を石油に依存しているナイジェリア経済に大きな影響を与え,さらに対外債務が肥大化(1987年7月に200億ドル)し,危機的状況に置かれた。ババンギダ政権は,IMF,世界銀行の融資条件に呼応して,1986年6月に構造調整計画を導入し,輸入ライセンスの撤廃,輸出税の撤廃,政府企業の民間移行等が実施された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナイジェリア」の意味・わかりやすい解説

ナイジェリア
ないじぇりあ
Nigeria

西アフリカ東部にある国。正称はナイジェリア連邦共和国Federal Republic of Nigeria。西はベナン、北はニジェール、北東端でチャド、東はカメルーンの各国と国境を接し、南はギニア湾に面する。国名は、黒を意味するネグロとニジェール川に由来するといわれる。国旗は縦に3等分され、左右の緑は豊かな森林、中央の白は平和と統一を表す。面積92万3768平方キロメートルで日本の約2.5倍、人口は1億3280万(2002推計)、1億4043万1790(2006センサス)で、アフリカ諸国中最大である。民族数は200以上あるといわれ、かつての奴隷貿易では最大の奴隷輸出地域であった。首都は1991年12月にラゴスから中央部のアブジャに移転された。

[島田周平]

自然

ニジェール川およびベヌエ川流域の低地では中生代の岩石が、ニジェール川河口部とギニア湾岸低地およびチャド湖周辺低地では第三紀堆積(たいせき)岩とごく薄い第四紀堆積層がみられる。その他の台地状の地域は、ほとんどが古生代の花崗(かこう)岩、片麻(へんま)岩などからなる。錫(すず)とコロンバイトを産するジョス高原は、第三紀の火山活動による。ナイジェリアをT字形にえぐって流れるニジェール川とベヌエ川の流域が低地をなし、それ以外の地域は丘陵や山地である。丘陵の高度はせいぜい500メートル以下であり、1000メートルを超える山地は、ジョス高原とカメルーン国境付近のアダマワ高原などのごく一部に限られる。花崗岩の基盤岩が露出している地域ではインゼルベルク(島状丘)が、東部にはケスタ地形がみられる。沿岸部にはラグーン(潟湖(せきこ))が発達し、ニジェール・デルタと結び付いて広大な湿地帯を形成している。

 植生は、雨量の多い南部から雨量の少ない北部へ、熱帯雨林、ギニア・サバナ、スーダン・サバナ、ステップ地帯と順序よく並んでいる。南部は3月から11月初旬まで、北部では4月下旬から9月下旬までが雨期である。雨期には湿潤な赤道西風の影響による南西風が吹き、乾期にはハルマッタンとよばれる乾燥した北東風がサハラ砂漠から吹きつける。

[島田周平]

地誌

ナイジェリアの農業地域は、東西に走る等雨量線に従い、南から北へと順次変化する。南部では、キャッサバ、ヤムイモ、ココヤム、プランテンといった根菜類の栽培が中心で、牧畜はみられない。これに対し北部では、ソルガム(モロコシ)、ミレット(アワ)、トウモロコシ、米などの穀類生産が盛んで、これに牧畜が加わる。この根菜類栽培地域と穀類栽培地域との遷移地帯が、ニジェール川、ベヌエ川流域の低地帯と重なる。これが、北部のイスラム教卓越圏と南部のキリスト教圏との境界線とも並行し、ナイジェリアを南部と北部に分ける重要な自然的、文化的境界線をなしている。行政上の南北境界線も、穀類栽培地域の南限の線とよく重なっている。

 ナイジェリアの主要工業地域は、南部に二つ、北部に一つある。南部は、ラゴス、イバダンを中心とする地域と、ポート・ハーコート、アバを中心とする地域である。北部の工業地域はカノ地区、カドゥナ地区である。南北格差の是正と、ラゴスへの過度の工業集中を避けるため、精油所のカドゥナ誘致など北部都市への工場誘致が盛んである。

[島田周平]

