改訂新版 世界大百科事典 「エマンシピスト」の意味・わかりやすい解説
エマンシピスト
emancipist
オーストラリアで,刑期を満了したのちもオーストラリアに残留した流刑囚をいう。また流刑囚を両親に持つ法律家・政治家ウェントワースWilliam C.Wentworth(1790-1872)を頭首に,元流刑囚の平等な権利獲得運動を展開した圧力団体の呼称でもある。1788年の入植開始から流刑囚受入れ打切りの1868年までに,約17万5000の流刑囚がオーストラリアに送られ,彼らは入植地建設の公共事業のほか,個人の家庭に無償労働力として貸し出されたりして,開拓初期の中心労働力となった。服役は一般に苛酷を極め,脱走してブッシュレンジャー(追いはぎ)になったり,アイルランド政治犯中心の反乱(カースルヒル蜂起。1804年)なども発生し,重犯者は〈流刑地の中の流刑地〉バン・ディーメンズ・ランド(タスマニア島の旧称)その他に送られた。しかし満期出獄者はもとより仮出獄者にも,刑期終了時に一定の土地が下付されたので,彼らのあいだに成功者が現れると,多数派を構成する彼らに完全な公民権を与えることに対する不安と抵抗が自由移民や軍の将校たちのあいだに起こってきた。この反対者たちはウェントワースによってエクスクルーシビストexclusivist(エクスクルージョニストexclusionist)と呼ばれ,マッカーサーJohn Macarthurを頭領とした。両勢力の対立は,エマンシピストの弁護士G.クロスリーが初代最高裁判事によって出廷を2年間にわたって拒否された例が典型的に示している。歴代の総督はおおむねエマンシピストに協調的で,特に5代目のマックオーリーは進んで前記クロスリー,似たような迫害を受けた医師W.レッドファーンらをはじめとし,彼らを高い地位に登用し,自宅を中心とした社交会にも招いたので,エクスクルーシビストの反発は一層強まった。1821年に提出されたエマンシピスト側の請願書によれば,自由移民の成人1558名に対して元流刑囚は7556名,後者の所有土地面積は前者の3倍にすぎなかった。この数字を根拠に彼らは土地の取得,保持,譲渡に関する不平等を撤回させた。1840年ニュー・サウス・ウェールズの流刑囚受入れの中止後は,エマンシピストの呼称は用いられなくなった。
執筆者:越智 道雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報