翻訳|Firenze
イタリア中部,トスカナ州の州都。英語,フランス語ではFlorence(フローレンス,フローランス)。人口36万6901(2005)。かつてルネサンス文化の中心であり,今日でも旧市街は〈都市博物館〉といわれるほど多くの記念物がある。
ローマの植民都市としてアルノ川の渡河点に建設され,ローマと北イタリアとの関係が密接になった前1世紀には重要な都市となった。ほかの都市と同様に初期中世の混乱期に都市の規模は収縮したが,ランゴバルド時代,フランク時代にも地方行政の中心としての機能を保持していた。中世都市としての発展は11世紀に始まる。この時代の民衆宗教運動や教会改革は都市住民の市民意識を覚醒させた。叙任権闘争における教皇側の有力者であったカノッサのマティルデMatilde di Canossa(1046-1115。トスカナ辺境伯)の支配下で少しずつ都市の自治権を獲得し,1115年のマティルデの死後自治都市(コムーネ)となった。その代表コンソレについては1138年に史料に初出。12世紀中に近隣の封建領主やフィエゾレFiesoleの町と戦い,勢力を拡大させた。しかしフィレンツェの発展は,同じトスカナ地方のピサ,ルッカ,シエナなどに比べると立ち遅れていた。フランスからローマに至る中世の主要道路であった〈ビア・フランチージェナ〉(フランス街道)がこれらの町の近くを通っていたのに対し,フィレンツェはやや外れていたからである。近隣都市との抗争は,13世紀になると都市内に教皇派(ゲルフ),皇帝派(ギベリン)の対立を生み出し,都市政治は混乱し,13世紀初頭には他都市出身の司法官に一定期間の政治をゆだねるポデスタ制が成立した。
1250年の皇帝フリードリヒ2世の死とともに,フィレンツェは教皇派の中心都市としての地位を確立した。経済的にも教皇庁財政と結びついた国際的金融業やフランドル産毛織物の交易などで急速に成長し,14世紀初頭にはイングランド産の上質羊毛を原料とする毛織物工業を発展させ,南イタリアをはじめ地中海諸地域へ送り出すようになった。また,旧来の都市貴族(豪族)の支配に対抗して,商人や一部の手工業者層の勢力が増大し,アルテ(ギルド組織)を基盤とする政治組織であるプリオーリ制が成立した(1282)。
人口も急増し,14世紀初頭には10万程度に達したと考えられている。ベネチア,ミラノなどとならんでヨーロッパ有数の都市に成長したわけである。都市域も著しく拡大した。ローマ時代の都市域はアルノ川北岸に位置し,周囲約2kmの長方形をなしていた。中世初期の混乱期に都市域はやや縮小したが,10世紀にはふたたび拡大し,12世紀にはアルノ川南岸のオルノラルノ地区が都市域に含まれるようになった。市壁の延長は約4kmに達した。しかし,13世紀から14世紀初頭にかけての人口増大は著しく,1284年から1333年までかかって延長8.5kmの市壁が完成した。市壁に囲まれた範囲は500haにも及ぶ広大なものであった。ただし,市壁の内側を家屋が埋め尽くすという事態は19世紀になるまで生じなかった。1348-49年の黒死病(ペスト)以後人口は急速に減少し,市壁内に多くの空地が残ることになったのである。
以上のような都市域の発展がローマ都市を核として行われたことはとくに注目に値する。ローマ都市の中心であるフォルムは,中世の〈メルカート・ベッキオ〉(旧市場)となって商業活動の中心として生き続けた(現在の共和国広場)。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂やサン・ジョバンニ洗礼堂もかつてのローマ市域の北端にあり,市庁舎であるパラッツォ・ベッキオはローマ市域の東南の外れにあった。毛織物その他の主要なアルテの建物もこの地域に点在していた。つまり,宗教,政治,経済の中心はすべてローマ市域の内部あるいはすぐその外側に存在していた。このようなローマ時代から中世への中心地の連続性は,イタリア都市の重要な特徴の一つである。
