日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウェールズ」の意味・わかりやすい解説
ウェールズ
うぇーるず
Wales
イギリスを構成する連合王国の一つで、グレート・ブリテン島南西部の半島状の地方。面積2万0779平方キロメートル、人口290万3085(2001)。首都はカージフ。中央部を占めるカンブリア山脈は、北寄りにイングランドとウェールズの最高峰スノードン山(1085メートル)があるが、大部分は1000メートル以下で、ヒースが生える丘陵性の荒野である。おもな川はディー、セバーン(上流部)、コンウェーなどで、ほかに多くの小湖水がある。海岸線は出入りに富み、西岸に最大のカーディガン湾がある。
気候は概して温暖で雨量も多い。農牧業が主産業であったが、平坦(へいたん)地が少ないため現在は山地の牧羊、牧牛以外にみるべきものはない。産業革命後、石炭産地の南部と、北部の海岸地帯で、石炭採掘と関連工業がおこり、とくに良質の無煙炭を産する南部はウェールズ最大の工業地帯となり、中心都市カージフは石炭輸出量で世界第1位となった。カージフを中心とする半径60キロメートルの円の中に、ニューポート、スウォンジー、ロンダなどの主要都市が含まれ、ウェールズ人口の4分の3が集まる。おもな工業は、金属、化学、陶器、石油などであるが、第二次世界大戦後は斜陽化が著しい。一方、近年は観光業が発展している。
行政上は長くイングランドと一体化していたが、1999年6月に新たにウェールズの行政府が発足した。文化的にはウェールズ固有のものがなお残り、伝統音楽や文学の保存、復原、研究なども行われ、住民の30%以上が英語のほかにウェールズ語を話す。宗教はイングランド教会派がしだいに減少し、メソジスト派が主流を占める。
[井内 昇]
歴史
ウェールズということばは、「外国人=ケルト系民族」の意の古英語ウェラスに由来する。地中海系の先住民もいたらしいが、この地域が一つの歴史的世界を形成するのは、紀元前7世紀ごろにケルト系民族(ゲール人、ブリトン人)が渡来してからのことである。前1世紀ローマの侵入に際して、ブリトン人は果敢に抵抗したが、その軍政下に組み入れられた。しかしローマが衰退すると、アイルランドから同系のゲール人が侵入し、一群の部族国家をつくり、またアイルランド系カトリックの布教を進めた。しかしイングランドでアングロ・サクソンによる支配が確立すると、ウェールズのケルト系民族はこの地に封じ込まれる形となった。イングランドのノルマン王朝は、ウェールズ南部の征服・植民を企てたが、北部のケルト勢力は抵抗を続けた。13世紀後半その首長ルウェリンLlywelyn ap Gruffud(1282没)が「ウェールズ大公」(プリンス・オブ・ウェールズ)を名のり、イングランド国王ヘンリー3世もそれを認めたが、エドワード1世は自らの宗主権を主張して、それに従わないルウェリンらのケルト勢力に対して1276年以降、征服戦争をしかけ、ウェールズをほぼ属領とすることに成功した。エドワード1世は、北部ウェールズのカーナーボン城で生まれた長子(後のエドワード2世)に、1301年「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を名のらせ、以後イングランド王の長子がこの称号を名のる習慣となった。しかしその後もこの地には慣行としての特権を主張する辺境領主が存在したため、イングランド内部の対立勢力の抗争の舞台となり、15世紀初めには、それに乗じた大反乱が起こった。
ばら戦争を頂点とするイングランドの内紛期にウェールズのジェントリは自らの地歩を固め、ヘンリー・チューダーを支持した。彼を開祖とするチューダー朝のもとで、1536年ウェールズ統合法が制定され、さらに1543年の法によりウェールズは行政的にもイングランドと一体となり、英語の使用が強制されることになった。しかし宗教改革に際し聖書と祈祷(きとう)書のウェールズ語への翻訳が認められたことは、後のウェールズの宗教と文化に大きな影響を及ぼした。18世紀にはイングランドと同様に大土地所有制が一般となり、中小地主は没落して、イングランド教会支持の上層階級と非国教徒の多かった大衆との断層を広げた。しかし産業革命によってウェールズの豊富な天然資源が注目を集め、ことにその炭坑は世界でも有数のものとなった。20世紀に入ると、ウェールズ文化とゲール語を再興しようとの声が高まり、「プレイド・キムル」(ウェールズ民族党)を中心に強く地方分権を要求、1997年の住民投票でウェールズ議会の復活が決定、1999年5月に議会選挙が行われ、6月に行政府が発足した。
[今井 宏]