翻訳|feudalism
封建の語は中国に古くからあり、郡県との対比において周代の国家体制をさした。わが国ではこれを受けて、封建の語はもともと近世の幕藩体制をさして用いられた。しかし明治以降、欧米の学問が輸入されるに及び、いち早くそれらの国家体制と西欧中世のフューダリズムとの類似性に着目された結果、後者に対して封建制(度)の訳語があてられることになった。今日では、少なくとも西欧の事象に関する限り、封建制という語が用いられる場合、フューダリズムの邦訳と考えて間違いがない。
しかるに、この意味での封建制(フューダリズム)が、すでにきわめて多義的であり、大別して少なくとも三つの用語法を区別しなくてはならない。第一に、レーン(封土)の授受を伴う主従関係をさす場合(狭義の封建制、ないし法制史的封建制概念)。第二に、荘園(しょうえん)制ないし領主制(農奴制)をさす場合(社会経済史的ないし社会構成史的封建制概念)。第三に、前二者をその構成要素とする社会全体をさす場合(社会類型としての封建制概念)。しかし、第三のものについては「封建(制)社会」の語をあてうるし、第二の用語法では、フューダリズムの語源となったfeodum(レーン)との関係が見失われている。さらに、中世ヨーロッパの歴史的個性は、狭義の封建制を抜きにしては語れない。以下、西欧の学界における支配的な用語法に即して、第一の概念を中心にして解説するゆえんである。
[石川 武]
狭義の封建制には、従士制(主従関係)という人的要因と恩貸地制という物的要因とが、法的に不可分な形で結合されている。この両要因、従士制と恩貸地制はそれぞれの前史をもっているが、それは関係項目に譲り、ここでは、もともと別個に存在していたこれらの両要因がいかにして結合されるに至ったか、ということだけを述べる。ちなみに、この点を中心に封建制の成立を考えることも、西欧(法制史)学界の伝統的手法である。
この両要因の結合の契機となったのは、古くは、8世紀前半におけるアラビア人のヨーロッパへの侵入と、それを迎え撃つための騎兵隊の創設(732年、トゥール・ポアチエの戦い)であると考えられたが、今日では、とくにフランク王国においてもそれ以前から騎兵が存在したことが明らかにされた結果、この見解は克服されている。現在の通説は以下のとおりである。
7世紀末から8世紀前半にかけて、(後の)カロリング王権は、内戦、新たな征服、それにアラビア人の侵入という事態に直面して、できるだけ多数の家臣、とくに騎兵隊を必要としたが、最初、それら家臣を給養するための土地は、一部王領地、大部分教会領、修道院領に求められた。しかし、これによって教会生活は深刻な危機に直面したため、743~744年に開かれた三つの公会議で、これら収公された土地に関して次のような解決が図られた。
収公された土地は、法的にはすべて教会に返還され、教会にその所有権が確認される。しかし、家臣たちの手中にある土地を奪うことは、(後の)王権の基礎を危うくする。そこで(後の)国王は、家臣たちがそれを今後ともプレカリア(恩貸地)として保有することを命ずる。家臣たちは、法的所有者である教会に対して賃租を支払う。さらに教会に対しては、もう一つの代償として、十分の一税が創設される。これらの土地は、同時にしかし、国王の恩貸地とみなされ、国王によって授封される。家臣たちは、国王に対しては、賃租を支払うのではなくて、家臣として負う義務を果たす。このようなプレカリアは、やがて教会のそれ以外のプレカリアと区別されて、「国王の命によるプレカリア」とよばれた。
この「国王の命によるプレカリア」を媒介として、それまで主として聖界領で行われていた恩貸地制は、そこから抜け出して従士(家臣)制と結合するに至った。同じころ(後の)国王は、家臣に対して、自己の土地をも、賃租の負担を伴わぬ終身の恩貸地として与えている。やがて多くの貴族たちも国王に倣ったであろう。カール大帝が王位についたとき(768)、家臣に恩貸地を与えることはすでに一般的慣行となっている。彼の治下において、ほかならぬ彼の政策もあずかって、この封建的主従関係は急速に普及し、従士(家臣)制と恩貸地制の結合も完成されて、フランク国家の国制の一つの柱となったのである。
[石川 武]
狭義の封建制、つまりレーンの授受を伴う主従関係の基本的特徴は、自由人と自由人の間で結ばれる関係であり、従士(家臣)だけが義務を負うのではなく、主君の側も法的拘束を受けるという意味で、双務的である点に存する。
