1206年にモンゴル部出身のチンギス・ハーンがモンゴル高原の遊牧諸部を統一して建て,のち彼とその子孫がユーラシア各地に支配を拡大した帝国。
モンゴル部は,唐代に蒙兀(もうごつ)(蒙瓦)の名で史料に初登場する。当時モンゴル高原は,トルコ系遊牧民族の勢力が強く,モンゴル系諸部は高原北東部から東部にかけて分布するにすぎなかった。その一部であったモンゴル部は,高原北東辺にいたらしい。ウイグル国滅亡後,モンゴル系諸部はしだいに西進し,モンゴル部もオノン,ヘルレン両河の上・中流域に進出して遊牧するようになった。モンゴル部は基本的に,父系同族血縁集団であるオボクから成っていたが,12世紀にはキヤトとタイチウトの両オボクの系統の勢力が強く,その中葉以後両者から部長が選出されるようになった。ところがモンゴル部の政治的統一は,北方遊牧民の強勢を警戒する金朝との摩擦を生み,第2代部長アムバガイが高原東部に遊牧し金朝側に立つタタール部に捕らえられ,金朝の手で殺された。そして第3代部長クトラの復讐戦は成功せず,その没後新部長は選ばれず,金朝の政策は成功したようである。とはいえ部長候補はいたのであり,なかでもカブルの孫でテムジンの父であったイェスゲイは有力候補者であったらしいが,タタール部に毒殺され,モンゴル部の混迷は続いた。
以上の状況の中でテムジンは賢明にも,高原中部に強勢を誇ったケレイト部の部長オン・ハンと結んで勢力を強化し,キヤト一族の指導者となり,タイチウトを倒した。1202年にはタタール部を討滅,翌年には不和となったケレイト部,セレンゲ川下流域のメルキト部を破り,さらに陰山山脈方面のトルコ系のオングート部の帰服を受けた。04年にはアルタイ山脈方面のトルコ系ナイマン部を征討し,高原の遊牧諸部をほぼ統一した。06年にはオノン川上源の地でクリルタイを開いて即位してチンギス・ハーンと称し,建国を宣した。モンゴルは部名から民族名となった。
建国前強力であったキヤトとタイチウトの両オボクの系統は,人畜の戦利品や略奪物が多かったらしく,両系統の男子の多くは,それらを財産として分与され,従来のオボクとは異質の組織体を形成するようになっていたようである。それらは依然オボクを称することもあったが,国家の意味ももつウルスulusと称されることがあった。カブルの子孫であるテムジンは,このようなウルスに囲まれて育つ一方,同族の近縁者のあてにならないことを体験したため,オボクや近縁者にあまり頼ることなく,友情や忠誠心から彼に仕え,ノクルnökürと呼ばれた人々を最も信頼し,その量と質の充実に努めた。ノクルは出身オボクを率いる形で仕えることもあったが,単身で仕える場合も多かった。テムジンは建国の過程で打倒した部やオボクの人畜多数を自分で保有し家族に与えた以外は,恩賞として主としてノクルに分与し管理させたようである。そして建国時にオボクとは別の遊牧民伝統の十進法的編成の千戸を国制の基本として採用し(オボクは消滅したわけではない),彼に仕えてきた功臣88人を千戸の長(ノヤン)に任命し,95の千戸を支配させたが,彼らの多くはノクルであったのである。多分彼らの率いた千戸の多くは,かつて彼らに分与された者たちを基礎に組織されたのであろう。
千戸は行政・軍事組織であり,百戸,十戸に細分され,おのおの約1000人,100人,10人の兵を提出すべきものであった。千戸長は百戸の長を統率し,百戸長は十戸の長を統率した。そしてこれらのノヤンは世襲的身分をもち,支配者層として一般牧民に対してしだいに領主的性格を帯びていったのである。チンギス・ハーンは,千戸制をより強く掌握し,かつ宮廷(オルド)を整備・強化するために,ノヤンの子弟を差し出させ,1万人から成る親衛隊(ケシクテイ)を編成し(ケシク),隊員に種々の特権を与え,侍衛(トルカウト),宿営(ケプテウル),箭筒士(コルチン)などの職務につかせ,親征には同行させ,常に身辺に置いて,これら将来のノヤンを薫陶し,忠誠心を育てた。
