アフガニスタン(読み)あふがにすたん(その他表記)Afghānistān

共同通信ニュース用語解説 「アフガニスタン」の解説

アフガニスタン

1880年、英国の保護領となったが、1919年に独立。79年、旧ソ連が軍事介入。89年に撤退後、内戦となり、96年、タリバンが首都カブールを制圧した。タリバン政権は2001年の米中枢同時テロ後、米国などの攻撃を受け崩壊したが、21年8月15日、米軍の撤退直前に復権した。閣僚の大半は母体となっている民族パシュトゥン人で女性はいない。国際社会は女性抑圧政策を批判しタリバン暫定政権を承認していない。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「アフガニスタン」の意味・読み・例文・類語

アフガニスタン

  1. ( Afghanistan ) イラン高原東部に位置し、中央アジアとインド亜大陸にはさまれた地域を占める国。一八世紀中頃アフガン(パシュトゥン)人が建国。一九一九年、英国保護領から独立、七三年クーデターにより王制から共和制に移行。七八年軍事クーデターが起き、親ソ政権が成立、ソ連の軍事介入が行なわれたが、八九年ソ連軍は撤退。その後イスラム原理主義的なタリバーン政権が国土を支配したが、二〇〇一年一〇月より米・英等による軍事行動が行われ、二〇〇四年に新憲法が制定された。首都カブール。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アフガニスタン」の意味・わかりやすい解説

アフガニスタン
あふがにすたん
Afghānistān

パキスタン、イラン、中国、タジキスタンウズベキスタントルクメニスタンに囲まれた西南アジアの内陸国。アフガニスタンとは「アフガン人の地」という意味で、18世紀中ごろにアフガン人による国家形成が始まり、19世紀末に国家の体裁をほぼ整え、1919年に独立国として国際的に承認された。1973年、建国以来の王制が倒れ、共和制となる。1978年アフガニスタン民主共和国、1987年アフガニスタン共和国となる。正称はアフガニスタン・イスラム共和国Islamic Republic of Afghanistan。領域はヒンドゥー・クシ山脈を中心とした内陸国で、多民族国家である。この地域はかつてはユーラシア大陸の東西交通路とインドを結ぶいわゆる「文明の十字路」にあたる要地であったが、科学、技術の進歩や産業革命などヨーロッパの発展の影響を受けることが少なく、近代化から取り残されて現在に至っている。面積65万2225平方キロメートル、人口2714万5000(2007推定)。首都カブール。

[勝藤 猛]

自然

面積は日本の1.7倍、北緯29度から38度までで、日本の本州より少し南にあたる。北東から南西にかけていくつもの山脈が走っており、ヒンドゥー・クシ山脈と総称される。北東に高く、南西に向かって低くなる。最高峰はノシャーフ山(7470メートル)である。この山脈の北側はトルキスタンアフガン・トルキスタン)とよばれ、標高数百メートルの平地をなし、気候温和で農業に適している。主要河川はいずれもヒンドゥー・クシ山脈に源を発する。山脈以北では、オクサス川(アムダリヤ)がパミール高原に源を発し、上流部がタジキスタンとの国境をなしアラル海に注ぐ。またムルガーブ川が北流して、トルクメニスタンに入る。山脈の南側では、カブール川が東流してパキスタンに入ってインダス川に注ぐ。またヘルマンド川が南西に流れ、イランとの国境付近の湖に流れ込む。ハリー・ルード川はヘラート平野を灌漑(かんがい)し、その一部がイランとの国境をなす。

 気候は地域、とくに標高によって差異があるが、一般に乾燥気候で夏乾冬雨である。首都カブール(北緯34度33分、標高1766メートル)では、平均最高気温は7月で24.4℃、最低は1月で零下2.8℃、平均湿度の最高は1月の73%、最低は6~7月の38%である。年降水量は約340ミリメートルで、その7割が1~4月に降り、7~9月にはほとんど降雨がない。この国でもっとも気温の高いのは南西部で、夏季の最高はつねに40℃を超え、乾燥した無人の荒野となっている。ヘラート地方では「120日風」とよばれる北風が夏に吹く。南東部山地にはインド洋のモンスーンが及び、夏雨冬乾で、年降水量は500ミリメートルを超え、森林を育てている。南部の都市カンダハール(北緯31度30分、標高1010メートル)の平均最高気温は7月で32.1℃、最低は1月で5.5℃、平均湿度の最高は2月の59%、最低は6月の23%、年降水量は198.1ミリメートルである。「カブールに金(きん)はなくても、雪がなくてはならぬ」という諺(ことわざ)がある。カブールの住民を養っているのは、その西方の山地に積もる雪であるという意味である。秋から冬にかけて山に降った雪は、融(と)けて表流水となるか、またはしみ込んで地下水となる。これらの水を住民が利用するのである。山地は気温が低いから雪はわずかずつ融ける。夏の末に積雪がほとんどなくなったころに、また新雪が降るわけで、山地には1年を通じて雪が保たれ、これが人間と家畜の飲料水や農作物の灌漑用水となっている。

[勝藤 猛]

歴史

「アフガン人」の名は、10世紀のペルシア語の地理書に、現在のアフガニスタンとパキスタンの国境付近の山地民としてみられる。14世紀の史書では、同じ地域をアフガニスタンとよんでいる。同族は東に進んで、15~16世紀にインドのデリーを中心としてロディー朝とスール朝を建てた。ムガル朝のアウランゼーブ皇帝の時代に、パシュトー語古典詩人ホシュハール・ハーン・ハタク(1613―1689)が出た。1722年ギルザイ系のアフガン人がイスファハーンを占領し、サファビー朝を崩壊させた。同朝末期に登場したナーディル・シャー・アフシャールはアフガン人を駆逐し、インドに遠征してデリーを一時的に占領し略奪した。帰国したナーディルが1747年6月に暗殺されると、彼のもとでアフガン人部隊長であったドゥッラーニー系のアフマド・シャーが故郷カンダハールに戻り、7月に推されて部族連合の長となった。これがアフガニスタン建国の始まりである。彼は東へ西へと征服戦争を繰り返し、領土を拡大した。その子ティームール・シャーは都をカンダハールからカブールに移した。

 19世紀に入ると、アフガニスタンの東方には、ムガル朝にかわってイギリスが強敵として出現した。一方、北方ではロシアがトルキスタンの諸ハン国を圧倒して勢力を拡大していた。イギリスとロシアはともにアフガニスタンに働きかけた。両大国の間に揺れ動くアフガニスタン政府の態度にいらだったイギリスは、二度にわたって軍隊をインドからアフガニスタンに入れた。これがアフガン戦争である。しかし二度ともイギリスは損害を出しただけで、完全に征服するには至らなかった。

 アブドゥル・ラフマーン(在位1880~1901)は、専制君主として国内統一を図るとともに、イギリスと交渉してアフガニスタン国家の育成に協力させた。これはイギリスからみれば、この国をロシアに対する緩衝国にする利益となった。1919年イギリスから外交権を譲られて独立したアフガニスタンの進路は、西洋化と国粋主義の両極の間を揺れ動いた。内陸国という地理的条件から、国粋主義に傾斜するのはやむをえなかった。第二次世界大戦後も、東西の緊張の間で非同盟中立を堅持してきた。しかし東と西の隣国で明らかに親西欧のパキスタンとイランに対抗意識をもっていたため、必然的に北隣の大国ソ連に依存するようになった。

