イタリアの神学者,哲学者,聖人。スコラ学の黄金時代を築いた思想家の一人。
皇帝フリードリヒ2世に仕える騎士アクイノのランドルフォとロンバルディア出身のテオドラの間の末子(3人の兄,5人の姉がある)として,父親の居城ロッカセッカで生まれる。領地がローマとナポリのほぼ中間,教皇領と皇帝領の境界線に位置していたため,一族はたえず紛争にまきこまれ,トマスは武具の響き,軍馬のいななきにかこまれて幼年時代を送った。5歳のとき,近くのベネディクト会修道院モンテ・カッシノに送られ,初等教育を受けたが,両親はトマスが将来ここの修道院長となり,一族に声望と富を加えてくれることを期待したようである。1239年モンテ・カッシノ修道院が皇帝の軍隊によって占拠されるという不穏な事態が生じ,トマスは創設まもないナポリ大学に移って勉学を続けたが,ここで彼を精神的および学問的に方向づける二つの出会いが起こった。すなわち,福音の理想と学問研究とを2本の柱として教会に新風を吹きこみつつあった説教者修道会(ドミニコ会),およびアリストテレス哲学との接触である。44年ドミニコ会に入会したトマスが直面したのは家族の猛反対であった。古い伝記によると,トマスは1年以上もロッカセッカ城に監禁され,美女による誘惑という手段に訴えてまで彼の決心を翻させようとする試みがなされたという。しかし45年,トマスはナポリのドミニコ会修道院に復帰することを許され,ただちにパリ,ついでケルンに赴いて修業を続ける。とくに48年以降は同じドミニコ会士で,博学をもって聞こえたアルベルトゥス・マグヌスの指導を受ける。体軀が巨大で沈黙がちなため〈シチリアの啞(おし)の牛〉とあだ名されていたトマスの天才を見抜いたアルベルトゥスが,〈やがてこの啞の牛の鳴声は世界中に響きわたるであろう〉と予言した逸話は有名である。なお彼はこの時期に司祭に叙階されている。
52年,トマスはアルベルトゥスの推薦により,パリ大学神学部教授候補者としてパリに派遣される。規定に従って聖書およびペトルス・ロンバルドゥス《命題論集》の注解講義を終え,56年には学位を得て教授としての活動を開始したが,大学紛争のため,教授団に正式に加わったのはその翌年であった。聴講者たちはトマスの講義の主題,方法,論証などの新しさに強く印象づけられた,と伝えられる。この時期の著作には前述の《命題論集注解》のほか,みずからの哲学的立場を簡潔に述べた《有と本質について》,重要な学問論を含む《ボエティウス三位一体論注解》,中世大学独特の授業形式を反映する《定期討論集・真理について》がある。またイスラム教徒,ユダヤ教徒に対してキリスト教真理を弁証することを目ざした体系的大著《対異教徒大全》が着手されたのもこの時期である。ドミニコ会有数の学者に成長したトマスはパリ大学教授の任期を3年で終え,続く約10年間イタリア各地のドミニコ会学校で教授・著作活動に従事する。この時期の思想的成熟に関して特筆すべきはギリシア語に堪能(たんのう)な同僚ムールベーカのギヨームの協力を得て,アリストテレスおよび新プラトン主義哲学の本格的な研究を行ったこと,およびギリシア教父神学の研究に打ち込んだことである。この時期のおもな著作には前記《対異教徒大全》のほか,《定期討論集・神の能力について》や《ディオニュシウス神名論注解》,〈黄金連鎖〉の名で広く知られた《四福音書連続注釈》などがあるが,最も重要なのは彼の主著であり,今日にいたるまで数多くの注解(部分的注解も含め約750)や研究書の対象となってきた《神学大全》である。