チンギス・ハーンはこの親衛隊を中核とする中軍を中央部に配置し,アルラト・オボク出身の万戸長ボオルチュ所轄の千戸群を右翼として西部に配置し,ジャライル部出身の万戸長ムハリ所轄の千戸群を左翼として東部に配置し,この三部を中央ウルスと称した。また一族に対する分封を行い,中央ウルスの西隣,アルタイ山脈方面のステップに子供のジュチ,チャガタイ,オゴタイを配置し(右翼諸王という),中央ウルスの東隣,大興安嶺方面のステップに3人の弟を配置し(左翼諸王という),おのおのいくつかの千戸を与えた。末子のトゥルイには自己の遺産を与えることにした。ところでチンギス・ハーンは,建国前にウイグル文字を用いてモンゴル語を表すことにし,ナイマン部の者から政府文書の扱い方を学び,書記を養成していたらしい。そして建国とともに国家基本法である法令(ジャサク)を公布し,タタール部出身のシギ・クトクを司法長官である大断事官に任命した。こうしてモンゴル帝国のハーンは,かつての部族連合的な遊牧国家の君主に比べ,より広い直轄領を有し,そこにより深く支配力が及ぶことになったのである。そしてこの強大なチンギス・ハーンと後継者である大ハーンの統制,指揮の下に,以後,帝国の目覚ましい対外発展が行われたのである。
チンギス・ハーンはまず,高原北部のオイラート部やより北西方のキルギス部その他の森林の民を征服した。また西遼(カラ・キタイ)を討滅し,西ウイグル国,カルルク国を帰服させ,西夏を攻撃し,都城攻撃法を学んだ。そしてこの経験を積んだ彼は,1211年以後宿敵金朝に出撃し,15年に首都の中都を陥れ,黄河以北,満州の地を奪い,金朝を滅亡の淵に追いこんだ。そして19年から,西アジアの覇者ホラズム朝によるモンゴル側使節と隊商の虐殺と略奪をきっかけに同朝に遠征し,これを滅ぼし,別軍はコーカサスを抜けて南ロシアのステップをじゅうりんし,25年に帰還した。
その後西征に協力することを拒否した西夏を征討し,27年にこれを滅ぼした。チンギス・ハーンはこのとき病死したが,以上の活動の結果,帝国の版図は内陸アジアを中心にいちじるしく拡大した。第2代のオゴタイ・ハーンは,34年に金朝を討滅し,36-42年にバトゥにヨーロッパ遠征を行わせ,これらの結果,華北とロシアを版図に加えた。第4代のモンケ・ハーンは,52年にフレグに西征させ,イスマーイール教国とアッバース朝を滅ぼし,イラン・イラク方面を領土に加え,フビライに大理国を滅ぼさせて雲南を支配下に入れ,チベットを招降させ,別に高麗を属国化し,南宋征討を開始した。南宋征服は元朝の世祖フビライによって79年に達成され,こうしてモンゴル帝国は古今未曾有の大版図をもつ国家となった。
モンゴル帝国のあくなき征服活動の理由は,天の子である大ハーンが絶対的支配者として世界を統治する資格をもち,服属を拒む国を討滅する権利をもつとの確信や,商業路の確保などの経済的欲求など種々考えられるが,大征服が実現した理由としては,日常の牧畜・狩猟によって鍛えられた巧みな騎乗・弓射の術や軍事演習の意味ももつ大規模な巻狩りによって培われた比類ない集団的・組織的行動力,それに作戦の巧みさ,当時敵対国としてホラズム国のような国内不統一の新興国や衰退傾向にある国が多かったことなどが指摘される。なおモンゴル軍の殺戮は有名であるが,その殺戮行為の理由のひとつとして,狩猟では多くの獲物を殺し戦争では多くの人を殺すというチンギス・ハーンの格言に示されているように,モンゴル人が狩猟と戦争を同一平面上でとらえる考え方をもっていたことがあげられよう。