 1973年、王族で元首相のムハンマド・ダーウードが、国王ザーヒル・シャーの外遊中にクーデターを起こし、共和制を宣言、自ら大統領となった。国王は滞在地イタリアから退位の書簡をダーウードに送った。1978年、青年将校を中核とするクーデターが発生、ダーウード大統領を殺害、ヌール・ムハンマド・タラキーを首班として、左翼的・親ソ的体制が出現した。1979年、ソ連軍の進駐(1989年撤兵)とともにバブラク・カールマルが全権を握ったが、1986年失脚。1987年ナジブラが大統領に就任した。

[勝藤 猛]

政治

アフガニスタン最後の国王ザーヒル・シャーの長い治世(1933~1973)の末期、1970年当時の政治体制は次のようであった。まず行政府としては内閣があり、首相の下に外務、内務、国防、法務、計画、大蔵、商業、公共事業、文部、情報文化、郵政、厚生、鉱工業、農業・灌漑の14省と、省に準ずるものとして部族局が置かれた。各省大臣のほかに副首相が1~2名いて、専任または省大臣兼任であり、1963年まで王族が首相であった。地方行政区分として、全国が以前は7大州、7小州に分かれていたが、1964年に29の州(ウィラーヤト)に再編され、現在では34の州がある。州の下には県(ウルスワーリー)または郡(アラーカダーリー)があった。村は自治体である。立法府として上下両院があり、上院は勅選議員28、選挙による議員56、計84、下院は選挙による議員215から、それぞれなっていた。両院のほかに「ロヤ・ジェルガ」(大集会)という、国家の非常時に開かれる会議があった。これは「ジルガ」というアフガン人の部族集会の慣習に由来するもので、構成員は両院議員と州議会議長であった。司法府として、首都に最高裁判所があり、長官以下9名の判事(俗人と聖職者とからなる)がいた。その下に控訴裁判所がカブール、カンダハール、マザーリ・シャリーフの三大都市に、地方裁判所が州ごとに、初級裁判所が県ごとに、それぞれ置かれていた。1964年発布の憲法によれば、イスラム教が国家宗教であり、儀式はスンニー派のハナフィー学派によることが規定されていた。またイスラム教の伝統に従って、貨幣が国王の名によって鋳造され、モスクでの金曜の説教で国王の名が唱えられることも定められていた。

 1988年4月、アメリカ(レーガン大統領)、ソ連(ゴルバチョフ書記長)、アフガニスタン(ナジブラ大統領)、パキスタン(ブット首相)4国の間でアフガニスタン和平協定が成立し、翌1989年2月までにソ連軍は撤退を完了した。その後まもなくナジブラ政権に反対する武装諸集団の活動が活発になり、首都を攻撃するや、1992年、ナジブラは大統領を辞任し、タジク人のラバニを元首とする連合政権が樹立された。しかし政情は安定から遠く、内戦が絶えなかった。1994年ごろから、イスラムへの回帰を訴える神学生の武装集団タリバン(「宗教学生たち」の意)が急速に勢力を拡大し、1996年9月にカブールを制圧。それまで同市の国連施設内に保護されていたナジブラ前大統領を殺害した。ラバニ政府は崩壊し、タリバンがほぼ全土を支配した。2001年9月にアメリカで同時多発テロが起こり、アメリカ政府はアフガニスタンに潜伏しているとみられた、この事件の首謀者とされるオサマ・ビンラディンの引渡しを要求した。しかしタリバンはこれを拒否したため、米英連合軍はアフガニスタン攻撃を開始した。同時に反タリバン勢力である北部同盟も反攻を開始し、11月には首都カブールを制圧、タリバン政権は崩壊した。これらの動向を踏まえ、国連などの仲介、助言を受け、12月に暫定行政機構が発足、議長にハミド・カルザイHamid Karzai(1957― )が就任。2002年6月暫定政府に移行し、大統領にカルザイを選出した。2004年1月ロヤ・ジェルガ(国民大会議)において新憲法を採択。10月に初の大統領選挙が実施され、カルザイが当選した。大統領の任期は5年。2005年には国会の下院議員と県議会議員の選挙が行われた。国会は二院制で、上院の議席数は102。県議会および郡議会の代表各34名と大統領が指名する34人で構成され任期は4年。下院の議席数は249で、うち68は女性枠。任期は5年である。一方、タリバンは政権から放逐されたものの、反政府武装闘争を継続している。2007年7月の韓国人拉致(らち)事件、2008年4月の大統領暗殺未遂事件などをはじめ各地でテロが増加しており、タリバンやアルカイダなどが関与しているといわれている。さらに2008年8月には日本のNGO(非政府組織)職員1名が武装グループに拉致・殺害されるという事件が起きている。

 国軍の兵力数は陸軍5万、空軍1400。多国籍軍により構成される国際治安支援部隊(ISAF)の兵力数は41か国で計5万1350(2008年末現在)である。

[勝藤 猛]

経済・産業

アフガニスタン経済を支えるものは、農業、牧畜という伝統的産業であって、2004年の推計では就業人口の65.6%が農業に従事している。そのうえ天然資源に乏しいため、世界でもっとも貧しい国の一つである。現在、天然資源でもっとも重要なのは石油であるが、隣国イランと違って、この国では精力的な探査にもかかわらず油田は発見されていない。ただトルキスタンのジョーズジャーン州のハージャ・ゴーゲルダクとヤティーム・タークで天然ガスが発見され、1967年以来採取されている。技術も資本もソ連に依存し、ガスの一部は援助の返済としてソ連に送られていた。しかし、ソ連技術者の撤収や内戦の影響を受け、その後の開発は進んでいない。その他の鉱物資源は種類も量も少ない。石炭はバグラーン州やサマンガーン州の三つの炭鉱から産する。いずれもヒンドゥー・クシ山脈以北に位置し、首都カブールへの輸送に難点がある。岩塩がターリカーン付近に、また半貴石であるラピスラズリがバダフシャーン州に産し、カブールで細工される。

 アフガニスタンの主要産業は農業である。乾燥地帯に属しているため、人工灌漑(かんがい)を必要とし、農地面積は灌漑用水量によって規制される。灌漑方法としては、大部分が河川の水を引くものであるが、西アジアに広くみられる「カナート」または「カーレーズ」とよばれる人工地下水路によって地下水を地表に導く方法もある。土地保有の特色としては、自作農が多く、大土地所有は発達していない。1960年当時、全作付耕地のうち自作経営地は、イランの28%に対してアフガニスタンは60%であった。その後、国内情勢の悪化とそれに続く内戦によって耕地面積の3分の1が破壊されたといわれている。2001年の推計によると、耕地面積は791万ヘクタールで、うち239万ヘクタールが灌漑されていた。2005年には、農地(耕地・樹園地)面積は約805万ヘクタール、牧場・牧草地面積は3000万ヘクタールとなっている。2006年における農産物の生産量で一番多いのは小麦で320万トン、次いで米54万トン、トウモロコシ24万トン、イモ類24万トンとなっており、果樹類ではアーモンド、ブドウの生産量が多い。近年、農業で大きな問題となっているのが、アヘンの材料となるケシの栽培である。ケシの生産量は一時減少したが、2002年以降ふたたび急増し、2004年には4200トンにのぼった。とくに南部地域に多く、武装組織タリバンの経済基盤強化につながることが心配されている。

