日本大百科全書(ニッポニカ) 「イブン・ルシュド」の意味・わかりやすい解説
イブン・ルシュド
いぶんるしゅど
Abū al-Walīd Muammad ibn Amad ibn Rushd
(1126―1198)
イスラム哲学者、医学者。ラテン名はアベロエスAverroës。スペインのコルドバに生まれる。法学、哲学、医学を学び、1182年ムワッヒド朝カリフの宮廷医師、さらにコルドバのカーディー(裁判官)となって活躍したが、ヤークーブ・アルマンスールがカリフになると、しだいに宮廷内で力を失い郊外に隠棲(いんせい)した。晩年はふたたび宮廷に仕え、マラケシュで没した。著作の多くは13世紀にラテン語訳され、中世ヨーロッパ思想に絶大な影響を与えた。彼はイスラム世界に伝わるアリストテレスの思想の文献学的研究を哲学的出発点にしている。イスラム世界に伝わるアリストテレス思想には、新プラトン派的要素が多く混入しているので、文献批判を通じアリストテレス思想の原像に迫ろうとした。しかしながら、イブン・ルシュドによって再現されたアリストテレス思想にも、なお新プラトン派の影が濃く残っている。
アリストテレスの方法に準じ、質料、形相論を基に哲学を築いている。彼における質料とは形相をその内に潜勢態(せんせいたい)として含み永遠的とされる。したがって、イスラム神学者の主張する世界の無からの創造説とは逆に、世界は第一者たる神の流出の結果として永遠的とされる。流出の過程は、神から第一知性が発出し、第一知性からはさらに下位の知性が発出し、かかる発出が順次行われ、最後に質料的知性が個々の人間に出現するとされる。それゆえ神は個物を直接認知しえないとする。他方、質料的知性は個人の発育と努力に応じて上位の能動知性の域にまで到達しうると考える。能動知性の域に達した人間知性は、肉体の死とともに能動知性そのものと合体し永遠に存在すると主張している。他方、生きながら能動知性の域に達した人間として優れた哲学者や預言者をあげている。預言者は真理を日常的表現で説き、哲学者はそのことばのなかに真理をみいだすとする。これが西欧中世のラテン・アベロイストの二重真理説の源となった。
[松本耿郎]
彼の医学上の功績に、1162年以前著述の『医学汎典(はんてん)』Kitāb al-kullīyāt fī-l-ibb(ラテン名『コリゲット』Colliget)という概論書がある。そこでは貴重な観察として初めて網膜の機能を正しく理解しているし、天然痘にかかれば免疫になることも認めていた。
[平田 寛]