拡大した帝国は,内部に遊牧民以外に狩猟民や農耕民を抱え,複雑化した。このうちバイカル湖西の森林の民とロシア方面の支配はジュチとその子孫に任され,南方農耕地帯は大ハーンの直轄領とされ,その各都市に監督官(ダルガチ)と駐屯軍を置き,徴税と治安維持に当たった。そしてモンケ・ハーンの治世に阿母(アム)河等処行尚書省,別失八里(ビシユバリク)等処行尚書省,燕京等処行尚書省を置いて各所管の都市の監督官を統轄させた(行省)。これらの占領地からの徴税については,オゴタイ・ハーンの治世に戸口調査を行い,それに基づいて銀を主体とする税制を施行し(包銀),モンケ・ハーンの治世に華北で再度戸口調査を行い,新税制を施行した。これら定住地の行政に経験のないモンゴル人を補佐して,契丹人の耶律楚材(やりつそざい)やホラズム出身のヤラワチなどが重要な役割を果たした。オゴタイ・ハーンは使節,役人などの往来や貢物その他の物資の運搬の安全・迅速さを確保し,帝国の統一を確実なものとするために,一日行程の間隔で設置し,宿舎,人員,馬を備えた駅を結ぶ駅伝網(ジャムチ)を作り上げ,この駅伝路の起点となり帝国の首都となったカラコルムを造営した。ただし大ハーン自体はそこに常駐せず,通常はその周辺の四季の駐営地を移動していた。
帝国の版図がアジアの大半を覆い,ヨーロッパの一部を含み,領内が駅伝網で結ばれ,治安が比較的よく保たれると,東西交通が活発となり,ステップ路とオアシス路が盛況を示した。そして商利を求める西方イスラム商人多数がモンゴルを訪れた。彼らは建国前に早くもチンギス・ハーンと接触し,東西貿易の利について彼の眼を開かせ,モンゴル領内での活動の足場を築いた。その後帝国の発展につれて帝国内で単に商人としてだけでなく,役人としても活躍するイスラム商人も多く出た。これら以外にローマ教皇やフランス国王の使節としてカルピニやルブルクその他がモンゴルに派遣され,帰国後詳細な見聞録を記したが,これは東アジアとヨーロッパの交渉史上画期的なことであった。その記述によると,当時カラコルムにはヨーロッパから連れてこられたフランス,ドイツ,ロシアなどの人々が,中央アジアや中国の人々と交わって職人その他として働き,彼らや各地の使節・商人のためにそこにはモスク,キリスト教会,その他種々の宗教のための寺院12が存在した。
モンゴル帝国は皇位継承争いと農耕文明地帯をめぐる態度の相異から生じた派閥的確執によって命を縮めた。オゴタイ・ハーンの即位はチンギス・ハーン生前の指名があったため問題がなく,つぎのグユク・ハーン選出についても大きな混乱はなかった。だがこの間チンギス・ハーンの末子トゥルイの一族が大ハーン位をねらい,バトゥがこれに荷担し,グユクの没後,オゴタイ,チャガタイ一族の欠席のまま強引にクリルタイを開き,トゥルイの長子モンケを推戴し,オゴタイ一族を大量に処刑した。以上のことは帝国に亀裂を走らせたが,このころ別の帝国分裂の芽が育ちつつあった。それは大ハーン直轄領の華北の経済と文化を評価するフビライを先頭とする勢力の台頭である。
西方諸王も大ハーンの直轄領であるオアシス地域の富の獲得を目ざし,ジュチの一族はホラズム地方,チャガタイの一族はタリム盆地や旧ソグディアナ地域を蚕食しつつあり,それとともに彼らの間にもイスラム文化を尊重する立場が勢力を増してきた。状況はイル・ハーン国も同じであった。モンケの帝国の統一を強める努力にもかかわらず,彼が対南宋征討開始直後に病没すると,漢地派フビライとモンゴル伝統文化尊重派のアリクブカの兄弟がともにお手盛クリルタイを開いて大ハーン位につくという異常事態が生じた。