 飼育している家畜を頭数順にあげると、ヒツジ、ヤギ、ウシ、ロバ、ラクダ、ウマとなる。ヒツジのなかには、生まれてすぐ殺してその毛皮をコートや帽子に用いるカラクル・ヒツジを含む。2005年の家畜頭数はヒツジ880万頭、ヤギ730万頭、ウシ370万頭などとなっている。牧畜の形態としては、農家が自家消費のために少数を飼育するものと、企業として大規模に飼うために移動する遊牧とがある。遊牧民のほとんどはアフガン人である。ヒンドゥー・クシ山脈以南に住む者は、同山地、いわゆるハザーラジャートに夏営地をもつ。パキスタンから国境を越えてここへ上ってくる者もある。アフガン・トルキスタンでは同国北東隅のシーワ湖周辺が夏営地である。

 2007年の国内総生産(GDP)は116億3000万ドル、一人当り国内総生産は319ドル(2006)となっている。総貿易額のうち輸出は約9億ドル、輸入は約41億ドル(2005)で大幅な輸入超過である。主要産業が農業と牧畜であるため、輸出品目も、ブドウ、ザクロ、リンゴ、スモモ、アーモンド、レーズン、ピスタチオなど生鮮や乾燥の果物、ナッツ類、カラクル羊皮、綿花、じゅうたん、羊毛といった農畜産品が上位を占める。おもな輸入品目は自動車およびその部品、鉄鋼、化学繊維などである。貿易相手国は、2006年の統計によれば、輸出先として、パキスタン、アメリカ、ドイツ、ロシア、インド、輸入先として、シンガポール、日本、韓国、中国、インドの順である。かつてはソ連が輸出先、輸入先とも1位を占めていた。対日貿易は大幅な輸入超過で、2008年(平成20)の日本への輸出額は約7500万円、日本からの輸入額は約119億6200万円になっている。

 内陸国、山岳国であるため、道路の整備は困難であったが、アメリカとソ連の援助により、この国を一周する幹線道路がほぼ完成した。とくにヒンドゥー・クシ山脈を南北に越えるサーラング峠のトンネル道路(標高3363メートル、長さ2676メートル)は、北方隣国との交通にとってきわめて重要である。

[勝藤 猛]

社会・文化

2007年推計による人口構成はアフガン人44%、タジク人25%、ハザーラ人10%、ウズベク人8%などとなっている。また、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の発表では、2007年中に約37万人のアフガニスタン難民がイラン、パキスタンなどから帰還している。2007年末での国外に逃れているアフガニスタン難民は約306万人で、そのうち約203万人がパキスタンで難民生活を送っている。アフガン人の自称は「パシュトゥン」、インド側からは「パターン」とよばれる。人種はコーカソイドで、パシュトー語を母語とする。それはペルシア語と同じくインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属し、アラビア文字で表記される。人口でアフガン人に次ぐのは、やはりコーカソイドのタジク人で、母語はペルシア語である。そのほかにモンゴロイドのウズベク人(アルタイ語族のウズベク語)とハザーラ人(ペルシア語)の人口が多い。少数のヒンドゥー教徒、シク教徒を除き、住民の99%がイスラム教徒で、その86%がスンニー派、9%(おもにハザーラ人)がシーア派である。建国以来アフガン人が支配民族であり、タジク人の勢力がこれに次ぐ。ハザーラ人は下層階級であったが、共和制になって高官への進出もみられた。

 憲法上、パシュトー語とダリ語(アフガニスタンのペルシア語の公式名)とが公用語と規定されているが、実際はペルシア語が公用語、共通語である。政府はアフガン民族主義からパシュトー語の普及に努力してきたが、成果はあがっていない。住民の多くについて、自己の母語と共通語であるペルシア語の「2語併用」の現象がみられる。

 衣料の材料は、ワタと、ヒツジまたはヤギの毛である。裾(すそ)の長いシャツと幅の広いズボンが伝統的服装の基本である。洋服はまだ一般的でない。

 主食は小麦のパンで、大麦やトウモロコシで補う。米はぜいたく品で、特別の場合にしか食べない。副食品として重要なのは乳製品で、おもにウシの乳を加工、ヨーグルトやチーズにしてパンとともに食べる。肉はヒツジからとる。飲料は茶で、紅茶と緑茶がある。多くの人はナイフやフォークを用いずに手づかみで食べる。

 家屋の主要材料は日干しれんがである。普通の土を水で練って枠にはめ、天日に乾かす。それを積み上げ、普通の土を練った泥で固める。屋根は木の梁(はり)を渡して平屋根にするか、れんがをドーム状に積んで球形の屋根とする。室内には机、椅子(いす)、ベッドはなく、床に敷物を敷いて座り、ふとんを敷いて寝る。

 教育の普及は遅れており、成人の識字率は、男43%、女14%(2003)。学校制度はイギリス領インドの影響を受けて19世紀末に始まり、フランス、ドイツも中等学校の設立に貢献した。第二次世界大戦後、アメリカを中心とする西側諸国の援助で、六・三・三・四制ができあがった。王制時代の大学は、1946年に総合大学となったカブール大学と、1964年設立のニングラハール医科大学の2校だけであった。その後、工科大学などができ、5校となった。学校教育の底辺をなす初等教育は徐々に普及しつつある。辺地の農村では、読み書き計算を教える1クラスだけの学校が巡回教師によって運営される。読み書きの基礎の程度としては、イスラム教のモスクで僧侶(そうりょ)が行う授業がなお機能している。

 女性の地位は変化しつつあり、1959年に服装革命が起こった。この年の8月の独立記念祭の一行事で、ダーウード首相をはじめ政府高官が、素顔を出した夫人を同伴して公衆の前に登場したのである。チャドルというかぶり物で全身を覆う習慣は、このときから崩れ始めたが、まだ完全になくなってはいない。しかし、1996年以降のタリバン政権下では女性の教育・屋外労働が禁止されるなど、厳格なイスラム復興主義(原理主義)による統治が文化面でも行われた。なお、2001年2月タリバン政権は「仏像破壊令」を発し、国内の遺跡・博物館などで仏像破壊を開始、有名なバーミアン石窟でも大仏、壁画などが破壊され大部分が失われた。

 アフガニスタン国民の精神を支配しているのはイスラム教である。それは7世紀後半にこの地域に入ってきて、それまでの仏教やゾロアスター教を消滅させた。イスラム教はこの地に深く根を降ろし、西洋との交流にもかかわらず権威を失っていない。町にも村にもモスクがあって1日5回の礼拝が行われており、またイスラム暦9月の断食もかなり忠実に守られている。またこの国の教養でもっとも重要な分野はペルシア古典文学で、サーディーの『薔薇(ばら)園』などが依然として愛読されている。なお公式の暦はイラン暦で、春分を元日とする太陽暦である。

 こうした伝統的文化が守られている反面、ジャーナリズムの発達は未熟である。識字率が低く、したがって読者層が薄く、また経済事情も悪いため、出版は盛んではない。すべての出版は政府の監督下にあった。ただ1963年の王族首相ダーウードの退場と、1964年憲法による「言論の自由の保障」という一時的な百家争鳴の時期に、『ハルク』(1966年4~5月)、『パルチャム』(1968年3月~1969年7月)という民間新聞が発刊された。いずれも発行期間は短かったが、これらに結集した運動家はそれぞれの政治団体をつくり、以後この国の政治に大きな影響を及ぼした。民主共和国成立時の革命評議会議長ヌール・ムハンマド・タラキーは『ハルク』の発行人、カールマルは『パルチャム』の寄稿者であった。人民民主党は両派の連合体であった。1998年にタリバンが政権を握ると、マスコミは制限され、テレビ放送も禁止された。しかし、タリバン政権崩壊後にテレビ放送は復活し、民間新聞も刊行されている。