封建制の人的要因である従士制は、託身の礼と誠実宣誓によって設定される。このうち託身は、従士制の起源が隷属的な性格のものであったことを受け、従士が主君の保護と権力のもとに身をゆだね、生涯の服従と奉仕を約するものであったが、これに対して、前記のような封建制の基本的特徴を集約的に示しているのが誠実である。
誠実は、主君に対するあれこれの奉仕を要求するだけではない。それは、もともとは、主君の生命や財産を損なうことはなにもしないという消極的義務であるが、さらに進んで、主君の利益になることはすべてこれをなすという積極的、全体的な倫理的態度をも意味する。したがってそれは、従士の義務を倫理化する一面をもつが、まさにそのことによって、服従と誠実の間には緊張関係が生まれる。具体的には、主君が不当な要求を強制するとき、従士はそれに服従する必要がない、というだけではなく、従士はむしろそれに抵抗する権利、否、むしろ義務をさえもつとされる(抵抗権の一つの歴史的淵源(えんげん))。こうして、やがては誠実は、単に従士のみならず、主君にも要求される倫理的態度となった。
ちなみに、従士制の設定にあたって、誠実宣誓が付け加わったのは、おおむね8世紀中葉以降のことであって、前記の意味での封建制の成立・普及と並行する。それによって、従士制が隷従的性格の強い社会関係を抜け出して高貴化され、国王の直臣や大豪族などにも適用可能なものとなった。従士(家臣)の負う義務も、しだいに「助言と助力」(ことばと行為によって助けること)と要約されるようになり、実質的には軍事的奉仕を中心とするものになっていった。
これに対して、主君もまた、従士(家臣)を給養し保護する義務を負った。このうち給養の義務を果たす方法として一般的に用いられたのが恩貸地制であるが、ベネフィキウム(恩貸地。のちにドイツではレーンともよばれる)として従士(家臣)に生涯限りで授与されたものは、かならずしも土地には限らず、官職や(のちには)定期金なども含まれた。いずれにしてもそれは、主従関係ならびに従士(家臣)の側の奉仕を前提とするものであったから、もともとは一代限りのものであって、主君・従士いずれの側が亡くなっても(いったんは)返還されたし、また従士の側に義務違反があった場合には没収された。
この意味では、封建制の両要因のうち、もともとは人的要因が優越していたといえるし、主君の負う義務は、しだいに「保護と庇護(ひご)」と要約されるようになる。そして、封建制が以上のような性格を保持した限り、つまり従士(家臣)の側にもかなりの主体性を認めつつしかも主従関係であった限り、それは、西欧の中世社会において、政治秩序(国家)形成的機能を果たしえたのである。
[石川 武]
しかし、早くも9世紀中葉以降、「封建制の物(権)化」と呼び習わされる現象が認められる。つまり、従士(としての義務を果たす者)に対してレーンを授与するのではなく、レーンを受けあるいは確保するために主従関係を結ぶという現象である。もともと一代限りのはずであったレーンが事実上世襲化されるに至ったのは、その顕著な現れである。また、それと並行して複数従士制、つまり1人の従士が複数の主君をもち、そのそれぞれからレーンを受けるという現象も現れた。
もちろん、主君の側、とりわけ国王は、この物化現象を座視していたのではない。複数従士制に対しては、誠実義務の留保(他の主君の従士となる場合、とくに国王に対する誠実義務に反しない限り、という留保をつけること)や、一身専属的従士制(ある主君に対し優先的に義務を果たすことを条件にその従士となること)によって、封建制の人的要因ないし主君の立場の強化が図られた。しかし、レーンの世襲化に対しては有効に対処することができず、12世紀後半から13世紀の封建王政期(封建国家)を最後に、封建制はその政治的機能を果たし終える。つまり、封建制が国制の一つの柱であるという事態は、おおむね14世紀以降はみられなくなる。