この争いはフビライの勝利に終わり,中国征服王朝元の建設を導いたが,この争いを奇貨として,オゴタイ・ハーンの孫のハイドゥが勢力を貯え,漢地派フビライに反対して起兵し,チャガタイ,キプチャク両ハーン国の支持も得て大ハーン位についた。元朝はイル・ハーン国の支持を得た。ハイドゥは87年に東方諸王を誘って元朝の挟撃を企てるなどし,両派の戦いは30余年におよび,フビライとハイドゥ没後の1303年に元朝皇帝の宗主権を認める形でようやく終結した。だが,このとき実質的に西方4ハーン国は独立国となっていたのである。そしてこの後も1310年にチャガタイ・ハーン国がオゴタイ・ハーン国を併呑し,キプチャク,イル両ハーン国は領土争いをし,一方元朝,チャガタイ・ハーン国,イル・ハーン国で遊牧伝統文化尊重派と中国またはイスラム文化尊重派の抗争が起こるなどし,みずからの寿命を縮めたのであった。
→元 →モンゴリア
執筆者:吉田 順一
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1206年チンギス・ハンが創建したモンゴル民族支配の帝国。かつては「蒙古(もうこ)帝国」と表記されることもあったが、「蒙古」に蔑称の意味が含まれることなどから使用されなくなった。
[護 雅夫]
12世紀の中ごろモンゴル高原の各地には多くのモンゴル系、トルコ系の氏族・部族が割拠していたが、モンゴル民族の一氏族出身のテムジンは1189年ごろモンゴル諸氏族を統一してその盟主に推され、チンギス・ハンの称号を贈られた。彼は、ついで近隣のタタール、メルキット、ケレイト諸部族を服属させ、西方のアルタイ方面に拠(よ)ったトルコ系のナイマン部族を滅ぼしてモンゴル高原を統一した。チンギス・ハンは1206年モンゴル全土の大ハンの位につき、従来の氏族・部族制度に基づく国家機構を改めて、国内の遊牧民衆を95個の千戸集団に分けた。千戸およびそれを構成する百戸集団は行政単位であるとともに軍事単位で、千戸は約1000人、百戸は約100人の兵士を提供することに定められていた。千戸長、百戸長には功臣を任命して、これらを左翼(興安嶺(こうあんれい)方面)、中軍、右翼(アルタイ方面)の万戸長の指揮下に置いた。万戸長、千戸長、百戸長の子弟はケシクテイとよばれる大ハンの親衛隊を構成して、チンギス・ハン一族に忠誠を誓うとともに各種の特権を与えられた。
チンギス・ハンは、国家の財政的基礎を固めるため、金、西夏など南方の農耕地域に侵入し、多数のウマ、ラクダ、財物を略奪し、職人、農民を捕虜にして遊牧地帯内部に移住させ多くの集落をつくった。またユーラシア大陸に通ずる東西貿易路を確保する目的で西方へ軍を進めた。まず、ナイマン部族の族長の王子クチュルクが西遼(せいりょう)(カラ・キタイ)へ亡命して王となっていたので、これを討ってその地を併合した。ついで、西アジアのイスラム世界の保護者をもって自任していた、ホラズム(フワーリズム)・シャー朝に通商使節団を派遣して、これが虐殺されたのを機に西方への大遠征を敢行した(1219~25)。ホラズム国王ムハンマドはカスピ海中の孤島に逃れて死に、その王子ジェラール・ウッディーンはインダス河畔の決戦で敗れてインドに逃亡したという。モンゴル軍はさらに進んでロシア諸公の連合軍を撃破し、クリミア半島を略奪して帰国した。チンギス・ハンはまもなく西夏を討ち、その際病死した(1227)。