[勝藤 猛]

日本との関係

石油を産しないアフガニスタンは、日本にとって経済的関心の対象にならなかった。しかし、この地にシルク・ロードのおもかげがもっともよく残っていることで、日本人旅行者の興味をひいている。学問の分野では、仏教がインドから日本に伝来する経路にあたることから、仏教遺跡の調査が行われ、また少数民族がいまも保存しているモンゴル語の研究や、アフガン人遊牧民の実態調査もなされたが、ソ連軍の進駐以来、両国の関係はやや疎遠となった。日本政府は、1979年(昭和54)12月以降、アフガニスタンの累次政権を政府として承認していなかったが、2001年(平成13)アフガン暫定政権を政府として承認。大使館は、1934年に日本国公使館として開設(1955年大使館に昇格。1979年12月以降は臨時代理大使レベル)。1989年閉鎖されたが、2002年ふたたび開設した。在日アフガニスタン大使館も1997年以降閉館状態にあったが、2002年活動を再開している。2002年に川口順子(よりこ)外務大臣がアフガニスタンを訪問、2003年にはカルザイ大統領が訪日。以後活発な要人往来がある。また、道路や農村開発などの復興支援や、人道支援、医療支援などアフガニスタン難民への援助も行っており、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件発生以降、2009年3月までの対アフガニスタン復興支援総額は17億8300万ドルとなっている。

[勝藤 猛]

『勝藤猛他著『中東現代史Ⅰ』(1982・山川出版社)』『永井道雄監修、板垣雄三編『新・中東ハンドブック』(1992・講談社)』『前田耕作・山根聡著『アフガニスタン史』(2002・河出書房新社)』『川端清隆著『アフガニスタン――国連和平活動と地域紛争』(2002・みすず書房)』『鈴木均編著『アフガニスタン国家再建への展望』(2007・明石書店)』『鈴木均編『アフガニスタンと周辺国』(2008・アジア経済研究所)』『渡辺光一著『アフガニスタン――戦乱の現代史』(岩波新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「アフガニスタン」の意味・わかりやすい解説

アフガニスタン
Afghanistan

基本情報
正式名称=アフガニスタン・イスラム国Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afgānestān, Islamic Republic of Afghanistan 
面積=65万2864km2 
人口(2010)=2449万人 
首都=カーブルKābul(日本との時差=-5時間) 
主要言語=パシュト語,ペルシア語(ダリー語) 
通貨=アフガニAfghani

アジア大陸のほぼ中央部に位置し,北緯29°30′から38°30′まで,東経60°30′から75°にわたる地域を占める。北はトルクメニスタン,ウズベキスタン,タジキスタン3国,西はイラン,東と南はパキスタン,北東は中国と,それぞれ接している。

内陸国で海に面しないため,海外への通路はパキスタンを経由する。面積は日本の約1.7倍である。この国の北東から南西にかけてヒンドゥークシュ山脈が走っており,それは北東に高く,南西に向かって低くなる。最高峰はノシャーフ(7470m)で,この国の北東隅にある。平野はヒンドゥークシュ山脈の北または南にあり,北のそれはアフガン・トルキスタンと呼ばれ,トルキスタン地方に連続している。集落の高度は標高約400mから2600mに及ぶ。主要河川としては,中央山地に源を発し,東流してパキスタンに入ってインダス川に注ぐカーブル川,同じく中央山地に発して南西に流れ,イランとの国境付近の湖に注ぐヘルマンドHelmand川,西流してヘラートの地名の起源となったハリー・ルードHarī Rūd川,およびパミールから流れ出て,その上流部がタジキスタン,ウズベキスタンとの国境をなすアム・ダリヤなどがある。ヒンドゥークシュ山脈を南北に越えるおもな峠としては,カーブル寄りには,アレクサンドロス大王や玄奘が通ったハーワークKhāwak峠(3600m),1932年に自動車道として開かれたシバルShibar峠(3260m),および64年にサーラングSālang峠(4075m)の下に開通したトンネル(3363m,長さ2.7km)がある。西方,ヘラート寄りにはパロパミスス山脈を越えるサブザクSabzak峠(2500m)がある。

 アフガニスタンの気候は概して乾燥気候で,寒暑の差が大きい。首都カーブル(東経69°10′,北緯34°30′,標高1800m)を例にとって,1965年10月から翌年9月までの気候を見ると,月平均気温の最高月は6月で,32.1℃,最低月は12月で,-8.3℃である。月平均湿度の最高は2月の76%,最低は8月の25%である。年雨量は318.4mm,そのうちの約7割が2~4月の3ヵ月に降る。この国で気温を決める要素は緯度よりも高度で,例えばトルキスタンはカーブルより北にあるが,標高が低いため気温は高い。

 人口の約半数を占めるのがパシュトゥーン(アフガン,パターンPathānとも呼ばれる)族で,南東部山地を故地とし,それとほぼ同数が地続きのパキスタン北西部に住んでいる。19世紀後半からトルキスタンへの移住も見られる。アフガニスタンは建国以来この民族が支配して現在に至っている。人口と勢力においてパシュトゥーン族に次ぐのがタジク族(構成比約30%)で,全国各地に住み,ペルシア語を母語とする。アフガニスタン・トルキスタンの主要な住民はウズベク族トルクメン族で,チュルク系の言語を用いる。中央高地たるハザーラジャートの住民はモンゴル的容貌のハザーラ族である。そのほか特異な民族として,今なおモンゴル語を保存しているモゴール族,東部山地の住民で19世紀後半にイスラムに強制的に改宗させられたヌーリーNūrī族,西部のチャハール・アイマーク族がある。

アフガニスタンAfghānistānとは,〈アフガン人の地〉の意で,その領域が現在の形をとったのは19世紀末である。この地は,中央アジア,西アジア,インドを結ぶ交通の要衝にあたり,古代から諸民族・諸文明の交点となっていた。前2千~前1千年紀にアーリヤ系民族の移住が行われ,前6世紀にはアケメネス朝ペルシアに属した。アレクサンドロス大王の東征以後,ギリシア・ヘレニズム文化の影響をうけ,これは,バクトリア王国支配(前3~前2世紀)をへて,クシャーナ朝時代に,仏教文化と融合したガンダーラ美術となって結実する。クシャーナ朝は,カニシカ王時代に北インド・アフガニスタンを中心に東西を結ぶ一大版図をつくりあげるが,アフガニスタンは4世紀中ごろにササン朝の支配に服し,5世紀には一時エフタルの侵入をこうむった。

 アフガニスタンの領域に,アラブによるイスラム勢力が入ってきたのは7世紀後半で,その当時は少数の改宗者を出しただけで,仏教やゾロアスター教などの信者がなお多くいた。9世紀のターヒル朝,サッファール朝などのイスラム政権の下で,信者はしだいにふえていった。その次のサーマーン朝(875-999)の下で,近世ペルシア語とその文化が栄え,それはガズナ朝(977-1186)に受け継がれた。ガズナに都したこの王朝は,アフガニスタンの地における最初のイスラム王朝で,ペルシア文化を保護するとともに,北インドへの侵入をくりかえして,その地のイスラム化を促進した。ペルシア語長編叙事詩《シャー・ナーメ》の作者フィルドゥーシー,《インド誌》のビールーニーは,この時代の人である。

