アルマニャック派
あるまにゃっくは
Les Armagnacs
百年戦争中に形成されたフランス貴族の党派。アルマニャックArmagnacはピレネー山脈北麓(ほくろく)の一フランス領地名。15世紀初頭、フランス王家バロア家の家政は、王弟オルレアン侯ルイと、その従兄弟(いとこ)にあたるブルゴーニュ侯ジャンとの対立に左右されていた。1407年ジャンはルイを謀殺した。ジャンに敵対する諸侯は、ルイの息子シャルルの義父アルマニャック伯ベルナールを頭目として一党を結成し、ブルゴーニュ党派と対立した。1410年以降、事態は内乱に発展し、アザンクールの戦い(1415)のあと、アルマニャック派はジャンを謀殺し、廃嫡された王太子シャルル(後のシャルル7世)を擁してロアール河畔のブールジュに政府を構え、ブルゴーニュ侯家の主導のもとにイングランド王家と合体したバロア王家と対抗するに至った。
[堀越孝一]
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アルマニャック派
アルマニャックは
Armagnacs
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アルマニャック派(アルマニャックは)
Armagnacs
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「アルマニャック派」の意味・わかりやすい解説
アルマニャック派【アルマニャックは】
百年戦争後半期フランス国王シャルル6世の発狂(1392年)後,王族・貴族間で起こった政権争いの一党派。王弟オルレアン公ルイを党首としたが,その暗殺後アルマニャックArmagnac伯が首領となりブルゴーニュ派と抗争。末期には王太子シャルル7世を支持。
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アルマニャック派
アルマニャックは
Armagnacs
15世紀のフランスで百年戦争の際,王室側に立って,イギリスと結ぶブルゴーニュ派と抗争した派
ガスコーニュ地方のアルマニャック伯が首領で,反ブルゴーニュ的な諸公も味方にまきこんだ。アジャンクールの戦い(1415)でイギリス軍に敗れてから勢力を失った。
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世界大百科事典(旧版)内のアルマニャック派の言及
【ブルゴーニュ公国】より
…すなわちそれはフランス王権であり,1435年,アルトアの主都アラスにおける国際会議がこの大いなる歴史のドラマの舞台となった。
[アルマニャック派とブルゴーニュ派]
1410年代,フランスは内乱状態にあった。初代のフィリップ(大胆公)が1404年に死去したのち,王弟オルレアン公ルイが権勢を張り,第2代ブルゴーニュ公[ジャン]がこれを謀殺したことに端を発した,いわゆるアルマニャック派対ブルゴーニュ派の党派対立である。…
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