日本大百科全書(ニッポニカ) 「イスラム哲学」の意味・わかりやすい解説
イスラム哲学
いすらむてつがく
「アラビア哲学」とも称した。「イスラム哲学」(ファルサファ・イスラミーヤfalsafah lslāmīyah)という名称は、イスラム教徒の哲学的業績の総体に対し、近世のヨーロッパのイスラム学者がつけたものである。イスラム教徒たちは自分たちの哲学を通常ファルサファfalsafahとだけよんでいる。ファルサファとはギリシア語のフィロソフィアphilosophiaがアラビア語化したことばである。ただし、近代になってイスラム教徒たちが西洋哲学やその他の非イスラム文化圏の思想を知るようになって以後、イスラム教徒自らの伝統的哲学をそれらと区別するために、イスラム世界でも「イスラム哲学」という名称を用いる場合もある。
[松本耿郎]
哲学の始まりと発展
イスラム哲学の伝統は、7世紀にイスラム教徒によって征服された中近東世界に存続していたヘレニズム哲学の遺産をイスラム教徒が受け継ぎ、発展させたことに由来する。イスラムが征服した地域にはダマスカス、エデッサ、ジュンディシャープールなどの古代からの学芸の中心地がいくつも存在していた。そこでは、イスラムの征服当時にもギリシア哲学をはじめ、さまざまな学問の研究が盛んに行われていた。新興の活力あふれるイスラムは、これらの異なる文化伝統を同化吸収していったのである。とくにヘレニズム期の学術書や古代ペルシアの文学書などが、当時のイスラム教徒たちの知的好奇心をそそり、次々とアラビア語に翻訳されていった。
イスラム哲学史上最初の哲学者とされるキンディー(796ころ―866)はこうした翻訳事業の推進にあたって指導的な役割を果たした人である。彼は、イスラム教史上最初の体系的護教神学であるムゥタジラ神学派の形成とも深いかかわりをもっていた。彼は新プラトン主義的思想をもっていたが、哲学的考察の結果とイスラムの教えとが背反する場合には、つねにイスラムの教えの優越を認め、哲学と宗教を調和させようとした。宗教と哲学の関係をどのようにとらえるかという問題は、キンディーのみならず、それ以後のイスラム哲学者たちに課せられた深刻な問題であった。イスラム哲学は、コーランを真理の唯一の根拠とみなすイスラム神学や法学と緊迫した関係をもちつつ発達していくのである。
キンディーに次いでファーラービー(870―950)が現れ、イスラム哲学の発達に大きく寄与した。彼は、アラビア語に翻訳されたアリストテレスの多くの著作について注釈書を書いている。またイスラム哲学における存在論の開拓者でもある。彼は新プラトン主義的世界観のなかにアリストテレスの形而上(けいじじょう)学を組み入れている。彼はイスラム教シーア派とも関係が深かった。彼は、新プラトン主義の流出哲学に基づく階層的世界像を基礎にした一種の理想国家論を展開するが、それはシーア派のカリスマ的宗教国家観の形成に役だっている。
[松本耿郎]
哲学の体系化と影響
10世紀のなかばころになると、イスラム世界にスンニー派イデオロギーとシーア派イデオロギーがそれぞれ明確な形で定着してくる。スンニー派はコーランおよび預言者の言行録を絶対的な神意の顕現とし、倫理と社会秩序の究極的根拠とみなす。これに対しシーア派はコーランと預言者の言行録を宇宙論の根拠とみなし、そこから哲学的意味をくみ取ろうとする。こうした基本的傾向の相違のためにスンニー派とシーア派はしばしば対立した。世界観の確立を欲する哲学者たちの多くは、シーア派神学のもつ宇宙論的傾向に親近感をもち、シーア派に保護を求めるようになる。このためにスンニー派の神学者たちは、哲学に対しいっそう激しく攻撃を加えるようになる。ファーラービーに次いで現れたイブン・シーナー(980―1037)は、アリストテレス哲学の研究から出発しながら存在論の分野に独自の境地を開拓する。彼の「空中人間説」の名で知られる存在の先験的知覚の説は、後代のイスラム哲学に大きな影響を与えた。さらに彼の著作の主要なものはラテン語に訳されたため、中世ヨーロッパのスコラ哲学に深い影響を与えた。トマス・アクィナスの存在の形而上学や超越概念論はイブン・シーナーの説を受けて発展させたものである。イブン・シーナーは、晩年になってそれまでの逍遙(しょうよう)学派的哲学を捨て、神智(しんち)主義的哲学の理論的構築を目ざしたが、その完成は後代にゆだねられた。彼の形而上学、宇宙生成論はやがてシーア派内の十二イマーム派の神学に摂取される。
