日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィージー」の意味・わかりやすい解説
ウィージー
うぃーじー
Weegee
(1899―1969)
ウクライナ生まれのアメリカの写真家。オーストリアのレンベルク(現ウクライナのリビウ)近郊のズロチェウに生まれる。敬虔(けいけん)なユダヤ教徒の家庭に育つ。1910年、先に渡米していた父を追ってニューヨークのロワー・イースト・サイドに一家で移住。一家の生活は貧しく1913年には学業を断念。家計を助けるためさまざまな仕事につく。最初の仕事がティンタイプ(安価なブリキ板写真で、肖像撮影に多用された)による街頭カメラマンで、以来、商業写真家のアシスタントや暗室作業をこなしながら写真家として独立するきっかけを模索。1924年ころから、大手写真通信社アクメ・ニューズピクチャーズ(後にUPIに吸収される)に暗室技術者として勤務するかたわら、多忙をきわめるカメラマンにかわってしだいに自らニュース写真を撮影するようになり、「ウィージー」とよばれる。命名の由来には、暗室作業で印画紙についた余分な水分をふき取る器具スクィージーの転訛(てんか)であるという説、アクメ社のスタッフ・ルームではやっていた占いゲーム盤ウィージャ・ボードに由来するという説がある。卓越した暗室技術者となった彼は、状態の悪いネガから印刷に耐えるプリントをすばやく大量に制作することができた。1935年フリーランスの写真家となる。1938年警察、消防署用の無線機を使用する許可を得る。これを愛車シボレーに搭載し、マンハッタンで夜間に起こった事件、事故の現場に急行し、撮影するとただちに現像、プリントして『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』、『ニューヨーク・ワールド・テレグラム』New York World-Telegram、『デーリー・ニューズ』The Daily Newsといったタブロイド新聞に、交通事故、殺人、火災などを極めてリアルに伝える写真をつぎつぎに配信した。
血なまぐさい事件や暴力を直視するウィージーの写真はセンセーショナリズムと結びつくが、彼の主題はそれだけにとどまらない。都市の片隅で生きる貧しい人々の生活や、愛し合うカップル、場末の酒場の倦怠と喧噪(けんそう)など、さまざまな都市の要素をとらえている。熟練したプリント技術に支えられた彼の写真は、即物的で野性的な描写と鋭く洗練された構成力とを兼ね備えており、特に夜のニューヨークの魅力を引きだしている。その表現もまた、辛辣(しんらつ)な批評意識と温かいヒューマニズム、残酷さと優しさをあわせもつ。彼の傑作は30年代半ばから40年代半ばにかけての時期に集中しており、それらはビル・ブラントBill Brandt(1904―1983)のロンドン、ブラッサイのパリの連作と並び、大都市の夜を題材としたドキュメンタリーとしては、20世紀前半の写真史を代表するものといえる。
1941年初の個展を権威ある写真団体ニューヨーク・フォト・リーグで開催、1943年MoMA(ニューヨーク近代美術館)に写真5点が収蔵され、それらの作品が同年同館のグループ展「アクション・フォトグラフィ」および翌年のグループ展「進行中の芸術写真」に展示される。1945年彼のエッセイを付した最初の写真集『裸の街』Naked Cityを出版、写真家としての名声を確立する。ほどなくニュース写真の撮影を離れ、1947年ハリウッドへ赴(おもむ)き、映画俳優や撮影技術の助言者になる一方、ネガを加工し、あるいは特殊な露光を加えるトリッキーな技法に基づく「ディストーション(歪曲)」の連作を開始。1958年スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情』の制作に技術助言者として参加。1961年自伝『裸の街ニューヨーク』Weegee by Weegeeを出版。ニューヨークで没。
[倉石信乃]
『日高敏訳『ウィージー』(1979・クィックフォックス)』▽『日高敏訳『裸の街ニューヨーク――ウィージー自伝』(1981・リブロポート)』▽『Naked City (1945, Essential Books, New York)』▽『Miles Barth ed.Weegee's World (1997, Little Brown, Boston)』