 982年に作られた作者不明のペルシア語地理書《世界の諸地域》によると,〈アフガン〉人がスレイマン山脈中に住んでいるとある。またガズナ朝の軍隊の中で〈アフガン〉人が一部隊を編成していた。彼らは山地からしだいに西方の平地,ガズナ,カンダハール方面へ拡大していった。また同書には,ハラジュ・トゥルクKhalaj Turkと呼ばれるものがガズナ付近に住んでいたとある。彼らはもとトルキスタンにいたのが南下して来たものである。その一部はインドに進んで,デリーを中心にハルジー朝を建てた。ガズナ付近に残ったものは〈アフガン〉と同化し,その言語パシュトゥー語を採用し,以後アフガンと同族と見なされ,ギルザイの名で呼ばれるようになる。現在,アフガン族は自らを〈パシュトゥーン〉と称する。この名は16世紀ごろに始まり,その複数〈パシュターナ〉から〈パターン〉の語ができて,インド側からはこの名で呼ばれている。

 アフガン族でまず歴史に登場するのはギルザイである。彼らはヘラートからイランに攻めこみ,1722年,サファビー朝の首都イスファハーンを占領した。しかし彼らの支配は永続せず,サファビー朝の後から興ったナーディル・シャーによって撃退された。以後ギルザイは政治の舞台から遠ざかることになる。ナーディル・シャーはアフガニスタンを経由してインドを征服し,ムガル帝国に打撃を与えたが,帰国後,47年6月に暗殺された。彼の指揮下にあったアフガン兵たちは故郷カンダハールに帰り,翌月,アフガン部隊の指揮官であったアブダリー(のちドゥッラーニーDurrānīと改称)系のサドーザイ家のアフマド・シャー・ドゥッラーニーを擁立して,部族連合を結成した。これがアフガニスタンの建国(ドゥッラーニー朝)である。彼はインドやイランに遠征して戦利品を獲得することによって自らの支配権を維持した。しかし王としての彼の権威は,個人的能力と,ドゥッラーニー諸族長の勢力の均衡に頼るものであった。19世紀に入ってドゥッラーニー内部の勢力争いの結果,バーラクザイBārakzaiがサドーザイに代わって統治権を得,1826年,ドースト・ムハンマドDōst Muḥammad(1793-1863)が王となった。以後のアフガニスタンの王位は,彼の家系が継承することになり,彼の名をとってムハンマドザイ(またはバーラクザイ朝)と呼ばれる。その支配は1978年まで続く。

 19世紀のアフガニスタンは,国内的には国家形成期であり,国際関係ではイギリスとロシアの競争の場であった。インドを支配していたイギリスは,ロシアの勢力がトルキスタンのホーカンド・ハーン国などイスラム諸政権を圧迫しつつ南下し,アフガニスタンに接近し,さらにこれに浸透しようとしていることが,インドに対する脅威であると考えていた。そこでイギリスは2度にわたって軍隊をアフガニスタンに派遣し,カーブルその他の東部の主要都市を占領した。これが第1次,第2次イギリス・アフガニスタン戦争(1838-42,78-80)である。2度とも,カーブル駐在の外交代表が殺害されたり,戦闘において軍隊が敗北したりして,イギリスは大損害を被った。そこでイギリスはこの国の直接支配をあきらめ,国王アブドゥル・ラフマーン`Abd al-Raḥmān(1844-1901,在位1880-1901)を援助することによって,この国をロシアに対する防壁として利用することにした。アフガニスタンとしては,内政上は,この国王の下で,従来の部族連合から専制国家へ脱皮し,王権の確立と諸部族の弱体化が達成された。第1次世界大戦後,1919年,イギリスの疲弊に乗じて,今度はアフガニスタン側がインドに侵攻し,第3次イギリス・アフガニスタン戦争となった。まもなく双方から停戦の議がおこり,ラーワルピンディー条約を結んでそれまでイギリスが握っていたこの国の外交権を獲得した。これがアフガニスタンの独立である。

 この国にとって西洋との唯一の通路はイギリス支配のインドであった。インドを通じて西洋の文物を過度に輸入することは,国の独立を危うくするおそれがあった。独立は西洋化に優先していた。しかし20世紀初頭の西アジア諸国,例えばトルコやイランの改革運動を目撃した知識人の一人,マフムード・タルジーMaḥmūd Tarzī(1865-1933)は,1911年に新聞を発行して,国内条件との調和のとれた近代化を主張した。タルジーの娘ソライヤーをめとった国王アマーヌッラーAmānullāh(1892-1960,在位1919-29)は,かぶりものなしの王妃を伴って西アジアとヨーロッパの諸国を訪問して,社会改革と経済開発の志を抱いた。帰国後それを実行に移そうとしたが,宗教家や部族民など保守派の反対にあい,亡命を余儀なくされた。その後を継いだムサーヒバーン家のナーディル・シャーは,急激な社会改革よりも経済開発に重点を移した。

 第2次世界大戦勃発に際して中立を宣言したが,外国との貿易が激減し,とくにドイツからの建設資材輸入の途絶は,経済発展を停滞させた。日本は,1934年,カーブルに公使館を開設,第2次大戦による中断の後,55年に国交を再開して大使館を設置した。

第2次世界大戦が終わったとき,国王ザーヒル・シャーZāḥir Shāh(在位1933-73)は30歳であった。そして父王ナーディル・シャーの弟ムハンマド・ハーシムMuhammad Hāsimが首相として事実上の統治者であった。その地位はハーシムの弟シャー・マフムードに受け継がれ,さらに53年から10年間はザーヒル・シャーのいとこムハンマド・ダーウドMuḥammad Dāwud(1912-78)が首相として実権を握った。

 政府の外交方針としては非同盟中立を維持し,米ソ双方から援助を受けたが,東隣のパキスタンに対しては強硬な態度をとった。すなわちパキスタンとの国境は1893年にインドの支配者たるイギリスがアフガニスタンに強制したもので,パシュトゥーン族の住地を二分する不当な国境であるとして,政府はこれを承認せず,ガファール・ハーンが始めたパキスタン側のパシュトゥーン族の反政府・自立の運動を支援した。これによりアフガニスタンとパキスタンの対立は激化して,1961年には国交断絶・国境閉鎖にいたった。パキスタンを経由しないでアフガニスタンと西側諸国との貿易は成り立たず,アメリカはアフガニスタンよりもパキスタンを選び,アフガニスタンはやむなく北隣の大国ソ連に依存することになった。これはこの国の地理的必然でもある。

 63年,パキスタンとの断交による経済の停滞の責任を問われ,またようやく実権を得てきた国王ザーヒル・シャーとの対立に敗れ,ダーウド首相が辞任し,平民宰相の時代に入り,パキスタンとの復交も実現した。64年の新憲法発布と翌年の総選挙は,百家争鳴の時代を現出し,以後のこの国の運命にかかわる諸条件を作り出した。すなわちバブラク・カルマルBabrak Kārmal(1929-96)が下院議員に当選して政治の舞台に登場したこと,カーブル大学や諸高等学校の学生運動が高まったこと,労働組合が組織されストライキも行われるようになったこと,ヌール・ムハンマド・タラキーNūr Muḥammad Tarakī(1918?-79)らの新聞《ハルク(人民)》,カルマルらの《パルチャム(旗)》が発刊され,政治団体としての言論活動が始まったことなどである。これらの条件が,1933年の即位以来,パシュトゥーン族のムハンマドザイ系のムサーヒバーン家出身のザーヒル・シャーと,彼を支える同家一門による,40年間にも及ぶ安定した支配をくつがえすことになった。