68年秋,当時の教皇庁の所在地ビテルボに滞在していたトマスは,ドミニコ会総長の命令によって再度神学部教授に就任するためパリに向かった。トマスの出馬が要請されたのは50年代の終りに鎮静化した教区司祭教授団による托鉢修道会(ドミニコ会とフランシスコ会)攻撃が再燃したのに対抗するためであったが,パリにおけるトマスはこの正面の論敵のほかに,なお左右両面からの攻撃にさらされた。その一つはアリストテレス解釈をめぐる,シジェ・ド・ブラバンを中心とするアベロエス派との論争であり,もう一つはトマスがアリストテレス研究を通じて導入した哲学的革新を危険視する,保守的なアウグスティヌス派(フランシスコ会神学者を中心とする)との対決である。ところで論争に明け暮れたともいえる約3年半の第2回パリ時代は,トマスの著作活動が頂点に達した時期でもある。すなわち,《神学大全》第2部の完成,アリストテレスの主要著作のほとんどすべてについての注解,いくつかの重要な定期討論集,論争的著作など,通常の多産な著作家の一生の仕事に匹敵するほどのものを,このわずかの期間になしとげたのである。トマスは同時に3ないし4人の秘書に異なった内容の口述をすることができた,という伝説が生まれたのもおそらくこの時期の著作活動に関してであろう。
72年春,ドミニコ会の新しい神学大学を設立する任務を授けられたトマスは,その場所として故郷ナポリを選び,残された生涯の最後の数年をこの神学大学の充実にささげた。この時期,彼は聖書および若干のアリストテレスの著作の注解のほか,《神学大全》第3部を書き進めていたが,73年12月6日聖ニコラウスの祝日のミサの後,いっさいの著作活動を放棄した。著作の続行を懇請する同僚に対して,彼は〈私にはできない,私が見たこと,私に啓示されたことに比べると,私が書いたものはすべてわらくずのようだ〉と答えた,と伝えられる。翌年初頭,教皇の要請に従ってリヨン公会議に出席するため病気をおして旅立ったが,途中で病が重くなり,ローマの手前,フォッサヌオーバのシトー会修道院で3月7日に没した。77年パリ司教およびカンタベリー大司教による異端宣言の中には明らかにトマスに帰せられる命題が含まれ,この後もトマスの学説に対する攻撃が続いた。他方,ドミニコ会内部ではトマスの学説に特別の権威を付与する動きが強まり,それと並行して列聖運動が推進され,1323年教皇ヨハネス22世によって正式にカトリック教会の聖人の列に加えられた。
思想史におけるトマスの意義は,信仰と理性との統一を目ざして形成され,この統一が破れたときに崩壊したスコラ学との関係において明らかにされる。すなわち彼は,信仰と理性とを分離したうえでそのいずれかの優越を主張するのではなく,あくまでこの2者の内的総合を追究し,信仰の超越性(神中心主義)と人間理性の自律性(人間中心主義)とを,緊張をはらみつつ両立させるという,一見不可能ともみえる企てを成功させたのである。この〈トマス的総合〉の根底に見いだされるのが,アリストテレスや新プラトン主義哲学を継承し,それらをさらに展開させることによって成立したトマスの独創的な〈存在esse〉の形而上学であるが,それは彼においては徹底した経験論的立場と両立していた。またトマスはアリストテレス流の厳格な学の条件を満たす,〈学としての神学〉を成立させたが,同時に神についての最高の知は無知の自覚であることを強調してやまない〈否定神学〉の提唱者であり,神秘主義者であった。
→トミズム
執筆者:稲垣 良典
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中世のスコラ神学者。
[稲垣良典 2015年1月20日]
南イタリアのナポリに近い、ローマ教皇領とフリードリヒ2世領の境界に位置するロッカセッカ城で生まれ、5歳で初等教育のためベネディクト会モンテカシーノ修道院に送られる。15歳のころ、戦火の及んだモンテカシーノを避けてナポリ大学に移り、ここでアリストテレス哲学と、学問研究を通じて福音(ふくいん)宣布を目ざす托鉢(たくはつ)修道会ドミニコ会を知る。家族の猛烈な反対に抵抗してドミニコ会に入ったトマスは、パリを経てケルンに赴き、アルベルトゥス・マグヌスの下で学ぶ。寡黙で巨躯(きょく)のトマスは「シチリアの唖牛(あぎゅう)」とあだ名されたが、アルベルトゥスはその学才を認めてパリ大学教授候補者に推す。托鉢修道会排撃の嵐(あらし)が吹き荒れるパリ大学で、規定に従って『命題論集』の解説講義を終えたトマスは、1256年教授資格を得たが、紛争のため講義開始は1年遅れた。神学部教授のおもな職務は聖書講義、学問的槍(やり)試合ともいうべき討論の主宰、説教であるが、この時期の代表著作は、『有と本質について』や若干の聖書註釈(ちゅうしゃく)のほか、当時の哲学・神学の主流であったアウグスティヌス主義を、アリストテレスから学んだ真理によって補完しようと試みた定期討論集『真理について』である。