[松本耿郎]
ガザーリーの哲学批判
スンニー派の神学者ガザーリー(1058―1111)は、哲学の研究においても優れた業績を残しているが、そうした研究を踏まえて『哲学者の矛盾』という書物を著し、ファーラービー、イブン・シーナーらの哲学説の主要部分を分析批判し、あわせてシーア派神学の根拠を論破しようと試みている。ガザーリーのこの哲学批判は、それ以後のイスラム思想界に非常に大きな影響を与えた。彼の哲学批判に対しては、シーア派の側からも、またスンニー派のなかからも反論がなされた。シーア派の神学者で天文学者としても著名なナシール・ウッディーン・トゥーシーNasīr al-Dīn al-Tūsī(1201―74)は、ガザーリーの『哲学者の矛盾』に対する反論の書を著している。またスンニー派の世界では、中世西欧哲学に絶大な影響を与えたイベリア半島のイブン・ルシュド(1126―98)が『矛盾の矛盾』という題の反論の書を著している。しかし、スンニー派世界ではガザーリーの哲学批判以後は、イブン・ルシュドのアリストテレス研究やファフル・ウッディーン・ラージーFakhr al-Dīn al-Rāzī(1148―1209)の存在論を除いて、あまりみるべき業績がなくなった。さらに、ファーラービー、イブン・シーナーの哲学は、分析より直知を尊重する照明哲学の樹立者スフラワルディー(1155―91)によっても批判されて打撃を受けた。
[松本耿郎]
イスラム哲学における総合化
しかしながら、一方、シーア派の世界では前記のナシール・ウッディーン・トゥーシーらによりイブン・シーナー哲学の研究が続けられた。イブン・シーナーにおいて存在がア・プリオリな認識対象とされたことから、それ以後のイスラム哲学では存在論と認識論とが統一的次元で論じられるようになる。かくして、イスラム哲学において存在と認識が統一的に把握されるために、やがてイスラム哲学は神の直知を目ざす神智論的傾向を帯びてくる。この点が、同じヘレニズム思想を源にしながらも、西欧哲学が近世になって存在論と認識論の分裂を引き起こしているのと対照的である。
イスラム哲学における存在論、認識論、神智学の総合はイブン・アラビー(1165―1240)において確立される。イブン・アラビーは卓越した神秘思想家として神認識方法の精密な理論化の過程でかかる総合を行っている。彼の思想はスンニー派、シーア派の二つの世界において大きな影響を与えている。とくに、十二イマーム派の神学は、イブン・アラビーの「存在一元論」に強い影響を受けている。十二イマーム派の神学は、イブン・アラビーの神智学のみならず、スフラワルディーの照明哲学、イブン・シーナーの形而上学を総合していき、やがて単なる護教神学から深淵なスコラ哲学へと変化していく。このような近世十二イマーム派哲学に大きな役割を果たした人がミール・ダーマードMir Dāmād(?―1631)である。さらに、その弟子のモッラー・サドラー(1571ころ―1640)は師の業績を継承し、こうした哲学的総合の成果を完成の域にまで高めていった。かくして、十二イマーム派教学の一部として生命を維持し続けたイスラム哲学の伝統は、近代のサブザワーリーSabzawārī(1797―1878)を経て現代にまで至っている。
[松本耿郎]
『井筒俊彦著『イスラーム思想史』(1975・岩波書店)』▽『H・コルバン著、黒田寿郎・柏木英彦訳『イスラーム哲学史』(1974・岩波書店)』