西アフリカ,ナイジェリアのオヨ州の州都。人口136万5000(1995)で,西アフリカ屈指の大都市。イバダン周辺は元来ヨルバ族の居住地域で,18世紀末から,戦乱を逃れた彼らの一部が集落をつくり農業を営んでいた。19世紀初頭,やはりヨルバ族の一部がつくっていたオヨ王国の国内が,フルベ(フラニ)族の勢力浸透によって混乱に陥ると,多くの人々がイバダンに避難した。こうした情勢のなかでイバダンは急激に軍事的な都市国家としての性格を鮮明にした。平均標高230mの七つの丘に位置して,自然の城塞の観を呈するこの町を,避難してきた人々がたちまちのうちに軍事都市に仕立てあげたのである。オヨ王国ばかりでなく,イフェ,イジェブといったヨルバ族の諸王国の混乱はその後も続き,多くの難民が流れ込んだ。イバダンは領土を拡大する国家の性格はもたなかったが,農業を基礎とし,奴隷輸出貿易によって利益をあげ,その経済力で強力な軍隊をつくり,混乱の影響をしのいでいった。しかしイギリスの勢力が次第に浸透し,1893年にはラゴス総督との停戦協定に同意せざるを得なくなり,屈服した。この協定時の人口は6万といわれ,アフリカの黒人がつくった最大の都市とされている。
イギリスはこの後イバダンを中央ヨルバランド統治の中心地とした。その影響もあって,現在も多数の人口をもつ近代的な都市になっている。1948年にはナイジェリアで最初の大学であるイバダン大学が創設され,今なおこの国の最高学府としての地位を保っている。ナイジェリアの農業にとってカカオは重要な換金作物であるが,イバダンはその集散地ともなっている。イバダン人口の90%ほどはヨルバ族が占めており,彼らの多くは依然として農業を行っている。そのためイバダンにはイギリスに支配される前のアフリカ人都市国家の一面を今なお見ることができる。
執筆者:井上 兼行
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西アフリカ、ナイジェリア西部、オヨ州の州都。人口136万5000(1995)。19世紀、オヨ帝国の成立によって、イフェ、エグバ、イジェブなどの地を逃れてきた避難民と戦士たちによってつくられた。1893年にイギリス支配下に入り、1901年にはラゴスから鉄道が開通した。1920年代にはラゴスからの自動車道路も完成し、ココア集積地、商業中心地として栄えた。51年西部ナイジェリアの首都になったときには、人口が40万を超え、伝統的都市としてはアフリカ最大といわれた。町の北方郊外にはナイジェリア最初の総合大学があり、ほかに国際熱帯農業研究所、ムーア研究所などもあり、教育、研究の一大中心地である。79年ラゴス―イバダン間に高速道路が完成し、郊外への工場進出が盛んである。おもなものに、電気製品、れんが、たばこ、プラスチック、ビールなどの工場がある。
[島田周平]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
西アフリカ,ナイジェリア西部州の州都。古くからヨルバ人が居住していたが,19世紀初頭,フルベ人が隣接するオヨ王国を侵害したため,避難民が流入。その後,軍事力を持つ都市国家の形態を整えた。19世紀末にはアフリカ人が建設した最大の都市であった。植民地時代,イギリスはここに統治の拠点を置いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…もとは,より北に居住していたが,19世紀に北方からのフルベ族の圧迫で,森林地帯に南下した。イバダン,オヨ,イロリン,アベオクタなど,ヨルバ都市と呼ばれるいくつもの都市を形成し,それを中心にそれぞれ王国を形成した。伝説によれば,ヨルバの祖先は天からイフェに送られたといい,ヨルバ諸王国の王はイフェのオニ(支配者)に忠誠を誓った。…
※「イバダン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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