トマスは、慣例に従って3年で教授職をオルトンのウィリアムWilliam of Alton(生没年不詳)に譲ってイタリアに帰り、約10年間教皇庁およびドミニコ会付属の学校で教授と著作に専念する。この時期に彼の思想は著しい成熟を遂げるが、その機縁となったのは、同じドミニコ会員モルベカのギレルムスの翻訳活動に助けられて、アリストテレスおよび新プラトン哲学の精密な研究を行ったこと、東方教会との合同に熱心な教皇ウルバヌス4世Urbanus Ⅳ(在位1261~1264)の要請で、ギリシア教父および教義史の本格的研究に取り組んだことである。この時期の主要著作には、イスラム文化と対決しつつカトリック信仰の真理を弁証した『対異教徒大全』、定期討論集『神の能力について』、普通『黄金連鎖』とよばれる四福音書連続註釈、および『神学大全』第一部などがある。
1269年、再燃した托鉢修道会排撃運動に対処するため、トマスは再度パリ大学教授に就任するが、続く3年間彼は、フランシスコ会を中心とする神学保守派、人文学部の過激なアリストテレス主義者(アベロエス派)も含めて三方の論敵と渡り合いつつ、『神学大全』第二部、いくつかの聖書註釈と定期討論集、アリストテレスの主要著作の註釈など、人間業とは思われぬほどの多産な著作活動を行っている。その膨大な量と密度の高さを目にするとき、トマスの賛美者ならずとも、彼が同時に数人の筆記者に口述したという伝説、あるいは思索に没入しているときの放心状態にまつわる数々のユーモラスな挿話を信じたくなるであろう。
1272年、ドミニコ会の新しい神学大学を設立するためナポリに帰ったトマスは、他の著作と並行して『神学大全』第三部を書き進めていたが、翌1273年12月6日聖ニコラウスの祝日のミサののち、突然筆を置いた。驚く同僚に対して「私に新たに啓示されたことに比べると、これまで書いたものは藁(わら)くずのようだ」と理由を述べたという。1274年初め、教皇の要請に従い、病躯(びょうく)を押してリヨン公会議に向けて旅立ったトマスは、途中で病あらたまり、故郷近くのフォッサノーバのシトー会修道院で3月7日に没した。
[稲垣良典 2015年1月20日]
トマス思想が同時代人に与えた圧倒的な印象はその新しさであり、それを危険視する勢力もあって、彼の学説の一部は、1277年パリとオックスフォードで行われた異端宣告の対象となった。この印象は誤りではなく、トマスは、アウグスティヌスをはじめとする教父思想、アリストテレス、新プラトン哲学、イスラム、ユダヤ思想などの遺産を豊かに継承しつつ、「トマス的総合」とよばれる独創的な思想体系を確立したのである。そこでは信仰と理性、神学と哲学の統一が追究されているが、それは、一方では学としての神学の成立であり、他方、自律的な学問としての哲学の基礎づけを意味するものでもあった。
[稲垣良典 2015年1月20日]
『コプルストン著、稲垣良典訳『トマス・アクィナス』(1962・未来社)』
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1225?~74
中世のスコラ哲学者。南イタリアの貴族の出身。ドミニコ修道会に入り,パリでアルベルトゥス・マグヌスに師事し,1252年からパリ,イタリア各地の大学教授となり『哲学大全』を書いた。65年以後主著『神学大全』を著述し,キリスト教とアリストテレス哲学,信仰と理性,超自然と自然の調和を試み,普遍論争を終わらせた。スコラの完成者といわれ,「天使的博士」と呼ばれた。