歴史

ポルトガル人が初めてナイジェリア沿岸部に進出した15世紀ごろ、この地には、ベニン王国、ヌペ、カノ、ボルヌ、ケッビなどの国があった。3世紀余りに及ぶ奴隷貿易ののち、19世紀初頭には、北部にジハード(聖戦)でハウサ諸王朝を打ち破ったフルベ人のソコト藩王国が成立し、南部ではオヨ王国崩壊後のヨルバ諸国とベニン王国が存在した。イギリスは、1861年ラゴスを保護領とし、1885年のベルリン会議ではビアフラ湾岸地域の保護領化に成功した。1890年代には王立ナイジャー会社を利用し、内陸部の支配領域拡大に努めた。そして1900年、王立ナイジャー会社にかわりイギリス政府が直接支配に乗り出し、南・北ナイジェリア保護領が誕生した。北部での平定事業、ラゴス植民地と南部保護領との合併を経た1914年、ルガード卿(きょう)により南・北保護領が合併され、現在のナイジェリアの原型ができあがった。

 1951、1954年と憲法改正が行われ、北部、西部、東部三大部族圏の地方政府の自治権が拡大された。1930年代に南部の都市エリート層によって始められた反植民地闘争も、1940年代に入ると民族主義的色彩を強めた。このような状況のなかで1960年10月1日、ナイジェリアは独立し、1961年に旧ドイツ領北カメルーンを編入、1963年に4州からなるナイジェリア連邦共和国が成立した。しかし地方分権と民族主義に基づく間接支配というイギリス植民地政策が尾を引いて強い民族間対立が残り、1967年、緩やかな連邦制を主張する東部と、それを認めない連邦軍が対立し、東部がビアフラ国として一方的に独立を宣言したため、ビアフラ内戦が起こった(ナイジェリア戦争)。戦後、勝利を収めた連邦軍のゴウォン将軍が元首の地位についたが、1975年にクーデターで失脚した。

 その後ナイジェリアは、1979年から4年間余り民選の大統領シャガリが政権の座にあったほかは、すべて軍人が政権を掌握してきた。1993年には大統領選挙が実施され、社会民主党の党首アビオラ首長が優勢であったと非公式に発表されたが、当時のババンギダ政権はこの結果を破棄し、その後も軍政が続いた。地方行政では、1976年にそれまでの12州体制が19州に変更され、このときアブジャに連邦首都地域が設定された。この後も州再編は続き、1987年に22州、1991年に31州体制へと改編され、1996年には新たに6州が新設された。

[島田周平]

政治

1979年以降4年余り政権を維持した民選の大統領シャガリは、2期目に入った1983年末に軍事クーデターで失脚した。それ以降、いずれも軍人が関与した二つのクーデターと一つの政変が起き、政権は軍人が掌握してきた。1984年からのブハリ将軍、1985年からのババンギダ将軍、そして1993年からのアバチャ将軍がそれである。歴代の軍事政権が直面してきた最大の問題は、民政移管、対外債務問題、そして宗教問題であった。1993年には総選挙が実施され、社会民主党のアビオラ首長が勝利したと思われた。しかしババンギダ政権はこれを認めず、国民の強い反発を買った。このときの政治的混乱に乗じてアバチャ将軍が政権を奪取したが1998年6月アバチャは急死、国軍参謀長のアブバカルが後継に就いた。これによって民主化への道が開かれるかにみえたが、同年7月には、民主化の期待を担っていたアビオラが獄中で死亡。その死因をめぐってさまざまな憶測が流れ、暴動にまで発展した。しかしその後、病死と判明したことによって、民主勢力との対話の姿勢を見せるアブバカル軍事政権と民衆との間に対話の道が開かれた。

 1998年7月、アブバカル暫定統治評議会議長(国家元首)は1999年1月から民主選挙を行い、5月には民政移管を実現すると発表した。公約通りに99年2月に行われた大統領選挙では、ナイジェリア最有力政党の国民民主党(PDP)の元最高軍事評議会議長のオルセグン・オバサンジョOlusegun Obasanjo(1937― )と、民主連合および全国民党の2政党が擁立した元蔵相のオル・ファラエの2人が候補者となったが、民主化の旗手として国際的にも知られるオバサンジョが当選、直前に行われた総選挙においてもPDPが過半数を占めた。ナイジェリアは新たな民政移管への道の第一歩を踏み出すことになった。オバサンジョは2003年再選。

 対外債務問題に対しては、1986年以降、構造調整計画を実施し、通貨の切下げ等を行った。宗教問題では1986年に当時の軍事政権がイスラム会議機構に正式加盟したことを公表したことに反発して、1990年に一部の南部出身若手将校がクーデター未遂事件を起こした。