しかし、それによってただちに封建制が消滅してしまったのではない。その人的要因はしだいに形骸(けいがい)化し、さらにはまったく忘却されてしまったのちにも、封建制は借地の一形式としては近世の奥深く、具体的には18世紀(所によって19世紀)まで長く存続した。近世において、フランス語のféodalという形容詞は、なによりも一借地形式としてのレーンにかかわるものであり、17世紀になってから生まれたféodalitéということばも、レーンにかかわる法的規範の総体を意味したのであって、それが「統治の体系」ないし「文明の状態」という意味で用いられたのは、18世紀に入ってからである。この「封建的統治」は、啓蒙(けいもう)的思想家たちによって、おおむね、自由と対立する貴族(=領主)の恣意(しい)的支配として、王権と市民からなる統一的国家に対置された。フランス革命に際し、「封建制」や「封建的諸権利」の廃棄が問題になったとき、そこで念頭に置かれていたのは、もはやレーンとは直接の関係をもたない領主制、領主的諸権利のことであった。
[石川 武]
このようにして原義とのつながりを失うに至った「封建制」を、歴史哲学的な図式のなかで、人類進歩上の一段階として位置づけたのは、フランスの初期社会主義者サン・シモンが最初である(奴隷制の古典古代から、農奴制の「封建制」ないし「神政的=封建的諸制度」へ、さらにそれから平和な労働の「工業主義」へ)。ヘーゲルの「世界史」においても、「封建的支配」は重要な位置を占めているが、彼にあっては、それは基本的には「君主政」へ移行してしまった、ととらえられている。有名なマルクスのいわゆる「発展段階説」、継起的な経済的社会形態の一段階としての「封建制」の把握(奴隷制→封建制〈=農奴制〉→資本主義)は、こうした思想史的展開の延長線上に位置している。
第二次世界大戦後、「民主化」が至上の政治的課題となったわが国においては、多少ともマルキシズムの影響を受けた政治思想が主導的役割を演じたこともあって、およそ「民主化」の対象と考えられたものすべてに、その歴史的由来とはかかわりなく、おしなべて「封建的」という刻印が押された。こうした日常用語法における混乱が、学術用語としての「封建制」概念の多義性にも、なにがしか影を落としていることは否定できない。
[石川 武]
日本における封建制度概念は一義的とはいえない。中国史における郡県―封建という場合の封建概念と相似た理解も存在するし、ヨーロッパ中世の知行(ちぎょう)制を媒介とする主従制をもって封建制度とする理解も存在する。しかし今日もっとも広く行われている理解は、主従制的結合によって権力を構成する支配階級が、自立的な小生産者である農民から高率の年貢・夫役(ぶやく)などを収取する関係を基軸として成立している社会を封建社会とよび、その社会を規定する制度を封建制度とみるものである。
[永原慶二]
このような封建制度・社会と時代区分上の中世との関係についても理解に振幅がある。ヨーロッパの古代・中世・近代という3区分法では、しばしば封建社会と中世とは同義的に解されるが、今日、日本史について行われている時代区分では、古代・中世・近世・近代という4区分法が普通であり、その場合は、中世・近世を含めて封建社会とするとらえ方が定説化している。しかも厳密にいうと、中世の始期を鎌倉時代の初めに求める説、あるいは近時有力になっている平安時代後期を中世成立期とする説に従った場合、そこですでに封建制度が社会の全体的性格を規定するほどに広く展開していたか否かについては、疑問視する説が強く、その意味では、安易に中世と封建制度・封建社会を同義視するわけにはゆかないのである。中世という時代区分は、現代からみた距離感や時代の全体的特徴・傾向などから判断した規定であるのに対し、封建社会というのは、社会構成理論という基準による区分であるので、両者の間にずれがあっても不当とはいえない。
[永原慶二]
封建制度・封建社会研究は、戦後日本史学のメーンテーマであったが、1950年代には封建制成立の画期をめぐる「封建制成立論争」が闘わされた。その論争のなかで、日本における封建制度の成立を、鎌倉幕府の将軍―御家人(ごけにん)間の主従制からとらえる伝統的な考え方が批判され、社会構成理論に基づき、基本的な生産関係・階級関係に着目する諸説が提起された。それは大別して三説に整理される。一つは、荘園(しょうえん)制を封建制度の具体的な展開形態とみる説である。荘園制下の農民は、身分としては名主(みょうしゅ)・小百姓(こびゃくしょう)などの階層差を含むが、範疇(はんちゅう)としてはともに小農民であり、それを支配する大土地所有者としての荘園領主は封建領主にほかならないとみるのが、その基本的論理である。