このように14世紀初頭はフィレンツェの文化的・経済的発展期であったが,都市内の党派の抗争は激しく,ダンテの亡命のような事件も生じている。14世紀中葉になると百年戦争や黒死病の影響を受けて国際的商業・金融業が危機を迎え,バルディ家,ペルッツィ家などの有力商人の破産が続出した。対外的にはルッカ,ベローナのデラ・スカラ家,ミラノのビスコンティ家などと激しく対立していた。このような軍事的危機に際してフィレンツェはナポリのアンジュー家の援助を受け,ごく短期間ではあるが,その支配に服することもあった。しかし1343年にアンジュー家の武将アテネ公の支配を自力で排除したあとは共和政の理念がふたたび確立し,これがルネサンス期を通じてフィレンツェの強固な伝統となった。
78年に生じた毛織物工業の下層労働者の反乱〈チョンピの乱〉はわずか1ヵ月で弾圧されたが,82年にいたるまで新興商人や手工業者層の影響力が残っていた。その後政権を掌握したアルビッツィ家とその一党は寡頭制的な支配を行ったが(1382-1434),共和政(都市国家体制)を維持した。むしろこの時期にはミラノのジャンガレアッツォ・ビスコンティとの対立のなかで共和政の理念と市民の政治参加の義務を強調する〈市民的人文主義〉が発展した。またフィレンツェの勢力はシエナを除くトスカナ一円に拡大した。
1434年にコジモ・デ・メディチが権力を掌握した。彼は政敵を次々に排除し独裁的な地位に達したが,都市国家体制に手をつけることはなかった。また積極的な外交を展開してベネチアの進出を押さえ,ローディの和(1454)によるイタリア諸国の勢力均衡の成立に貢献した。この方針は孫のロレンツォによって受け継がれた。彼らは学芸の保護者として有名で,フィレンツェをルネサンス文化の中心地とした。建築のブルネレスキ,彫刻のドナテロ,絵画のマサッチョ,ボッティチェリなどが集まった(フィレンツェ派)。M.フィチーノの〈アカデミア・プラトニカ〉は新プラトン主義の中心であった。新しい教会やパラッツォの建築が行われ,中世以来の細い曲りくねった道が改修され,都市景観のうえでも大きな変化が生じた。1492年にロレンツォが死去し,94年にフランス王シャルル8世が南下すると,市民はメディチ家を追放しサボナローラを精神的指導者とする共和政が成立した。しかしサボナローラは98年に処刑され,都市政治はきわめて不安定となった。1502年にピエロ・ソデリーニが終身の統領(ゴンファロニエーレ)に選ばれた。第二書記官長として起用されたマキアベリは外交に活躍し,軍事制度の改革を試みたが失敗に終わった。
1512年,教皇ユリウス2世とスペイン軍の援助を得たメディチ家が復帰した。メディチ家からはレオ10世,クレメンス7世の2名の教皇が出て,フィレンツェとローマの関係は密接になり,ルネサンス文化がローマに移植された。アレッサンドロ・デ・メディチはスペインの援助によって32年にフィレンツェ公となり,さらにコジモ1世はフィレンツェ公(1537),トスカナ大公(1569)となった。こうしてフィレンツェの共和政の伝統は消滅し,トスカナ全域を支配する領邦国家(トスカナ大公国)が成立した。しかしフィレンツェは文化の中心としての地位をしだいに失っていった。ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチの例が示すように,芸術家たちもローマやミラノへ移っていった。アカデミア・デラ・クルスカ(1582創設)の言語研究,アカデミア・デル・チメント(1657-66)の実験科学などの新しい企ても行われたが,文化の最前線に位置することはできなくなっていた。かつての繁栄を支えた金融業や毛織物工業の比重が低下し,農業への依存度が増大した。1737年にメディチ家が断絶するとトスカナはオーストリアの支配下に入った。レオポルド1世の時代(1765-90)にはフィレンツェはイタリアにおける啓蒙的改革の一つの中心となったが,都市生活に大きな変化はなかった。17世紀中葉の人口は約7万,19世紀初頭には約8万,トスカナのサルデーニャ王国合併の行われた1859年で約11万であり,かつて14世紀に築造された市壁の範囲で人々は生活していた。
