十二イマーム派 (じゅうにイマームは)
Ithnā `Asharīya
シーア派内の主要宗派。スンナ派の正統四法学派と並んで,第6代イマーム,ジャーファル・アッサーディクJa`far al-Ṣādiq(699ころ-765)にちなみジャーファル法学派と呼ぶこともある。サファビー朝が同派を国教として以来,現代に至るまでイランにおいて支配的である。そのほか,イラク南部,ペルシア湾岸,レバノン南部,インド,パキスタンなどにも同派が分布する。アリーを初代イマームと認め,第2代ハサン,第3代フサインをたて,この男系子孫を第12代ムハンマド・アルムンタザルMuḥammad al-Muntaẓarまでたどる。教義上,各イマームは無垢無謬とされる。第12代は874年(872年の説もある)〈隠れ(ガイバ)〉の状態に入り,939年まで4人の〈代理者(ワキール,ナワーブ)〉による指導が行われた。この後現在まで〈長期の隠れ〉の期間に入っており,イマームは死んだのでなく,世の終末に〈時の主(サーヒベ・ザマーンṣāḥib-e zamān,イマーメ・アスルimām-e`aṣr)〉として再臨(ルジューウ)し,正義を実現するとされる。19世紀半ばにバーブ教はこの思想を背景として現れた。このようにイマームが隠れている間は,法学者(ファキーフ)だけがイマームの意図を知って信徒に指示を与える役割を行使する。イラン革命指導者ホメイニーが提起した〈法学者の統治(ベラーヤテ・ファキー)〉とはこのことを指している。スンナ派と同様に聖典コーランに次ぐ第2の典拠としてハディースを認めるが,さらに各イマームの言行をまとめた聖言行録(アフバールakhbār)をも重視する。この派の権威ある聖言行録はブワイフ朝下に成立し,クライニーKulaynī(?-939・940)の《宗教の学問の大要al-Kāfī fī`ilm al-dīn》,イブン・バーブーヤIbn Bābūya(923ころ-991)の《法学者の許に行かなくとも済む書Man lā yaḥḍruhu al-faqīh》,トゥーシーal-Ṭūsī(995-1067ころ)の《ハディースの検討Kitāb al-istibṣār》および《イスラム法の仕上げKitāb al-tahdhīb al-aḥkām》の4書である。この聖伝に従い,法学者の解釈に余地を与えまいとする主張は17世紀のアフバール派にみられた。これに対し,18世紀に法学者の解釈権イジュティハードを主張したウスール学派が勝利した。この結果,王朝支配から独立する法学者の〈最高権威(マルジャエ・タクリードmarjah-e taqlīd)〉説が再確認された。近・現代にはムジュタヒドの上級者がアーヤトッラーāyatullāhの称号をもち,その下にフッジャトル・イスラームḥujjat al-Islāmと称される法学者が多数いる。これら法学者を囲んで学生が学ぶモスク付属ないし聖地付属の学院ḥuze-ye`ilmīyeが,コム,イラク南部(アタバート)にある。信徒はイスラム法の解釈についてこれら個々の法学者に直接質問し,指示を仰ぎ,密接な関係をもつ。信徒は所得に応じ〈五分の一税(ホムスkhoms)〉を彼らに差し出す。
執筆者:加賀谷 寛
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「十二イマーム派」の意味・わかりやすい解説
十二イマーム派【じゅうにイマームは】
イスラムのシーア派最大の派。ジャーファル法学派とも。16世紀のサファビー朝以来イランの国教的存在。ほかにイラク南部,ペルシア湾岸,レバノン,インド,パキスタンなどにも分布する。ムハンマドの血縁であるアリーを初代イマームとして,この男系を12代まで認める。9世紀に12代イマームは〈隠れ〉たとし,世界の終末に再臨して正義を行うとする。イマームが隠れている間は法学者がイマームの意図を知ってウンマ(イスラム共同体)を導く。このため法学者が最高権威として認められ,その学識に応じてホジャトル・イスラム,アーヤトッラー,マルジャエ・タクリードなどと呼ばれる。
→関連項目イラン|ホメイニー
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十二イマーム派
じゅうにいまーむは