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…以後その研究の中心は東方に移り,9~12世紀にはアリストテレスの影響を受けた哲学者がイスラム圏に輩出する。12~13世紀にかけてラテン語訳〈著作集〉がヨーロッパに伝わって急速に広まり,最初はキリスト教神学と対立したが結局はトマス・アクイナスによって神学と調和的にとり入れられて,前にもまして影響力を持つようになった。今日の主として科学の立場から,彼の学説は批判される点も多いが,〈実体〉と〈属性〉の区別に基づく論理的枠組と,それの含意する存在と価値の分離とは,近代自然科学の発展を支えてきたものであり,それだけに彼の哲学の投げかけている問題は今なお大きい。…
…このほかアンセルムスにさかのぼるア・プリオリ,もしくは〈本体論的〉と称せられる証明,すなわちわれわれが神について抱いている観念から直ちに神が必然的に存在することを結論しうる,という議論があり,こんにちでもその意味や妥当性をめぐって論争がある。経験から出発するア・ポステリオリ証明のうちで最も有名なのはトマス・アクイナスの〈五つの道〉であり,これは経験世界においてあきらかに認められる運動・変化,作動因の系列,存在の偶然・非必然性,完全性の段階,目的志向性などの事実から出発して,第一の動者,第一作動因,必然的存在,最高の存在,宇宙を統宰する知的存在であるところの神に到達する議論である。神の存在証明によって結論される〈哲学者の神〉と信仰の対象としての神を対立させる必要はないが,神の存在証明は神の探求を方向づける役割を果たしうるのみで,いわゆる神との〈実存的出会い〉にまでは導きえないことを忘れてはならない。…
…アベラールは理性の自由を強調して異端視されたが,行きつく所はこれと同じであった。13世紀に入ってペトルス・ロンバルドゥスやトマス・アクイナスの構築するスコラ学の壮大な体系(《命題集》や《神学大全》)は,教皇至上主義と重なっていても,これとて霊魂の救いをめざす神秘主義的敬虔によって支えられていたのである。だが体系自体は14世紀にはくずれ,回復の見込みはなかった。…
… 13世紀はキリスト教文芸復興として,多くの有名な神学者,論説家が輩出した。アルベルトゥス・マグヌス,その弟子であるトマス・アクイナス,フランシスコ会のR.ベーコンらはそのおもな者であるが,トマスには教皇ウルバヌス4世の命で聖体日のために作った数編のすぐれた賛歌や続唱があり,ことに《シオンよ,救主をたたえまつれ》は美しい詩である。しかし中世を通じ最大のラテン宗教詩は,トマーソ・ダ・チェラノTommaso da Celano(1190ころ‐1260ころ)の作とされる《怒りの日》で,最後の審判の日を歌い,今でも死者の葬送法会に常用される。…
… このような教義が確立する一方で,11世紀以降都市の経済活動が活発化するにつれて信用の供与が重要な問題となり,利子についてもさまざまな便法が考案された。例えば借り手が所定の期日に返済できず延納した場合,貸し手はその損害を請求できるとされ,トマス・アクイナスもそれを認めている。また一人が土地を他方に売り渡し,一定期間の後に買いもどすという方法も多用された。…
…この考えを実質的に推し進めたのが原始キリスト教の無抵抗主義の唱道であり,ローマの軍国主義に対して平和的手段をとることは人間の基本的な義務であるとし,国家の権威の上に良心の権威をおいた。この思想は古代末期にいたってアウグスティヌスの《神の国》で神の浄福に輝く共同社会という形で,さらに,トマス・アクイナスの《君主統治について》の中では,数個の都市国家を包含する王国regnumを中世的帝国の合理的原則の体現とみなす考えとして示された。一方,中世末期イタリア諸都市の動乱に悩んだダンテは《帝政論》の中で世界帝国の理想をかかげ,全人類の手になる連邦国家の構想を述べた。…
…またこの点は,時間が被造かどうかの問題にも連なる。トマス・アクイナスは,世界の創造は〈時間とともにcum tempore〉行われたと考えており,〈時間においてin tempore〉創造が行われたものでないことを強調して,神の超時間性を強く主張した。 自然科学的な時間概念はニュートンの〈絶対時間〉と〈相対時間〉の区別(これは空間にも並行的に適用される)から始まったと言われる。…