チンギス・ハンは、西方遠征から凱旋(がいせん)したのち、その領土のうち、遊牧地域は、そこに遊牧する民衆とともにこれを諸子、諸弟に与えた。モンゴル本土は、これを自分の領土として末子のトゥルイに譲ることに決め、イリ川流域を中心とするナイマン部族の故地、北西モンゴル高原を第3子オゴタイ(オゴタイ・ハン国)に、西遼の故地、中央アジアを第2子チャガタイ(チャガタイ・ハン国)にそれぞれ分与し、南ロシアのキプチャク草原は、将来これを長子のジュチの領土とすることにした(のちにキプチャク・ハン国となる)。また、東部モンゴル高原、満州(ほぼ今日の中国東北)方面には弟たちを分封し、南方の農耕地帯は、これを一族の共有財産とし、そこにダルガチ(代官)、駐屯軍を配して治安維持、徴税にあたらせた。
[護 雅夫]
ハンは、以前には有力な部族長たちの会議であるクリルタイで選ばれることになっていたが、チンギス・ハンの即位後はこの慣習は形式だけのものとなり、彼が死ぬと、クリルタイは彼の指名しておいたオゴタイを大ハン位につけた。オゴタイは金に対して大規模な戦争を再開し、これを滅ぼして淮河(わいが)以北の中国を占領し(1234)、西方に向かっては、ジュチの第2子バトゥに命じてロシア、ヨーロッパ各地を討たせ(1236~42)、この結果、南ロシアがモンゴル帝国の領土となり、ここにキプチャク・ハン国が成立した。オゴタイ・ハンは、オルホン川の上流域に首都カラコルム城を築き、ここを起点として領内各地への道路を開いて、その沿道に駅伝の制度を整えた。駅伝は、普通にはウマで1日行程ほどの距離ごとに駅舎を設け、その站戸(たんこ)に食糧、ウマ、車などを提供させて、使節・官吏・軍隊の往来、貢納そのほかの運搬の便を図ったもので、これによって広大な領土内の交通が容易になり、東西文明の交流が促進された。また、オゴタイは耶律楚材(やりつそざい)ら征服地帯の学者、文化人を用いて行政機構を整備し、最初の定額税法を施行した。
オゴタイ・ハンの死後、彼の皇后が摂政したのち、オゴタイの長子グユクが第3代の大ハン位についたが、彼が死ぬとその皇后が摂政となった。このように大ハン位の空白時代が続いたのは、オゴタイ一門とバトゥの味方するトゥルイ一門とが対立したためである。オゴタイ一門は次代の大ハンとしてオゴタイの孫シレムンを、これに対してバトゥはトゥルイの長子モンケを推して互いに争ったが、結局モンケが第4代の大ハンとなり、これ以後、モンゴル帝国~元(げん)朝の大ハン位はトゥルイの子孫によって独占されることになった。そして、こうした一族内部での対立抗争が、やがてモンゴル帝国を分裂に導く重要な原因となった。
モンケ・ハンは、オゴタイの死後約10年の間に乱れた統治機構を刷新し、官制を改革するとともに、華北、トルキスタンの要地を確保し、戸口調査を実施して税制を改正した。モンケ・ハンは内部の再統一にいちおう成功すると、次弟フビライを四川(しせん)、雲南、安南、チベットの討伐に出軍させ、第3弟フラグをイスラム教国の平定に派遣した。フラグはイランに侵入して、バグダードを攻略し、アッバース朝を滅ぼし(1258)、イランにイル・ハン国を建てた。モンケ・ハンも南宋(なんそう)討伐作戦に加わったが、その途中四川省で病死した。
[護 雅夫]
モンケ・ハンが死ぬと、首都カラコルムでその留守を預かっていた末弟のアリク・ブハは、部下およびオゴタイ系諸王の支持を得て大ハン位につこうとした。そこでフビライは南宋(なんそう)と一時的に和平を結んで内モンゴル高原に帰り、腹心だけのクリルタイの推戴(すいたい)を受けて第5代の大ハンとなり、アリク・ブハを鎮圧して、1271年に国号を元(げん)と定めた。これに不満をもつ者は、オゴタイの孫ハイドゥをハンにいただいてフビライと対立し、ここに30年にわたる内戦が開始された。キプチャク、チャガタイ両ハン国はハイドゥ側にたち、イル・ハン国はフビライ側に味方して戦い、結局フビライ側の勝利に終わったが(1303)、そのときは、すでにフビライもハイドゥも死んだあとであった。