 73年,かつての実力者ダーウドが,新しい一政治勢力となった青年将校にかつがれて復活し,王制廃止を宣言して,自ら大統領に就任した。国王は滞在地イタリアから退位の書簡をいとこのダーウドに送り,国内の王族も降伏して,ほとんど流血を見ずに〈アフガニスタン共和国〉が成立した。しかしダーウドを支持した軍部やハルク派,パルチャム派も,5年後には彼と対立し,78年4月,彼を殺害して〈アフガニスタン民主共和国〉を成立させた。革命評議会議長・首相タラキー,副議長・副首相カルマル,副首相・外相ハフィーズッラー・アミーンḤafīẓ Allāh Amīn(1929-79)をいただく社会主義政権である。しかしこの政権も不安定で,中央ではハルクとパルチャムの対立から,7月にはカルマルらパルチャム派の閣僚が大使に転出させられ,9月には解任された。79年にはハルク内部の抗争からタラキーが死亡してアミーンが支配権を握り,同年12月にはソ連軍が進駐してモスクワからもどったカルマルが政権を奪い,アミーンが処刑されるという大事件が起こった。また地方でも反政府・反ソ連軍の反乱が相次ぎ,多くの武装ゲリラ組織(ムジャーヒディーンmujāhidīnと呼ばれる。ジハード(聖戦)を行う者の意)が生まれた。これら反政府勢力をパキスタン,アメリカ,イランが支援するなどして戦争は長期化し,中央政府の支配領域は首都および一部の地域のみとなった。

アフガニスタンの経済を規定する条件は,第1には内陸国・山岳国であることと,第2には鉱物資源に乏しいことである。鉱物資源としては,石炭がバグラーン州に2ヵ所,サマンガーン州に1ヵ所の炭鉱に産する。また岩塩がタハール州に産する。るり色の半宝石ラピスラズリは古代から西アジア一帯で装飾に用いられたもので,バダフシャーン州に産し,1966年には8万5000tであった。1960年にジョーズジャーン州で天然ガスが発見され,その大部分は68年以来,援助の見返りとしてパイプラインでソ連に送られている。以上の主要品目はすべてヒンドゥークシュ山脈以北に産することは注目すべきで,以南にあるカーブル,カンダハールなどの大都市へ輸送する困難が伴う。石油は1930年代以来断続的に,50年代からは連続的に全国各地で探索が行われたが,いまだ採掘にいたっていない。

 この国の主要産業は牧畜と農業で,人口の約90%がこれに従事している。牧畜には2種あって,定住して農業を主として行い,少数の家畜を自家消費のために飼う場合と,多数の家畜を企業として所有し,その飼育のために季節的移動を行ういわゆる遊牧とがある。遊牧民は全人口の15~20%を占める。おもな夏営地は,北東部のシワShiwa湖付近と中央山地ハザーラジャートである。パキスタンから国境を越えて往来する者も少なくない。遊牧民のほとんどはパシュトゥーン族である。家畜は第1に羊,ついで牛,ヤギである。農業生産物の中心は主食となる小麦,大麦,米,トウモロコシである。換金作物としての綿花とテンサイも政府の奨励により栽培されるようになった。

 アフガニスタンの土地所有形態の特色として小土地所有の優勢が挙げられ,農地の約60%が自作である。農村は住居が1ヵ所に集中しており,その周囲に耕地がある。乾燥地帯であるから人工灌漑が必要で,主として河川の水を引いて用いる。一部の地方ではカレーズ(地下水を人工地下水路で導く設備。カナートとも呼ばれる)が設けられている。小麦,大麦の作付けに2種類あり,秋にまいて人工灌漑を行い,冬を過ぎて夏に収穫するものと,春に天水を利用して作付けを行い,夏に刈り取るものとある。後者は雨量が足りないと栽培不能となる。農業技術として,機械化はほとんど行われておらず,昔ながらの人間と家畜(おもに牛)の労働に頼っている。穀物以外の作物としては,アルファルファやクローバーなどの飼料作物,ブドウ,スイカ,メロンを主とする果物がある。農家で飼っている牛の乳および乳製品は穀物と並ぶ重要な栄養源である。この国の南部でヘルマンド川にダムをつくって水量を調節し,灌漑に利用して遊牧民を定着させる計画が,第2次大戦後まもなくアメリカの援助によって始まり,ほぼ完成したが,その成果はむしろ失敗と評価されている。

 工業は未発達で,工場も規模が小さく,国内の需要を満たすにいたっていない。まず紡織においては,カーブル北方のジャバルッシラージに1930年代に綿紡織工場が設立された。42年にはトルキスタンのプリ・フムリーの工場が操業を開始し,60年にはカーブル北方のグル・バハールの工場が完成した。これらの工場に供給するための製綿工場はクンドゥーズにあり,綿繰りのほかに,綿実油とそれから食用油やセッケンをつくる工程も備えている。人造絹糸では58年にカーブルに工場がつくられた。羊毛織物はカーブルとカンダハールで行われている。砂糖は,バグラーンでテンサイから,またジャララバードではサトウキビから,それぞれ生産されている。アフガニスタンは山岳国であるため,道路条件はきびしい。標高が高く険阻な個所では,積雪,崖崩れ,洪水などによって道路が寸断されるおそれがあり,不断の補修を必要とする。鉄道はまだない。

アフガニスタンは多民族国家で,各民族は自らの母語をもっている。パシュトゥーン族はパシュト語(パシュトゥー語とも),タジク族はペルシア語,ウズベク族はウズベク語,トルクメン族はトルクメン語,ハザーラ族はペルシア語である。これらのうちペルシア語(公式にはダリーDarī語と呼ばれる)とパシュト語が国語として認められている。ともにインド・ヨーロッパ語族のイラン語派に属し,アラビア文字で表記される。ペルシア語はパシュト語よりも圧倒的に豊富な文献をもっているため,書写語としてはほとんどこれだけが用いられ,また共通語として国内どこででも通用する。アフガニスタンのペルシア語はイランのそれと古典を共有するが,現代口語ではかなりの相違がある。住民の容貌は民族によってまた個人によってかなりの違いがある。服装も民族や地域や階層によりさまざまである。西洋的服装は一般的ではない。

 教育の場としては2種ある。一つは伝統的なもので,イスラムにもとづくものである。町や村ごとにモスクがあり,宗教指導者がいて,ここで住民の精神生活を指導し,教育も行われる。もう一つの教育の場は政府の手による世俗的なそれ,つまり学校である。アフガニスタンのような発展途上国においては,高等教育より初等教育が優先されなければならない。それは辺地の農村においても,読み書き計算といった最低水準において普及しつつある。この程度の教育は文字の読めない成人に対しても必要であるが,教師と教材の不足のため十分には行われていない。いわゆる近代教育は西洋を模範とするものであるから,隣国のイランやパキスタンに比べて西洋との接触の少ないアフガニスタンは劣っている。推定識字率は,1947年で6%,85年で24%である。そのうえ,この国では富の蓄積が行われていないから,都市が発達せず,都市に何世代も住みついている知識人がきわめて少ない。したがって彼らは知識人層という一つの勢力をなしていない。