 また1995年に小説家でオゴニ地域の環境運動家であったサロウィワが軍事裁判のうえ処刑されたときや、1996年にアビオラ首長の釈放を強く求めていた彼の妻が何者かに射殺されたときには、西側諸国は強く反発しアバチャ政権を非難した。非同盟中立政策とアフリカ中心主義が外交の基本で、石油輸出国機構に加盟している。

 軍隊は志願兵制で、陸軍6万2000人、海軍5600人、空軍9500人、総兵力7万7100人である。

[島田周平]

経済・産業

ナイジェリアは世界有数の石油資源をもち、国民総生産(GNP)は299億9500万ドル(1994)で、アフリカでは第五の経済規模の国である。しかし、輸出の90%以上を石油に依存するため、1981年以来の石油価格の下落によって経済危機に直面している。推定埋蔵量179億バレル(1994)といわれる石油は、東部沿岸地方を中心に生産され、1975~1980年には日産200万バレルの水準で、一時はアフリカ最大の生産量を記録した。1992年には日産205万9000バレルであるが、石油収入は1980年の250億ドルから1992年は92億ドルに減少している。天然ガスの埋蔵量は3兆1148億7000万立方メートルであるが、液化装置が不十分なため輸出は行われていない。鉱物資源としては北部の錫(すず)、コロンバイトのほか、国内消費用として東部のウディ炭鉱で採掘される石炭があり、鉄、鉛、亜鉛の埋蔵も確認されている。電力のうち約50%は水力発電で、その大半は1969年ニジェール川に建設されたカインジ・ダムから供給されている。

 農業は就業人口の過半数を吸収するナイジェリアのもっとも重要な産業で、耕地は国土の3分の1を占める。おもな食料作物は、南部ではヤムイモ、キャッサバ、ココヤム、プランテン、トウモロコシで、北部ではソルガム、ミレット、トウモロコシである。トリパノソーマを伝染媒介するツェツェバエがいる南部では牧畜は行われず、北部のサバナ地帯で牧畜が盛んである。換金作物としては、南部のココア、パーム油、ゴムと、北部のラッカセイ、綿花が重要である。とくにココア、パーム油、ラッカセイは1960年代前半までナイジェリアの三大輸出品であった。

 貿易では、輸出は原油が97.9%(1992)と大半を占める。輸入は機械機器43.2%、加工製品24.5%、化学品16.0%、食料品8.8%(1992)などである。おもな貿易相手国は、アメリカ、イギリス、フランスなどである。

[島田周平]

社会

ナイジェリアには200以上の民族がいるといわれる。おもな民族は、北部のハウサ人、フルベ人(1640万人)、カヌリ人(230万人)、ティブ人(140万人)、西部のヨルバ人(1130万人)、エド人(100万人)、東部のイボ人(920万人)、イビビオ人(200万人)などである。全国的にみればハウサ、ヨルバ、イボの三大民族が民族対立の主体になっているが、各地域別にはこれら三大民族の専横に対して他の少数民族が反対するという対立の構図がみられる。独立以来の政府の方針は、行政単位の細分化により有力民族の分割とその他の少数民族の自治権拡大を目ざした。しかし、民族を単位とした政党支持や政治行動は今日も変わっていない。民族の数に匹敵する数の言語があり、公用語は英語となっている。各地のテレビ、ラジオでは、その土地の民族言語が使われることもある。宗教は北部がイスラム教、南部がキリスト教とまったく異なり、これが民族対立をいっそう激しくしている。

 人口増加率は1975~1980年が年率3.3%、1980~1986年は年率3.4%、1990~1994年が2.9%で、2000年の人口は1億1500万を超えアフリカ諸国中最高である。急速な人口増と都市化は、都市部での住宅不足、失業の増大、食糧輸入の急増などの社会問題を引き起こしている。

 教育は、小学校6年、中学校5年、大学4年である。南部にはキリスト教の伝道活動の一環としてつくられた私立の小学校が多いのに対して、北部では公立の小学校が多い。また北部ではイスラム教学校もある。大学は1948年創設のイバダン大学をはじめとして22大学に約12万7000人(1994)の学生が就学している。

[島田周平]

