改訂新版 世界大百科事典 「エティエンヌ父子」の意味・わかりやすい解説
エティエンヌ父子 (エティエンヌふし)
アンリ1世(1470?-1520)を初代とし,1502年から1630年に及ぶフランスの代表的初期印刷出版者・人文主義者の家系のなかでも,とくに傑出した父子。ラテン名はステファヌスStephanus。初代アンリの次男ロベール1世Robert I Estienne(1503-59)は,義父シモン・ド・コリーヌの印刷工房を継ぎ,聖書(ラテン語訳1528,ヘブライ語原典旧約1539-44,ギリシア語新約1546)や《羅仏辞典》(1538),《仏羅辞典》(1539)の編纂と出版,ギリシア・ローマ古典の活字化に心血を注いだ。王室御用古典語印刷者として王権の庇護を受け,その工房は人文主義者たちの交流の場となったが,宗教改革弾圧の激化と共に1550年カルバン指導下のジュネーブに亡命。同地で印刷出版をおこなう一方,風刺文《パリ大学神学者の図書検閲を笑う》(1552)や《フランス文法》(1557)を著した。
その長子,大アンリ2世Henri II Estienne(1531?-98)は若くしてギリシア・ラテン語に通暁し,イタリアその他に遊学,51年父の跡を追いジュネーブに定住して家業を継ぐ。その一方古典学者・国語擁護論者として《フランス語とギリシア語の近似性を論ず》(1566),《フランス語の卓越を論ず》(1579)などの重要な論文,カトリック社会の腐敗に対する痛烈な風刺とラブレー流の奔放な逸話から成る奇書《ヘロドトス弁護》(1566)などを著した。主著《ギリシア語真宝》全6巻(二つ折判,1572)の執筆と出版は,多大の犠牲を彼に強いることになり,彼は経済的苦境のどん底にリヨンで世を去った。
ロベールが51年ジュネーブで出版した聖書には初めて章節区分が導入されており,後にカトリック教会も正式にこの区分を採用したため,現在に至るまで聖書の章節は彼が始めた区分が踏襲されている。また,プラトンの作品においては,現在でもアンリが出版した全集版(1578)のページ付けに従って引照を行う慣しとなっている。
執筆者:二宮 敬+片山 英男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報