シベリア鉄道(読み)しべりあてつどう(英語表記)Транссибирская Магистраль/Transsibirskaya Magistral'

日本大百科全書(ニッポニカ) 「シベリア鉄道」の意味・わかりやすい解説

シベリア鉄道
しべりあてつどう
Транссибирская Магистраль/Transsibirskaya Magistral'

ロシアのシベリア南部を東西方向に横断し、ヨーロッパ・ロシアと極東地方を結ぶ大陸横断鉄道。大シベリア鉄道Великая Сибирская Магистраль/Velikaya Sibirskaya Magistral'ともよばれる。当初の開通ウラル山脈東麓(とうろく)のチェリャビンスクから日本海に臨むウラジオストクに至る7416キロメートルだったが、現在はモスクワ(ヤロスラブリ駅)とウラジオストク間の約9300キロメートルの路線をさす。これは世界最長である(2013年時点)。

 1891年、帝政ロシア政府は、シベリア地方の植民・開発と極東における軍事力の強化を目的としてシベリア鉄道の建設を決定し、5月31日、皇太子(後の皇帝ニコライ2世)臨席の下にウラジオストクで起工式を挙行した。西側のチェリャビンスクからの工事は1892年7月に、中央部のオビ川イルクーツク間は1893年にそれぞれ着工された。多くの熟練・非熟練の自由労働者とともに、シベリア流刑囚人や中国人が過酷な建設工事に従事し、1895年、チェリャビンスク―オビ川西岸間が、途中のイルティシ川橋梁(きょうりょう)(1896年完成)を除いて開通したのを始まりに、1897年オビ川橋梁が完成、1898年4月、線路はイルクーツクに達した。また、1897年12月にはウラジオストク―ハバロフスク間も開通した。同1897年、その前年に締結された李(り)‐ロバノフ条約によって満洲里(まんしゅうり/マンチョウリー)から清国内に入り、ハルビンを経てウラジオストク北方のウスリースクに至る東清鉄道が着工され、1901年11月、ハルビンより分岐して旅順(りょじゅん/リュイシュン)に至る支線とともに全通した。これによって、すでに開通していたムイソフスク(バイカル湖南岸)―満洲里間とあわせて、シベリア鉄道はバイカル湖南岸の迂回(うかい)線区間を除いて開通し、バイカル湖の湖上連絡船を介して、ヨーロッパからウラジオストクへの鉄道連絡がなったのであった。シベリア鉄道建設のなかでももっとも難工事となったバイカル湖迂回線は、おりからの日本との戦争が近づくなかで工事を急ぎ、日露開戦後の1904年9月にようやく開通した。

 日露戦争において、ロシアが中国東北部の戦場に数十万人の将兵と大量の武器・弾薬、軍馬を集中しえたのは、まったくシベリア鉄道のおかげであった。しかし、長距離にわたって交換駅や待避線の不足した単線の線路、操車場や給水設備の不備、軽量のレールや不十分なバラストなどが軍隊の迅速な輸送を著しく遅延させたことも事実で、とくに戦争前半にはその弊害が著しかった。1900年にはモスクワ―イルクーツク間に豪華な寝台車で編成した旅客列車を走らせたが、日露戦争後はモスクワ―ウラジオストクおよび長春(ちょうしゅん/チャンチュン)間に国際急行列車が運転されるようになり、日本の所有に帰したかつての東清鉄道支線である南満州鉄道を介して、大連(だいれん/ターリエン)や北京(ペキン)へも列車が接続した。これはヨーロッパと極東をもっとも迅速に結ぶ交通路であった。同時に、この鉄道の開通は沿線への植民を促し、超割引料金の移民列車によって多くの農民が東方開拓のために輸送された。日露戦争後の1908年、東清鉄道に対する日本の脅威を理由として、アムール川の左岸を経由し、ロシア領内を通過してハバロフスク、ウラジオストクに至る路線が着工された。この線は第一次世界大戦中の1916年に全通し、これが現在のシベリア鉄道のルートとなっている。

 ロシア革命後、シベリア鉄道は、沿線のウラル、クズバス、アンガラ・バイカル、極東などの各コンビナートの形成と並行して、路線の強化(重軌条への交換、路盤の強化、複線化、電化、強力な機関車の開発など)が進められ、第二次世界大戦後も改良のピッチが促進されるとともに、多くの支線の建設が行われた。主要な支線には、バイカル湖東方のウラン・ウデから分岐してモンゴルの首都ウランバートルに至る線(1949年開通)、ハバロフスク西方で分岐し、アムール川下流のコムソモリスク・ナ・アムーレを経て、日本海岸のソビエツカヤ・ガバニに至る線(第二次世界大戦前に着工され、1945年開通)などがある。また、1930年代よりイルクーツク北西方のタイシェトよりバイカル湖北方、レナ川上流地域を経てソビエツカヤ・ガバニに至るバイカル・アムール鉄道(バム鉄道БАМ/BAM鉄道)が起工され、第二次世界大戦終結ごろまでにレナ川上流のウスチ・クトに達していた。1970年代にその延長工事が再開され、1984年、ウスチ・クト―コムソモリスク・ナ・アムーレ間約3100キロメートルが完成したことで、ソビエツカヤ・ガバニまで全線開通した。これらの鉄道の開通はレナ川上流域の開発促進に大きな効果をもたらすと考えられる。

 シベリア鉄道は全線電化され、バム鉄道も部分的に電化されている(2013)。シベリア鉄道の主たる機能は貨物輸送にあるが、モスクワ―ウラジオストク間に直通する旅客列車としては、「ロシア号」が隔日で一往復運転される。また、モスクワから北京と平壌(ピョンヤン)に直通する列車も運転されている。ちなみに「ロシア号」によるモスクワ―ウラジオストク間の所要時間は約150時間(車中6泊7日間)である。

[青木栄一・青木 亮]

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