文化

ナイジェリアは比較的豊富な歴史的、文化的遺産をいまに伝えている。最古のものでは北部ジョス高原で発見された紀元前3~2世紀の鉄器文明、ノク文明が知られている。ラゴスの国立博物館には全国の歴史的遺物が展示されているが、各地方には地方独自の文化・歴史を展示する博物館がある。イフェ、ベニン・シティの博物館(真鍮(しんちゅう)やテラコッタの頭部像)、ジョス博物館(ノク文化のテラコッタ)、カノのマカマ館(フルベ人の馬具、武器など)が有名である。

 文学活動も盛んで、英語で書いた小説や戯曲で世界的に有名な作家が少なくない。『物みな別るる』『もはや安楽なし』などで有名なチヌア・アチェベ、『やし酒飲み』で有名なエイモス・トゥトゥオラ(チュツオーラ)、『信仰篤(あつ)い陛下』のティモシー・M・アルコなどがいる。劇作家としてはアフリカ人として初のノーベル文学賞に輝いた、戯曲『森の踊り』で有名なショインカや、ジョン・ペッパー・クラークなどがいる。1977年1月にはラゴスで第2回世界黒人芸術祭が開かれ、黒人の芸術と文化を世界に強く宣揚することに貢献した。

 日刊紙は『デイリー・タイムズ』紙など主要なものだけで10紙を数える。またナイジェリア通信(NAN)、国営ナイジェリア・ラジオ(FRCN)、ナイジェリア・テレビ(NTV)がある。

[島田周平]

日本との関係

日本からの輸入は1億9700万ドル、日本への輸出は2000万ドル(1994)で大幅な輸入超過である。輸出は石油、ゴマ、牛骨粉などであり、輸入は自動車や機械が中心になっている。1980年代なかばまでは1人当り国民所得が高かったために有償の円借款がほとんどであった。しかし、それ以降の経済の停滞を受け、日本は同国を無償援助対象国に位置づけ、食糧増産、医療、水供給関係の援助を実施してきた。ところが、1993年以降のアバチャ政権の政策が民主化に逆行するものであるとして、新規のプロジェクトは停止された。民間ベースの企業進出も1980年代後半以降縮小傾向にある。2000年7月、九州・沖縄サミットに開発途上国グループの代表として大統領オバサンジョが訪日、2001年1月には首相森喜朗がナイジェリアを訪問した。同年5月、オバサンジョがふたたび来日し、日本とナイジェリアとの間で「スペシャル・パートナーシップ」の確立が合意された。

[島田周平]

『外務省監修『ナイジェリア連邦共和国』(1982・日本国際問題研究所)』『日本貿易振興会編・刊『貿易市場シリーズ233 ナイジェリア』(1983)』『島田周平著『地域間対立の地域構造―ナイジェリアの地域問題』(1992・大明堂)』


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百科事典マイペディア 「ナイジェリア」の意味・わかりやすい解説