この戦いは、遊牧・農耕両地帯を領有することによって開化した元朝、イル・ハン国と、遊牧地帯を本拠として従来の遊牧的伝統を保持しようとする諸ハン国との間の抗争であった。この結果、モンゴル帝国は事実上分裂したが、そののち、元朝と対立した諸ハン国がしだいに開化するに及んで、それらは元朝と和議を結ぶようになり、モンゴル帝国の連帯性が復活した。こうして、元朝はモンゴル帝国の正統を継ぐ宗主国とみなされ、すでに1310年に滅亡していたオゴタイ・ハン国を除く他のキプチャク、チャガタイ、イルの三ハン国はこれと連合し、ユーラシア大陸は、いわゆる「パクス・タタリカ」(タタールの平和)を享受し、アジアとヨーロッパとの間の文化交流は一段と活発になった。しかし、モンゴル帝国は、モンケ・ハンの治世までモンゴル高原の大ハンの権力と血縁のつながりとによって保っていた統一性を失い、元朝を宗主国とし、これとその政権外に独立した三ハン国とによって構成された連合王国にすぎなくなった。そして、この連合王国も元朝の滅亡(1368)によって崩壊した。
[護 雅夫]
『田村実造他著『東洋の歴史7 大モンゴル帝国』(1967・人物往来社)』▽『護雅夫他著『岩波講座 世界歴史9 中世3』(1970・岩波書店)』▽『ドーソン著、佐口透訳注『モンゴル帝国史』全六巻(平凡社・東洋文庫)』
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1206~1388
13世紀初めにチンギス・カンがモンゴル高原に建国し,そののち満洲,中国,中央アジア,東イスラーム世界,ロシアを版図に入れた多民族世界帝国。1206年テムジンはモンゴル高原の諸部族を統一し,即位してチンギス・カンとなり,大モンゴル国(ウルス)(モンゴル帝国)を建国。諸子,諸弟に分封し7ウルスの集合体として帝国の原型を確立,対外遠征を開始した。以後も拡大政策は継承され,バトゥの南ロシア,東欧遠征,フレグの西アジア遠征,クビライの南宋遠征により版図が拡大。一時カイドゥが中央アジアに大カアン(カガン)に対抗する勢力を結集したが,彼の死後は,大カアンのいる元を中心にキプチャク・ハン国,イル・ハン国,チャガタイ・ハン国がゆるやかに統合する帝国となり,「モンゴルの平和」といわれる繁栄を実現した。
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…国号の元は1271年(至元8)に《易経》の乾の〈大いなるかな乾元,万物資始す〉に基づき,定められた。
【政治】
1205年アルタイ地方に拠る強敵ナイマン部の撃滅をもって完結した太祖チンギス・ハーンのモンゴリア統一によって,後年アレクサンドロス大王の帝国をも凌駕するまでに成長するモンゴル帝国はその政治的基盤を固めた。ところで牧畜経済にとって唯一の資財たる家畜はその累積がきわめて困難な関係上,遊牧国家がその発展を期するために隣接する異なる経済圏の制圧を企てるのは匈奴帝国以来の通例である。…
…チンギス・ハーンはその後西夏,金への遠征を行うとともに,19年には中央アジアへ兵を進め,ホラズム王国を滅ぼした。ここにモンゴル帝国は未曾有の広大な領域を持つにいたったが,その遠征事業はチンギス・ハーンの子孫にうけつがれ,34年(天興3)には金,1230年代後半に南ロシア,58年アッバース朝,79年(祥興2)には南宋がその領域に入った。この時代,交通路が整備され東西交易が活発に行われ,とくに中国やアラビアの科学技術は相互に大きな影響を与えた。…
※「モンゴル帝国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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