二つは、荘園制下の小農民経営はなお安定した生産力水準に到達しておらず、家父長的奴隷制関係を広く随伴する過渡的性格の濃厚な存在であること、また荘園制下の支配階級諸層たる本家(ほんけ)・領家(りょうけ)・預所(あずかりどころ)・下司(げし)などの職(しき)の重層的な関係は、知行の一形態であるとしても、軍役関係を欠く点で封建的主従制とは規定できないこと、他方、南北朝内乱を契機とする荘園制の解体過程で、小農民経営の進展とそれを基礎とする農民上層の小領主化、それらと上級領主との間における主従制の形成が並行的にみられること、などの理由から、14世紀以降を封建制度の本格的展開とする見解である。また三つは、16世紀末に至るまで小農民経営の体制的展開は認められず、太閤(たいこう)検地によって家父長的奴隷制が最終的に否定され、小農民経営を権力基盤とする幕藩制社会が封建制度に基づく封建社会として初めて確立するとみる見解である。
このような三説を軸として、封建制成立論争は、実証・理論両面から深められていったが、論争は共通の結論に到達する形で決着したとはいえず、それぞれの問題点が明らかにされるにしたがって、封建制成立の画期というより、日本封建社会の特質のほうに多くの関心が向けられるようになった。
[永原慶二]
「封建制成立論争」は主として小農民経営の成立という生産様式に基本的視点が据えられる形で展開されたが、その後、権力論・国家論的視点が導入されることによって、日本の封建社会の構造的特質としては、およそ次の諸点が注目されるようになった。
第一は、中央集権性の強い律令(りつりょう)制国家を前提として展開する日本の封建社会では、在地領主層の自立割拠的な領域支配の形成が困難で長期的過程をたどったこと。第二には、それと対応して、在地領主層による農民支配が、ヨーロッパにみられるような私的隷属身分としての農奴制的形態を本格的に展開させず、一律的な「百姓」身分支配として行われたこと。第三に、第一、第二と関連し、律令国家の中央支配階級であった公家(くげ)・大寺社が荘園制的大土地所有者として中世にもその地位を維持し、鎌倉幕府も荘園制的領有秩序を前提とする政策をとり、鎌倉時代を通じて公武権力の結合による集権的な国家体制が続いたこと。第四に、中世後期になって在地領主層の領域支配が漸次進行し、大名領国の形成に向かうが、織豊(しょくほう)政権・幕藩体制のもとでふたたび集権的政治・国家体制が強化されること。以上の傾向をさらに要約すれば、日本においては概してヨーロッパのそれに類似した主従制が形成されたが、国家体制・身分制などの側面においては個別の領主制的支配が国家的に規制され、集権的傾向の濃厚な封建制度が展開したといえるであろう。
[永原慶二]
ここでは周(しゅう)封建制度とよばれる政治組織について述べる。本来、封建とは土に封じ、国を建てる意味で、郡県制度に対する語である。諸侯の封建はすでに殷(いん)代から行われたといわれるが、周は王朝を建設すると、一族、功臣50余を中原(ちゅうげん)の要地に封建して、800諸侯を軍事的に支配するための結節点とした。新しく諸侯を任命する場合、策命とよばれる儀式が行われ、官、爵と同時に邑土(ゆうど)と人民を与える旨の任命書が授与され、同時に権威のシンボルとして青銅礼器(彝器(いき))や武器、車馬具、衣服、飾り具、旗、官具などが賜与される。諸侯はこれを奉じて支配地に行き、国都の邑(城市)を造営して、周辺の諸邑を服属させた。諸侯はまた一族を中心とする卿大夫(けいたいふ)(貴族)に「氏」を賜り、官職、采邑(さいゆう)を与えて支配組織をつくった。王室、諸侯、卿大夫は血縁的原理に基づく宗法によって組織され結び付けられていたといわれる。したがってその政治も祭祀(さいし)(宗廟(そうびょう)と社稷(しゃしょく))を重んじ、王室の祭祀には諸侯が参加し、貢納の義務を負うほか軍役や土木事業にも従事した。諸侯に服する諸邑(鄙邑(ひゆう))もまた同様の義務を負った。ただし国都に住する庶人は国人とよばれて政治、軍事、祭祀の権を有したが、鄙邑の庶人は野人(やじん)とよばれ、氏族的秩序を保持したまま、王公貴族に対し租税を出し役務に従った。こうした農民集団の性格をアジア的社会の奴隷制とするか、あるいは農奴制と考えるかは立場によって異なるが、国都による鄙邑の支配という形式をとらえて邑制(あるいは邑土)国家、城市国家、都市国家などとよぶ場合がある。戦国時代になると諸侯は独立して郡県制を敷き、側近官僚による支配を行うようになり、封建制度は崩壊した。しかしこの後も前漢、西晋(せいしん)、明(みん)などに封建が行われたこともあるが長くは続かなかった。
[宇都木章]