ナイジェリア

◎正式名称−ナイジェリア連邦共和国Federal Republic of Nigeria。◎面積−92万3768km2。◎人口−1億5826万人(2010)。◎首都−アブジャAbuja(141万人,2006)。◎住民−北部のハウサ人,フルベ(フラニ)人,西部のヨルバ人,東部のイボ人が有力民族。◎宗教−イスラム50%,キリスト教34%(南部),土着宗教。◎言語−英語(公用語),ハウサ語,ヨルバ語,イボ語など。◎通貨−ナイラNaira。◎元首−大統領,ムハンマド・ブハリMuhammadu Buhari(2015年5月就任,任期4年)。◎憲法−1999年5月公布。◎国会−二院制。上院(定員109,任期4年),下院(定員360,任期4年)(2011)。◎GDP−2121億ドル(2008)。◎1人当りGDP−640ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−30.6%(2003)。◎平均寿命−男52.2歳,女52.8歳(2013)。◎乳児死亡率−88‰(2010)。◎識字率−60.8%(2009)。    *    *アフリカ西部,ギニア湾に面する連邦共和国。西部から東流するニジェール川が東部からの支流ベヌエ川と合してギニア湾岸に広大なデルタ(マングローブの湿地)を形成し,その北方は幅80〜160kmの熱帯林地帯をなす。さらに北方,両河流域の北には標高600〜1000mの高原が広がる。熱帯気候で湿潤であるが,北部は乾燥する。農業が主で,カカオ,ヤシ油,ラッカセイ,綿花などを産する。林業も重要。石油,スズ,石炭,ニオブ,タンタル,金などの鉱産があり,石油が輸出の大部分を占める。工業は醸造,セメント,タバコなど。 古くからニジェール川流域に諸王国が興亡した。15世紀にポルトガル人が来航,一時大西洋奴隷貿易の中心となり,海岸地帯は奴隷海岸と呼ばれた。19世紀に英国が植民地経営に進出,1861年ラゴスを直轄植民地とし,さらに1900年南・北別個に保護領とした。1906年ラゴス植民地が南ナイジェリアと合体,1914年全域を統合してナイジェリア植民地が成立した。1960年イギリス連邦内で独立し,1961年英領カメルーンの北部を合併,1963年連邦共和国となった。英植民地時代の部族分割統治の結果,部族・地域間の対立が強く,1967年5月東部州のイボ人がビアフラ共和国独立を宣言,一時はイボ人餓死者が日に3000人と伝えられるほどの悲劇的なビアフラ戦争に発展した。1970年1月ビアフラ側の敗北で内戦は終結したが,なお部族間の対立は根強い。1966年以降軍政が続いたが,1979年新憲法が制定されて民政に復帰した。しかし汚職の横行や経済の行詰りなどから,1983年軍部がクーデタを起こし,軍政に戻った。1985年の軍事クーデタで実権を握ったババンギダ大統領は,1989年に新憲法を制定して政党を公認するなど,民政移管プロセスを推進したが,1993年軍部はまたもやクーデタを起こし,アバチャ軍事政権が発足した。1995年軍事政権は人権・環境保護活動家9人を処刑し,国際的非難を浴びたうえ,イギリス連邦の加盟資格を停止された。1991年首都をラゴスから内陸のアブジャに移転した。1998年6月アバチャ暫定統治評議会議長の急死によりアブバカルが新議長となり,多くの政治犯を釈放した。1999年5月オバサンジョが大統領に就任し,20年以上にわたる軍政に終止符が打たれ,民政移管が実現し,新憲法も公布された。オバサンジョ大統領は政治・経済改革を積極的に進め2003年に再選を果たしたが,任期後半には民族・宗教対立,治安悪化は深刻なものとなった。2007年,国民議会選挙,州知事選挙,大統領選挙が連続して実施され,大統領に,与党国民民主党(PDP)のヤラドゥアが選出された。ヤラドゥアは土地改革,貧困削減などの内政改革を掲げつつ経済改革に取り組んだが,2009年11月に病に倒れ,翌年5月に逝去,憲法の規定によりジョナサン大統領代行が大統領に就任。2011年4月の大統領選挙ではジョナサン大統領が当選した。OPEC第7位(2012年)のアフリカ最大の産油国でありながら,長年原油収入が適切に利用されておらず,インフラの整備や貧困の削減が進んでいない。近年,産油地帯で武装集団による石油関連施設の破壊や,外国人労働者や女性・子供の集団誘拐などが頻発している。とくにイスラム過激派組織ボコ・ハラムはナイジェリア北部及び中部を中心に頻繁にテロ活動を繰り返しており,ISとの連携も深めている模様で,国際的にも重大な脅威となっている。2015年3月の大統領選では,最大野党のブハリ元最高軍事評議会議長が53%の得票率で,ジョナサン大統領を破り,民政移管後初の政権交代となった。当時現職のジョナサン大統領も敗北を認める声明を出した。ブハリは北部出身のイスラム教徒。1983年のクーデタを主導し1985年まで最高軍事評議会議長(国家元首,当時)として軍事政権を率いた。前回の大統領選にも立候補したがジョナサンに敗れた。今回の大統領選では,ボコ・ハラムのテロを抑え込めないジョナサン政権に国民の批判が集中。ブハリ氏は軍政を率いた実績を強調し,出身の北部だけでなく,ジョナサン氏の基盤である南部にも支持を広げたといわれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナイジェリア」の意味・わかりやすい解説

ナイジェリア
Nigeria

正式名称 ナイジェリア連邦共和国 Federal Republic of Nigeria。
面積 92万3768km2
人口 2億2595万4000(2021推計)。
首都 アブジャ