 ソ連軍侵入以前のアフガニスタンはパシュトゥーン族の支配する国家で,18世紀中ごろの建国以来その地位は安泰であった。他の諸民族は従順で,パシュトゥーンにとって代わろうとはしない。ただしこの支配民族もつねに分裂している。まず都市に定住した者についていうと,彼らはこの国の共通語で書写語であるペルシア語を用い,母語であるパシュト語を失っていく。とくに最上層の知識人はパシュト語を知らないことを誇りにさえする。一方,地方のパシュトゥーン族は,国家の法よりも部族の慣習法を重んじ,仲間同士ではパシュト語を使う。彼らにとってペルシア語は〈外国語〉つまり他民族との伝達の手段である。さらに地方の住民も分裂していて,部族間・家族間の反目闘争がふんだんにある。対立の原因は財産や女性で,いったん傷害や殺人がおこれば,復讐が何世代も続くことがある。部族的分裂と相応して,パシュト語には方言が無数にあり,優勢な標準語がないため,辞書・文法書も不十分なものしかつくられていない。

 アフガニスタンは政治的にも分裂傾向をもっている。山岳国で道路が整備されておらず,運輸・通信も未発達であるから,中央と地方,地方相互の関係は疎遠である。農村は政府から恩恵も圧迫もほとんど受けない。国民は自分の生活に必要な限りでの生産・流通,それに情報伝達の手段を,政府に頼ることなく自らの手で確保している。そのため国民の生活は平和時でも混乱期でも大きな変化はない。
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古代以来,東西南北の文明を交流させ,融合してきたアフガニスタンの文化は,さまざまの要素を歴史的に埋積した重層的な様相を示している。音楽もまたその例外ではなく,古代文化の栄華を象徴するバーミヤーンの遺跡に描かれた壁画には,いくつかの楽舞図を伝えている。ペルシア的舞人,インド的楽人図など音楽文化繁栄の跡をとどめているが,東西を結ぶルートの衰退とともに,中世以来内陸の孤島と化したアフガニスタンの音楽文化の実態は,現代近くに至るまで推測の域を出ない。現代においては,国境を接する西方イラン,北のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン,南東のパキスタン,北東の一端を中国と結び,これら周辺文化の影響を深く受けながら固有の音楽をはぐくんでいる。

 伝統的芸術音楽の領域では,西部の古都ヘラートを中心にペルシア(イラン)芸術音楽の系統を継ぎ,首都カーブルを中心に南東部のジャララバードやカンダハールなどの都市部では,北インドの芸術音楽ヒンドゥスターニー音楽(インド音楽)の影響を色濃くもち,その両者を融合させた形でアフガニスタン固有の芸術音楽を継承するなど,三つの系統に分かれる。

 もっとも変化にみち豊富な伝承を伝えるのは民俗音楽であり,大きく六つの系統に分類できる。第1は,ヒンドゥークシュ山脈以外のマザーリ・シャリーフなどを中心とするウズベク族を軸とする音楽であり,アム・ダリヤをへだてて接するウズベキスタン,トルクメニスタン,タジキスタンなどの共和国の音楽と共通する要素が多い。弦鳴楽器ではタンブールやヒチャック,膜鳴の打楽器としてダイラや壺の底に羊皮を張ったゼルバガリを主体として,他の地域とも共通する脚韻の四行詩(チャルバイティ)による抒情的民謡が豊富である。第2の地域は,クンドゥーズ,ファイザバードなど北東部であり,タジク族やキルギス族などの音楽が主体である。弓奏2弦のヒチャックをとくに好むとともに,チャルバイティによるシャマリー(北の歌)の宝庫である。第3は,西部のヘラートを中心とし,イラン音楽の影響が強い。撥弦のセタールやオルガン系のハルモニウムの楽器演奏を背景に,イランの伝統的叙事詩《シャー・ナーメ》や恋物語《シーリーンとファルファド》など長大な歌を伝承している。第4の系統は,中部山岳地帯を中心に居住するモンゴル系のハザーラ族の音楽で,2弦の撥弦楽器ダンブーラの弾きうたいで恋愛詩が愛好され,とくに裏声の唱法に特徴が見られる。第5の系統は,首都カーブルを中心に,アフガニスタンを構成する主要民族パシュトゥーンの音楽である。全地域に共通するペルシア語ダリー方言の歌とともに,パシュト語によるランダイなどの固有の詩を保有し,一方ではアラブ,イランに源をもつと考えられる《ライラとマジュヌーン》などのロマンス詩も豊富である。第6の系統として,パキスタンに接する東部の山岳ヌーリスタンに,アレクサンドロスの末裔とも語られるヌーリスターニーの特異な音楽が分布し,4弦のハープなど,この地域にのみ固有な楽器も多い。

 これら民俗的音楽のほかに,現代では都市を中心にインド映画音楽をはじめ,流行的な音楽が若年層を中心に大きな展開をとげつつある。本来,典礼などの音楽を禁じたイスラム社会にあって宗教音楽は存在しないが,礼拝を呼びかけるアザーンは,きわめて象徴的な詠唱として美しい旋律を伝えている。
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百科事典マイペディア 「アフガニスタン」の意味・わかりやすい解説