…つまり人間をもしそれが何であるか,と問う観点からみれば人間の〈本質essentia〉が問われ,同じ人間をそれは存在するかどうかを問う観点では人間の〈実存existentia〉が尋ねられているのであるが,個々の具体的な人間は,この本質と実存との不可分的合体である。そしてプラトンはこの本質をイデアと呼び,アリストテレスやトマス・アクイナスはこれを形相(エイドス)と呼んだ。この形相が人間を人間として規定して,犬や樹木や石から人間を異ならしめる。…
…スコラ神学はアリストテレス哲学の強い影響を受けつつ,ペトルス・ロンバルドゥスの《命題集》など教義の綿密な解釈を行い,高度に論理的・演繹的な神学体系を構成した。トマス・アクイナスの《神学大全》がその代表的な成果である。神学と哲学,信仰と理性とが階層的調和にもたらされることによって,信仰の真理の学問的基礎づけとしての神学は完成され,ローマ・カトリック教会の神学の支柱となった。…
…トマス・アクイナスの主著。教科書として使用できる,神学(トマスの用語では〈聖教sacra doctrina〉)の簡潔な体系的解説書。…
…この時期,普遍(類と種)をめぐる論争(普遍論争)が盛んに行われた。 13世紀の盛期スコラ学の特徴は,学としての神学の成立であり,いいかえると,アルベルトゥス・マグヌス,トマス・アクイナス,ボナベントゥラなどにおける,信仰と理性との偉大な総合である。その背景にはパリ,オックスフォードなどの大学における活発な学問活動,アリストテレス哲学の導入,ドミニコ会,フランシスコ会を先端とする福音運動の推進などの積極的要因が見いだされる。…
…ふつう〈一unum〉〈真verum〉〈善bonum〉などが〈超越(するもの)transcendens,transcendentia〉と呼ばれ,〈ものres〉〈或(あ)るものaliquid〉〈美pulchrum〉などが加えられることもある。超越理論の歴史は〈在るもの〉と〈一〉とをめぐるアリストテレスの形而上学的思索にまでさかのぼり,新プラトン主義哲学,およびその影響を受けたキリスト教およびイスラムの思想家たちによって発展させられたが,その体系的解明は13世紀において,とりわけトマス・アクイナスによって成就された。トマスによると,超越あるいは〈超越的名称nomina transcendentia〉とは,すべての〈在るものens〉にともなう特性もしくはそのあり方をさす。…
… 中世のスコラ神学者は,主の使いに関する聖書の教え,天球層sphaeraおよび天体の運動の原因としての精神的・知的実体に関するプラトン,アリストテレス以来の宇宙論的・天文学的理論,および人間よりも上位の純粋に精神的な存在に関する形而上学的思弁などの源泉から,天使(およびその堕落した集団=堕天使としての悪霊ないし悪魔)に関する神学的・哲学的理論を展開した。その中でもっとも体系的かつ包括的な天使論を構築したのはトマス・アクイナスである。彼の天使論は《神学大全》のかなりの部分(第1部50~64,106~114問題)および《定期討論集――精神的被造物について》《分離的実体についての論考》において展開され,天使は純粋形相であって質料を含まない,と主張したことによって保守的神学者と対立した。…
…トマス・アクイナス自身の哲学・神学体系,および後世の人々によるトマスの基本的立場ないし学説の体系的解明および展開をさしていう。トマスがアリストテレス,新プラトン主義哲学,アウグスティヌスをはじめとする教父たちの思想,アラビアおよびユダヤの哲学思想などを総合してつくりあげた独自の哲学思想は,同時代人および直後の世代の理解を超えるものであった。…
※「トマスアクィナス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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