アフリカ中西部の国。西はベナン,北はニジェール,北東部はチャド,東はカメルーンと国境を接し,南はギニア湾に臨む。首都は 1991年,ラゴスからアブジャに移された。沿岸部はニジェール川の広大なデルタ地帯(→三角州)で熱帯雨林が広がり,高温多湿。中南部はニジェール川とベヌエ川の幅広い河谷と高木サバナ(→サバナ)の丘陵地帯。中北部から北はジョス高原を含む低木サバナの高原地帯で,10~6月上旬まで乾風ハルマッタンが吹く。前900~200年頃西アフリカ最古の文明といわれるノク文化が栄えたのをはじめ,のち南西部にベナン王国,オヨ帝国などヨルバ族の諸王国,チャド湖周辺にカネム王国,北部にハウサ族の諸王国,それを征服したフラニ族(フルベ族)の諸王国などが 19世紀まで興亡。1472年ポルトガル人が渡来,以後大規模な奴隷貿易が行なわれた。19世紀初期にイギリスが侵入,奴隷貿易を禁止し植民地化を促進,1851年ラゴスを占領したのを皮切りに 1885年にはニジェール川下流域を,1900年にはほぼ全域を保護領化,北部ナイジェリアと南部ナイジェリアに二分して統治し,1914年両保護領を合併,首都をラゴスに置き,ほぼ今日の国境が定められた。1947年憲法が制定され,1954年連邦制が確立,1960年独立した。1961年,当時のイギリス信託統治領カメルーンの北部を編入,1963年連邦共和国となった。1967年6月,東部のイボ族がビアフラ共和国として分離独立をはかり内戦が勃発,200万人に上る餓死者と戦死者を出し,1970年1月鎮圧された(→ビアフラ戦争)。その後も民族・宗教対立による暴動が相次いだ。経済規模はアフリカ屈指。1950年代にニジェール川デルタ一帯と大陸棚で石油が発見され,輸出の約 9割を原油を中心とした鉱物燃料が占める。ほかにカカオ,ゴムなどを輸出。地下資源はほかに石炭,スズ,コロンブ石などを産し,鉄,鉛などを大量に埋蔵している。工業は石油精製のほかは織物,セメント,食品加工など軽工業が主。人口稠密で国外への出稼ぎ者も多い。古来,部族の移動が激しく,人種,言語とも 200をこえるが,おもなグループは南西部のヨルバ族,北部のハウサ族,フラニ族,東部のイボ族で,北部はフラニ族を中心にイスラム教徒が大部分。全体ではイスラム教徒とキリスト教徒がほぼ半数ずつ。公用語は英語であるが,ハウサ語,イボ語,ヨルバ語なども広く用いられる。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ナイジェリア」の解説

ナイジェリア
Nigeria

西アフリカ,ギニア湾に面する連邦共和国。アフリカ最大の人口を擁する。約300もの民族が住み,なかでも北部のハウサ人,西部のヨルバ人,東部のイボ人が有力で,北部はムスリム,南部はキリスト教徒が多い。この地域間,民族間,宗教間の対立が国の独立以来,統一を困難にする一因になっている。1861年,イギリスはラゴスを直轄植民地に,1900年には現ナイジェリアの大半を保護領にした。60年に独立し,63年,北部,東部,西部,中西部の4州からなる連邦共和国になった。66年,反イボ人派将校団クーデタでのイボ人大統領殺害と,12州制移行に反発して東部州はビアフラ共和国として分離独立を宣言し,連邦政府とのビアフラ戦争が勃発(~70年)。99年には,軍事政権から民政移管されるにあたって政情が不安定となった。石油を産し,経済的にはアフリカ内での有力国である。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ナイジェリア」の解説

ナイジェリア
Nigeria

西アフリカのギニア湾に面する連邦共和国。首都アブジャ
15世紀にポルトガル人がきて以来,奴隷売買が盛んになり,その海岸地域は奴隷海岸といわれた。19世紀にイギリスが進出して保護領化した。第二次世界大戦後,独立運動を展開し,1960年10月イギリス連邦内の自治国として独立,63年10月連邦制をとった。住民はハウサ・イボ・ヨルバ族など250余の部族に分かれているためさまざまな矛盾をかかえ,ビアフラ内戦(1967〜70)となった。その後,1970年代から80年代にかけて軍政と民政移管がくりかえされ,93年の無血クーデタによりアバチャ軍事政権が成立したが,アバチャは1998年に死去,翌年民政に移管され,オバサンジョ大統領が就任した。

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