スコラ哲学(読み)すこらてつがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スコラ哲学」の意味・わかりやすい解説

スコラ哲学
すこらてつがく

ヨーロッパ中世の初期にカール大帝(在位768~814)はヨーロッパの各地に神学院を建設し、学問の育成に努めた。スコラ学の名称は、この神学校の教授doctores scholasticiに由来するが、その後、中世の神学院や大学で研究、教授されている学問が広くスコラ学Scholastik(ドイツ語)、scholastique(フランス語)、scholasticism(英語)とよばれるようになった。スコラ哲学は、そのうちの哲学の部分である。さらに、この中世のスコラ学の伝統を継承し、その発展としてある近代および現代の学派の学問もスコラ学とよばれる。日本に一時行われた訳語「煩瑣(はんさ)哲学」は、中世末期にスコラ学が形式化し、些末(さまつ)空疎な論議に堕した際の、スコラ学の傾向に対する非難の意味を込めた呼び名である。

 スコラ学はそれゆえ中世に行われた神学、哲学研究の全般を総括するもので、きわめて多岐にわたるものであるが、そこには全体に共通するいくつかの特徴もある。それは中世における学問研究の方法(スコラ学的方法)からくるものであって、これによって中世哲学のあり方が根本的に規定されている。(1)中世の学問研究は、まず、聖書と教父の著作、古代ギリシア・ローマの哲学者その他の著述家の著作の文献的研究から始まるものであった。それゆえ、これらの著作の読解、注釈、解釈が第一の仕事であった。この際、聖書は神のことばを伝えるものとしてもっとも重視された(聖書の権威)。(2)神のことばは、まず、信仰によって人間に受け入れられるが、「信仰」はやがて人間がそこに含まれる神の教えを「理解」して、新しい人として再生するためのものであった。そこで「信仰の理解」intellectus fideiということがスコラ学の目ざす目標であった。この際、信仰と理解(または理性)は相互に一方が他方を要求しながら、しかも一方が他方のうちに溶解し去ることを許さぬ緊張関係にあって、中世哲学を構成する二要因である。したがって、中世の哲学を「神学の婢(ひ)」として、一方に対する隷属関係においてだけみるのは一面的である。一方が他方に隷属するところではスコラ学は失われ、緊張関係にある二者の総合によってスコラ学は成立する。スコラ学の多様性はこの総合の多様性にある。(3)教父と哲学者の著作はこのために用いられた。それぞれの問題点に応じて、参照される諸典拠(権威)にみられる諸説が収集され、整理された。12世紀初期のペトルス・ロンバルドゥスの『命題論集』は、この種の著作の代表である。アベラルドゥスアベラール)は、これらの諸見解をそれぞれの論点について、肯定側と否定側との対立する二者に分類する方法(「然(しか)りと否(いな)」の方法)を導入した。13世紀のスンマSumma(単一にして簡潔な総括)はこれらの対立する諸見解間の調和総合の試みとして、種々の領域に関してなされた諸説の集大成であり、真に学術の総合の名に値する。トマス・アクィナスの『神学大全』Summa Theologiaeはそのなかでもっとも著名なものである。

[加藤信朗]

初期

カール大帝の時代から12世紀までで、新プラトン学派の哲学を導入し、偽ディオニシウスの翻訳によって大きな影響を与えたスコトゥス・エリウゲナ、信仰と理性の関係を明確に限定、スコラ学の方法を確立し、「スコラ学の父」とよばれるカンタベリーアンセルムス代表者である。神の存在に関するアンセルムスの証明は名高い。

[加藤信朗]

盛期

13世紀。アリストテレスの自然学書のアラビア哲学からの移入によって、在来の神学からは独立した知的研究がおこる。この新しい研究を大幅に採用し、しかも、これを伝統的なスコラ学の体系のなかに渾然(こんぜん)と融和させたのがトマス・アクィナスである。神学に対する哲学の原理的な独立性が保たれながら、全体は神学の体系として総合されている。これに対してボナベントゥラ(1221―74)は伝統的なアウグスティヌス的・神秘主義的傾向を守った。

[加藤信朗]

末期

14世紀。信仰と理性との調和がしだいに失われる。唯名論者オッカム、神秘主義者マイスター・エックハルトがある。

[加藤信朗]

『ジルソン著、渡辺秀訳『中世哲学史』(1950・エンデルレ書店)』『コプルストン著、箕輪秀二他訳『中世の哲学』(1968・慶応通信)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スコラ哲学」の意味・わかりやすい解説

スコラ哲学
スコラてつがく
scholasticism

西ヨーロッパ中世の聖堂や修道院の付属学院 scholaで研究され教えられた哲学,神学。大学が成立すると,神学部,人文学部の教科となった。自由七科など純粋に世俗的な学問も含むが,その中核は理性的認識と宗教的真理を補完的調和にもたらすことにあった。通例 4期に分ける。(1) 前期(9~12世紀) 科学,哲学,神学が未分化のなかで然りと否 sic et nonの弁証論的方法が実践され,普遍論争が展開されていった(→シック・エト・ノン)。代表者はフラックス・アルビヌス・アルクイヌス,ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナアンセルムス,ピエール・アベラール,サン・ビクトルのフゴら。(2) 最盛期(13世紀) 哲学と神学の区別が完成し,アリストテレスが哲学に取り入れられ,体系的なスンマが多く著された。アルベルツス・マグヌストマス・アクィナスドミニコ会アレクサンデル・ハレシウスボナベントゥラ,ヨハネス・ドゥンス・スコツスのフランシスコ会(→フランシスコ修道会)の二大潮流が形成された。(3) 後期(14~15世紀) 二重真理説を根底に哲学や科学で合理主義化が進み,唯名論が主流。ウィリアム・オッカムニコラウス・クザーヌスが代表者。(4) 近世(16~17世紀) 恩恵論争が盛ん。カエタヌス,フランシスコ・デ・スアレスらが代表者。このあとも学院での伝統は絶えず,20世紀にいたってデジレ・ジョゼフ・メルシエらの新スコラ哲学が脚光を浴び,哲学思潮の一つによみがえった。今日でもなお神学の基礎として教えられている。

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