『ミッタイス、リーベリッヒ著、世良晃志郎訳『ドイツ法制史概説』改訂版(1971・創文社)』▽『F・L・ガンスホーフ著、森岡敬一郎訳『封建制度』(1968・慶応通信)』▽『マルク・ブロック著、新村猛他訳『封建社会1・2』(1973、77・みすず書房)』▽『O・ヒンツェ著、阿部謹也訳『封建制の本質と拡大』(1966・未来社)』▽『オットー・ブルンナー著、石井紫郎他訳『「封建制」――その概念の歴史について』(『ヨーロッパ――その歴史と精神』所収・1974・岩波書店)』▽『堀米庸三著『ヨーロッパ中世世界の構造』(1976・岩波書店)』▽『世良晃志郎著『封建制社会の法的構造』(1977・創文社)』▽『石川武著『フランク時代における封建制の成立と封建化』(『岩波講座 世界歴史7 中世1』所収・1969・岩波書店)』▽『永原慶二著『日本封建制成立過程の研究』(1961・岩波書店)』▽『永原慶二著『日本中世の社会と国家』(1982・日本放送出版協会)』▽『戸田芳実著『日本領主制成立史の研究』(1967・岩波書店)』▽『安良城盛昭著『幕藩体制社会の成立と構造』(1959・御茶の水書房)』▽『増淵龍夫著『中国古代の社会と国家』(1960・弘文堂)』
①〔ヨーロッパ〕feudalism[英],féodalité[フランス]広義には,農奴制を基礎とする西欧中世の社会制度を意味し,狭義には,中世社会において主君と家臣の間に取り結ばれた法的関係をさす。西欧中世では,ゲルマン起源の従士制と,ローマ起源の主君の家臣に対する封土授与の関係である恩貸地(おんたいち)制が結びついた制度として理解される。両者の結びつきは,フランクのメロヴィング朝時代からみられ,カロリング朝時代に主従関係の原則が確立されたと考えられる。西欧中世の主従関係においては,主君は戦時には戦いの指揮をとり,家臣(従士)は主君に従って従軍し,忠誠を尽くすことが期待された。また主君は,家臣に所領(恩貸地)を封(フィエフ)として分け与えて給養した。主従関係は,したがって主君の側の家臣に対する保護・愛顧と,家臣の側の主君に対する軍役奉仕・助言という双務的関係にもとづいていた。主君のなかで頂点に立つ国王は,多数の家臣(諸侯,騎士)を抱え,それぞれに所領を認めた。諸侯は王に対しては忠誠を誓う一方,彼らの所領内の農民を領主権にもとづいて支配した。制度としての封建的階層秩序の確立期は,11世紀半ば頃に求められる。主従関係を結ぶ契約は,臣従礼(オマージュ)と呼ばれる象徴的な儀礼であった。臣従礼の儀式は,8世紀末にはその原型が現れ,11世紀頃に確立された。それは託身と忠誠を示す言葉と象徴的身振りによる三つの手続きからなっていた。家臣となる者は,まず主君の前にひざまずき,「あなたの家臣となる」旨を口頭で述べた。主君は,その者の差し出した両手を彼の両手で包み込み(コメンダチオ),その者に平和の接吻を与える。続いて家臣となる者から主君に対して,忠誠の誓約が聖遺物や聖書にかけてなされる。そして主君から家臣となる者に封(土地)の授与が,それを象徴する小枝や土塊の手渡しによってなされ,主従関係の儀式は完結した。家臣は,そうした主従関係を同時に複数の主君と取り交わすことができた。主君と家臣の関係は双務契約であり,どちらか一方の側に契約不履行があれば,短期間で解消されえたのである。この点は家臣は「二君にまみえず」を原則とした日本の封建制とは異なっていたといえる。
②〔中国〕殷(いん)を滅ぼした周は新しく支配下に入った地方に,王族,功臣,土豪を諸侯として封じた。諸侯は封邑(ほうゆう)の大小,周との血縁関係,家柄などに応じて公,侯,伯,子,男の5等に分かれ,その数は周初に約1800あったという。彼らは周に貢納・軍事援助の義務があった。また周王および諸侯のもとには卿(けい)・大夫(たいふ)・士(し)など直属の家臣団があり,采邑(さいゆう)を支給され,直接の主人に忠誠を尽くす義務があった。これらの血縁・身分関係を支えるために宗法(同族結合制度)があった。周代封建制度は西欧中世のフューダリズム(feudalism)と本質的には異なっており,契約の概念はなく,多分に氏族制的色彩を有する。この制度は西周時代には維持されていたらしいが,封建制度に内在している分裂的傾向が周の東遷以後顕在化して崩壊した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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