百科事典マイペディア 「カメラータ」の意味・わかりやすい解説
カメラータ
→関連項目間奏曲
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…L.マレンツィオ,C.ジェズアルドやモンテベルディらは,マドリガーレの代表的な作曲家である。
[バロック]
1580年代のフィレンツェで,一群の貴族と文学者と音楽家がカメラータ(同志の意)と自称したアカデミアに結集し,古代ギリシアの音楽のあり方を探りつつ,ギリシア悲劇を復興しようとする運動を起こした。その結果,オペラが生まれ,バロック様式のひとつの基礎となった通奏低音伴奏の独唱歌が生み出された。…
…バッハの教会カンタータは教会曲Kirchenstückともよばれた。世俗カンタータはオペラと同様,フィレンツェのカメラータ(1580年ころバルディ伯家に集まって古代音楽の復興を論じた音楽家・文学者のグループ)の人びとによるモノディに発する。カンタータが表題に用いられた最初の例はグランディAlessandro (de) Grandiの《独唱用カンタータとアリア》(1620ころ)であるが,その音楽が,レチタティーボとアリアの対がいくつか連なった多楽章形式をとるようになるのは1640年代になってからである。…
…1590年ころからメディチ家の歌手となり,コジモ2世の治世(1609‐21)に宮廷音楽監督の地位を得る。フィレンツェでは1580年代末からメディチ家に仕える貴族(バルディ伯とコルシ伯)をパトロンとして,詩人,音楽家,理論家たちが〈カメラータcamerata〉と称するアカデミーを結成し,古代ギリシア悲劇の朗唱法の復活を目ざして研究をつづけていたが,ペーリは90年代半ばからこのカメラータの一員となり,詩人リヌッチーニOttavio Rinuccini(1562‐1621)の協力を得て,音楽的物語《ダフネDafne》(1598初演)と《エウリディーチェEuridice》(1600年メディチ家の婚礼の余興として初演)を完成する。この2作品は,カメラータの会員たちの理論的研究の成果である〈舞台様式stile rappresentativo〉を実践したもので,今日,レチタティーボを用いた近代的なオペラの誕生を意味する作品と見なされている。…
※「カメラータ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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