改訂新版 世界大百科事典 「イリゴージェン」の意味・わかりやすい解説
イリゴージェン
Hipólito Yrigoyen
生没年:1852-1933
アルゼンチンの政治家。大統領(1916-22,28-30)。バスク系移民の子としてブエノス・アイレス市に生まれる。母の実弟に当たるアレムLeandro Alemの手引きで政界に身を投じ,1878年ブエノス・アイレス州議会の下院議員に当選。政治の刷新を求めた90年の革命に参加したのち,翌年アレムらとともに急進党(正式名は急進的市民連合)を結成した。93年同党が組織した全国的武装蜂起の際はブエノス・アイレス州の運動を指導し,一時州都ラ・プラタ市を制圧したが,連邦軍により鎮圧された。96年アレム自殺のあと党の最高指導者となり,当時頻繁に繰り返された選挙への行政府の介入に反対して,選挙ボイコット戦術を打ち出した。1905年党の再度の武装蜂起はまたも失敗に終わったが,当時の保守的支配層に大きな衝撃を与え,12年サエンス・ペーニャRoque Sáenz Peña大統領は,行政府の選挙介入を阻止する新選挙法を公布。この選挙法による最初の大統領選(1916)で,イリゴージェンは中間層などの支持を得て当選をはたし,地主層を支持基盤とした従来の政治体制にさまざまなメスを加えた。労働者や中間層を受益者とする福祉・年金制度を拡充し,18年には大学行政への学生組織の参加を認める画期的な大学改革を断行した。外交政策では民族主義的傾向を強め,第1次世界大戦中はアメリカの要請を拒否して中立を堅持し,戦後国際連盟が結成された際も,理事国制度が各国平等の原則に反するとして参加しなかった。22年には石油資源の自国による開発を目的とした国家石油公社(YPF)を創設し,経済的民族主義に道を開いた。28年大統領に再選されたが,29年の世界恐慌を機に国内の政情不安が高まり,30年9月軍のクーデタにあって失脚した。アルゼンチンの代表的な大衆政治家で,民族主義と大衆保護政策はのちのペロンに大きな影響を与えた。
→ポプリスモ
執筆者:松下 洋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報