日本大百科全書(ニッポニカ) 「アル・アンダルス」の意味・わかりやすい解説
アル・アンダルス
あるあんだるす
Al-Andalus
711年イベリア半島に侵入してこれを征服したイスラム教徒による同地の呼称。通常、429年にここから北アフリカに渡ったゲルマンの一派バンダルVandal人の名に由来するとされてきたが、近年、綿密な地名の研究に基づいてこれの語源をプラトンが伝える大西洋上の島Atlántidaとする説が提唱されている。716年鋳造の金貨に確認されるように、征服直後は、アル・アンダルスはローマ期以来のイスパニアと同義で半島全域をさしたが、北部のキリスト教スペイン諸国の成立に伴って、やがてイスラム教徒の政治支配下の半島部分だけの呼称となった。今日のスペイン南部の地方名アンダルシアは、アル・アンダルスに由来するが、もとより同義語ではない。
アル・アンダルスの歴史はイスラム教徒が西ゴート軍を破ったグアダレーテの戦い(711)に始まり、グラナダ王国の滅亡(1492)で終わる。この間の約800年、アル・アンダルスは西方イスラム世界の中心の名にふさわしい発展と繁栄を達成する一方、今日のスペインとポルトガルの生成に決定的な影響を与えるとともに、中世西ヨーロッパ史にもさまざまな形で、ときには大きく関与した。
イベリア半島におけるローマ文化の伝統は根深く、他方イスラム教徒征服者の数は半島人口の2%を上回る程度のものだった。だが、756年にダマスコ(ダマスカス)を追われたウマイヤ家がアル・アンダルスに亡命政権をたてると、首都コルドバはシリアの伝統に加えて、9世紀中葉からはバグダードで集大成されたイスラム文化の西方における唯一のかっこうな受け皿となった。そして10世紀には、活発な農業、商業、都市手工業に支えられたコルドバは、東のバグダードとコンスタンティノープルに肩を並べる繁栄と威勢の極に達した。今日、メスキータの名で知られるその中央モスクは収容能力2万5000人に拡張され、郊外には廷臣2万を抱えたという大理石造りのメディーナ・アルサフラ宮殿(現在は廃墟(はいきょ))が造営され、宮廷図書館の蔵書は40万冊に達したと伝えられる。
しかし、経済と文化での成功とは対照的に、アル・アンダルスの政治と社会は圧政と暴動の連続であり、住民の間には民族対立が絶えなかった。また征服後まもなく半島北辺に生まれた反イスラム社会を軽視したことから、後(こう)ウマイヤ朝崩壊(1031)以後、アル・アンダルスは一転してキリスト教徒のレコンキスタ(国土回復戦争)に追われる状況に陥った。そして13世紀中葉までには半島東部と西部を失って、わずかにシエラ・ネバダ山脈の要害に守られたナスル朝グラナダ王国(1232~1492)を残すだけとなった。
[小林一宏]