アフガニスタン

◎正式名称−アフガニスタン・イスラム共和国Jomhuri-ye Eslami-ye Afghanestan/Islamic Republic of Afghanistan。◎面積−65万2230km2。◎人口−2840万人(2010)。◎首都−カブール(294万人,2009)。◎住民−パシュトゥーン人(アフガン人またはパターン人)が約40%,タジク人30%,ウズベク人,ハザーラ人など。◎宗教−イスラム(国教)99%(大部分がスンナ派)。◎言語−パシュト語,ダリー語(以上公用語)など。◎通貨−アフガニAfghani。◎元首−大統領,ガーニMohammad Ashraf Ghani(2014年9月就任,任期5年)。◎憲法−2004年1月新憲法を制定。◎国会−二院制。上院(定員102,大統領任命,州議会代表など,任期3−5年),下院(定員249,34州の代表23と遊牧民枠10,任期5年)。◎GDP−116億ドル(2007)。◎1人当りGDP−400ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−66%(2003)。◎平均寿命−男59.7歳,女62.2歳(2013)。◎乳児死亡率−19.6‰(2010)。◎識字率−36.3%。    *    *中央アジアのイスラム国。北はトルクメニスタン,ウズベキスタン,タジキスタン,西はイラン,東と南はパキスタンに接する内陸国で,北東部から北西部にヒンドゥークシ,パロパミススなどの山脈が走り,大陸性高原気候。住民はパシュトゥーン人(パシュト語)40%,タジク人(ダリー語)30%など。農業,牧畜が主で,小麦,綿花,サトウキビ,果物を産し,カラクル種の羊の皮は主要な輸出品。〔歴史〕 1747年アフマド・シャー・ドゥッラーニーが統一国家を建設。英国とロシアの勢力抗争の場となり3次のイギリス・アフガニスタン戦争を経験,1921年英・ソ連と条約を締結,完全に独立した。国王ザーヒル・シャーがローマ訪問中の1973年,軍部が無血クーデタを起こして王制を廃止した。1979年ソ連が直接軍事介入して親ソ派政府を樹立させたため,多くのゲリラ組織が蜂起してアフガニスタン戦争に発展した。1989年ソ連軍が完全撤退した後もゲリラ各派による内戦が続き,1992年反政府ゲリラ勢力がイスラム協会のラバニを首班とする暫定政府を樹立した。しかし,1996年にはイスラム神学生を中心とする新興武装勢力のタリバーンが支配地を拡大して首都も制圧し,反タリバーン同盟の諸派(北部同盟)とタリバーンとの対話が国連などの仲介により1998年に行われたが,タリバーンは国土の大半を支配していた。〔2001年9.11以後〕 2001年9月11日の米国における〈同時多発テロ〉事件(9.11事件)後,その主謀者をかくまっているとされたタリバーンを米英軍などが攻撃したため劣勢に陥り,同年12月には反タリバーン勢力によるアフガニスタン暫定行政機構が国連の仲介で発足した。2002年6月のロヤ・ジルガ(国民大会議)で,暫定政権議長カルザイが移行政権の国家元首(大統領)に選出された。2004年1月ロヤ・ジルガが,大統領制の導入,国会(二院制)の開設,男女平等,宗教の自由などを明記した新憲法を採択した。2004年10月に初の大統領選挙が行われ,カルザイが当選。2005年9月議会選挙が実施され,12月国会を招集。2006年以降再びタリバーンの攻勢が強まり不安定な情勢がさらに拡大した。2009年8月に行われた大統領選挙で,カルザイは過半数を得たが,国連によって不正が指摘された。2位の前外相アブドラが決戦投票をボイコットしたため,11月にカルザイが大統領に再選された。2010年9月国会選挙が実施され,2011年1月国会が開会した。2011年6月,米国オバマ大統領はアフガニスタンからの段階的撤退と2014年末までに米軍主体の国際治安支援部隊(ISAF)からアフガン政府への治安権限移譲を終える計画を発表,7月に撤退を開始した。2013年1月には,オバマ,カルザイ両大統領の会見で,2013年春から治安維持の権限を米軍主体の国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン側に徐々に委譲することで合意した。しかしタリバーン勢力は依然として南部のいくつかの州を実効支配し,首都をはじめ非実効支配地域でのテロ活動・戦闘活動を続けている。カヒズベ・イスラミ・ヘクマティヤル派などの反政府武装勢力による都市部での自爆テロや,地方での誘拐事件も多発している。治安の回復にはほど遠い状況が続き,汚職や貧困の放置などカルザイ政権の統治能力を批判する声が内外に強まった。2014年4月5日,第三回大統領選挙が実施され,1回目投票で元外相のアブドラがアシュラフ・ガニ元財務相を押さえてトップとなったが,当選に必要な過半数に達せず。大規模な選挙不正が発覚して政情不安が高まった。6月決戦投票が行われたがアブドラ側は不正を理由に開票作業の中止を要求。7月選挙管理委員会が暫定的な開票結果として,ガニが首位と発表した。アブドラ陣営からは独自政府樹立論すら出されたため,急遽ケリー米国務長官が仲裁に立ち,両者が全投票の再検査で合意し,敗者も政権に入って事態を収め,9月両陣営が〈挙国一致政権〉樹立で最終合意した。ガニ大統領はアブドラを,首相格として新設する行政長官に任命,閣僚や治安機関のポスト配分で大統領と同等の権限を持つという妥協を受け入れ,挙国一致政権を発足させた。
→関連項目ウサマ・ビン・ラディン山本美香

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アフガニスタン」の意味・わかりやすい解説

アフガニスタン
Afghanistan

正式名称 アフガニスタン・イスラム共和国 Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān(ダリー語),Da Afghanestan Eslami Jamhuriyat(パシュト語)。
面積 65万2864km2
人口 3341万3000(2021推計)。
首都 カブール

中央アジアの国。北部はトルクメニスタンウズベキスタンタジキスタン,北東部は中国,南東部はパキスタン,西部はイランと接している。住民の約 40%はパシュトゥン人で,そのほかタジク人が約 30%,ハザラ人が約 10%,ウズベク人が約 10%を占める。公用語はダリー語(ペルシア語)とパシュト語。大部分の住民がイスラム教スンニー派に属する。全体を高原や山岳が占める内陸国。東部国境より中央部までヒンドゥークシ山脈が連なり,高いところでは標高 7600mに達する。カブールの北方あたりから 6000m級となり,コーヘババー山脈,バンディバヤーン山脈,セフィードクー山脈などと連なって国の中央部を東西に走る。この山脈を中心に四大水系が発達している。北流する諸河川を集めるアムダリア峡谷,西流するハリルード峡谷,南西流する諸河川を集めるヘルマンド川,中央から東流するカブール川が発達している。気候は地域により差が大きいが,乾燥した大陸性気候で風が強い。やや遅れた農業と牧畜が中心産業。工業は非常に遅れている。小規模な綿紡織,セメント,羊毛,甜菜糖,果実加工,缶詰工場があり,カブールとカンダハールがその中心地。乾燥果実,絨毯などが主要輸出品。道路および空路によって各国に通じている。カブール―カンダハール―ヘラートマザーレシャリーフ―カブールの環状道路が幹線。2011年に国内初の商業用鉄道の運行が開始された。1979年のクーデターで共産主義政権が成立後,軍事・経済面でソビエト連邦に依存してきたが,反政府ゲリラとの内戦により国土は荒廃し,1989年ソ連軍の撤退後もゲリラ同士の主導権争いから内戦が続いた。1996年イスラム原理主義組織タリバンがカブールを制圧,国内の大半を支配下に置いたが,2001年9月のアメリカ同時テロ事件をきっかけにアメリカ合衆国,イギリスの空爆を受け,タリバン政権が崩壊した。同年 12月に国際社会の協力のもとアフガニスタン暫定行政機構が発足,2004年には新憲法が制定されたが,国内の政治的統一の足並みがそろわず,アメリカ軍の撤収作業が進むなか,2021年8月にタリバンによって再度制圧された。(→アフガニスタン史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アフガニスタン」の解説

アフガニスタン
Afghānistān

南アジア,中央アジア,西アジアの接点に位置する山岳地域。前5~前4世紀にアケメネス朝に属したが,アレクサンドロス大王の遠征後ヘレニズム文化が伝わり,バクトリア王国が成立した。クシャーン朝の治下にはガンダーラ美術が栄えた。ついでサーサーン朝の支配を受けたのち,アラブ・イスラーム軍に征服された。10世紀後半トルコ系のガズナ朝が最初の土着イスラーム国家を建て,しばしば北インドに侵入した。その後セルジューク朝イル・ハン国ティムール帝国サファヴィー朝の支配を受けた。18世紀前半にはナーディル・シャー治下のイランとムガル帝国との争いの場となったが,両者の弱体化に乗じて1747年,パシュトゥーン人のアフマド・シャーがカンダハールで即位し,ドゥッラーニー朝を建てた。これがアフガン国家の始まりである。19世紀には英露の勢力争い(グレート・ゲーム)の場となり,2度のアフガン戦争の結果,アフガニスタンはイギリスの保護国となった。1919年に即位したアマーヌッラーは同年のうちに独立を回復させ,近代化政策をとったが,成果は表面的に終わった。第二次世界大戦後はアメリカとソ連の援助競争のもと経済開発が行われたが,やがて政情不安となり,40年間王位にあったザーヒル・シャーは73年にいとこのダーウドにより退位させられた。78年以降戦乱(アフガン紛争)が続いていたが,2001年に和平プロセスが開始された。多民族国家で,主要言語はダリー語(ペルシア語の一種)とパシュトゥー語。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアフガニスタンの言及

【パシュトゥーン】より

…アフガニスタン全域からパキスタン北西部にかけての地域に住むアーリア系の民族。アフガーンAfghān,パターンPathānとも呼ばれる。…

【パシュト語】より

…パシュトゥー語ともいう。アフガニスタンおよびパキスタン北西部を中心に話され,約2000万人(1976)と見積もられる話者のうち約900万人がパキスタンに住む。方言的にはパシュトと呼ばれる南西方言とパフトPakhtoと呼ばれる北東方言に分かれる。…

※「アフガニスタン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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