イスラム教シーア派のなかの一派。シーア派のなかで最大の信者をもち、サファビー朝以来イランの国教とされ、そのほかイラク、レバノンなどに信者がいる。預言者ムハンマド(マホメット)の従兄弟(いとこ)かつ女婿(じょせい)のアリー(600ころ~661)に始まり、ムハンマド・マハディーに至る12人をイマーム(教主)と認めるところに、その名は由来する。最後のイマームが874年に突如人々から身を隠して(ガイバ)以来、この「隠れイマーム」がふたたび出現し、正義と公正で世界を満たすことを待ち続けている。この再臨に至るまでは、ムジュタヒドとよばれる法学者・神学者たちがイマームの名代として宗教上の権威をもつ。一時婚、イマームへの上納金など、スンニー派と異なる法学や合理主義的な神学を発展させ、また独自の神秘哲学を生んだ。
[鎌田 繁]
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十二イマーム派(じゅうにイマームは)
al-Ithnā ‘Asharīya
シーア派の一分派。ムハンマドの女婿アリーとアリーの直系の子孫の計12名を無謬(むびゅう)の指導者たるイマームと認める。第12代イマーム,マフディーは874年以降「隠れ(ガイバ)」の状態にあり,世の終末に再臨し正義を確立するとされる。独自の法学,神学などを持ち,現在の信徒数は1億人強,同派を国教とするイランのほか,イラク南部,レバノン,南アジアなどに分布する。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
十二イマーム派
じゅうにイマームは
Ithnā ‘Asharīya
イスラーム教シーア派の中心をなす宗派
で,サファヴィー朝がこの派を国教と定めて以来イランの支配的宗派となっている。第4代カリフ,アリーを初代のイマーム(最高指導者)とし,「隠れ」た状態となっている男子直系の第12代イマーム,ムハンマド=アルムンタザルが終末に再臨すると考える宗派。第6代イマームの名前からジャーファル法学派とも呼ばれ,イマームが死んだのではなく隠れているという思想は19世紀にバーブ教が生まれる基盤となった。
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世界大百科事典(旧版)内の十二イマーム派の言及
【イスラム】より
…哲学者はいよいよ純粋に自らの理論をたどり,神学者は哲学者を危険視し始めた。しかし,イブン・ルシュドを最後にムスリムのアリストテレス学派の伝統は絶え,その後は[イブン・アルアラビー]の神智学と,[スフラワルディー]の照明哲学の結びついた[十二イマーム派]の神学的哲学が,イラン世界で独自の発展をとげたため,イスラムにあっては,啓示と理性とのぎりぎりの対決は回避された。 [イスラム神秘主義]の起源については学者によって意見が分かれ,ある者は外来の要素を重視し,他の者は内的発展の立場に立つ。…
【シーア派】より
…イマームを神格化する派は極端派(グラートGhulāt)と呼ばれ,[カルマト派],ヌサイリー派([アラウィー派])がある。これに対し[十二イマーム派]は穏健な立場をとり,フサインの子孫にイマームをたどり,隠れイマームのガイバの期間は,その意志は宗教法学者[ムジュタヒド]によって解釈され,また政治的にもムジュタヒドによる指導が行われるべきだという立場をとる。
[儀礼]
シーア派の主要宗派十二イマーム派は,イスラム法の基本的実践についてはスンナ派とほぼ共通している。…
【ホメイニー】より
…79年イラン革命の象徴的存在としてフランスより帰国。イマーム・[マフディー]の〈隠れ〉の期間は,最も優れた宗教法学者に国の指導権がゆだねられるべきであるとする[十二イマーム派]のベラーヤテ・ファキーの理念に基づき,イラン・イスラム共和国の最高指導者となった。【加納 弘勝】。…
【ワキール】より
…たとえばシーア派では,[イマーム]は個人的な代理人(ワキール)を使って信徒たちと連絡を取り合うことがしばしばあった。ことに[十二イマーム派]では,12代目イマームのムハンマド・アルムンタザルがこの世から隠れ(ガイバ)てしまってからは,イマームに代わってワキールがこの派の代表者の役割を果たした。 イスラム法のある分野では,法的な代理制度(ワカーラ)を認め,ワキールは法的代理人という意味で使われるようになった。…
※「十二イマーム派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」