日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンコーレ」の意味・わかりやすい解説
アンコーレ
あんこーれ
Ankole
現在のウガンダ西部にあったアンコーレ王国が、イギリス植民地体制下で実質的に解体したのち、この地域の住民はアンコーレとよばれることになった。人口は約55万人で、言語はバントゥー語系である。
アンコーレ王国は、この地域の他の古王国と共通した伝統的な建国の英雄(バチュエジ。その王国はキタラ王国とよばれ、わずか数代しか続かなかったといわれる)の血を引く王(ムガベとよばれる)によって統治され、これが、生業、文化、人種的特徴を異にする二大グループ、バヒマ(ナイロート系牧牛民で背が高い)とバイル(バントゥー系農耕民で背が低い)を治めたとされる。以下の説明もこうした人種集団の区別を基礎としているが、こうした人種論的枠組そのものが植民地時代につくられ強化されたということが、最近では指摘されている。
バヒマは王に対してウシを納め戦士として服従することを誓い、王はバヒマを保護する義務を負うという西欧の封建制に似た関係によってバヒマの社会が組織されていた。バヒマの間では結婚の際、嫁の代償としてウシが与えられるように、ウシはさまざまな社会関係の媒体でもあり、富そのものでもあった。バヒマの約10倍の人口をもつバイルは、ウシをもつ権利を認められず、バヒマに服従し、貢納する義務を負っていた。バイルの男とバヒマの女の通婚は認められないが、バヒマの男はバイルの女を愛人とすることができた。
こうした位階的な不平等は、王権とその永続性の象徴である王の太鼓の前では、アンコーレの人間は平等であるという観念によって幾分か和らげられていた。生活が苦しいときには、バイルも、この太鼓への貢ぎ物の分配を受けることができたのである。イギリス植民地体制下でのウシの疫病の流行、バイルの牧牛の認可などによって、こうした伝統的王国組織は解体した。
[渡辺公三]