フィレンツェが大きく発展し始めたのは1865年から71年までこの町がイタリア王国の首都となってからである。3万の人口が一挙に増加したが,その大部分は政府に勤務するピエモンテ出身者であった。新しい市街地が作られ,アルノ川北岸の市壁が破壊されてその後は広い環状道路となった。アルノ川南岸の丘の上にはミケランジェロ広場や広い並木道が作られた。中心部の再開発も行われ,旧市場広場が破壊され改装された。その際に中世以来の多数の建物が壊され,雑然としているが活気に満ちた市場の景観が失われてしまった。
文化面で重要なのは新聞《ラ・ナツィオーネ》(1861),歴史学雑誌《アルキビオ・ストリコ・イタリアーノ》(1842),文学評論雑誌《ヌオーバ・アントロジーア》(1866)などが発行されたことで,フィレンツェはイタリアの重要な文化的中心地となった。また,ラスキンやアナトール・フランスなどの外国人の著作によってフィレンツェの文化遺産の価値が広く喧伝された。
首都がローマに移ると人口が一時減少したが,世紀末からふたたび増大し,20世紀初頭には20万を突破,さらに1951年には40万に達している。第1次大戦以後都市域がさらに拡大し,とくに近年は北西の平地に向かって伸びている。第2次大戦末期にはアルノ川をはさんで戦闘が行われ,ポンテ・ベッキオを除く五つの橋がすべて爆破されるなど,両岸に大きな被害がでた。また66年11月4日の集中豪雨による洪水は都市中心部に莫大な被害を与えた。全世界から義援金が寄せられ,美術品や建築物の修復が行われたが,修復不可能なものも少なくない。イタリアの中央図書館である国立図書館や国立文書館も大きな被害を受けた。経済的にはフィレンツェはなおトスカナの農業中心地としての性格をもっているが,一部には機械工業も発達している。高速道路の沿線には工場や物流基地の進出がみられる。フィレンツェはミラノとならんで出版の中心地であり,ファッション産業も活発である。しかし都市の経済を左右しているのは何といっても世界中の人々を迎える観光業であろう。木工,わら細工,銀細工などの伝統的手工業も観光と結びついて盛んである。
執筆者:清水 廣一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア中部、トスカナ州の州都で、フィレンツェ県の県都。名称は「花の都」の意味で、英語名フローレンスFlorence。人口35万2227(2001国勢調査速報値)。ローマの北北西277キロメートル、アルノ川両岸の丘陵と扇状地の上に位置する文化・学術都市。とりわけ中世後期からルネサンス期にかけて、文学や美術の世界的中心地となり、その遺産が今日に伝えられている歴史・観光都市として知られる。なお1982年に歴史地区は世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
古くから、アルノ川沿いの交通路と、アペニン山脈を越える交通路を結ぶ交通の要所として発展した。気候は温暖で、平均気温は1月5.6℃、7月25℃である。イタリアを南北に結ぶ鉄道の幹線上に位置し、ローマ、ミラノ、ベネチアと連絡する。また西のリボルノ、北東のファエンツァ、ラベンナにそれぞれ支線が延びている。同じく、イタリアを南北に貫く高速自動車道路が市の南西部を通っており、イタリア各地と結ばれる。空港は北西にペレトラ空港がある。産業では、家具、陶器、手袋や靴などの皮革製品、金銀細工、刺しゅうを施した織物などの精巧な手工芸品が有名である。ミラノと並んで婦人服生産も活発で、ピッティ宮殿などでファッション・ショーが開催され、外国からも多くのバイヤーが訪れる。また、年間を通して世界中から訪れる多くの観光客があり、ホテルなどの観光産業が盛んである。
[藤澤房俊]
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は13世紀末に建築が始められ、高さ112メートルの赤い丸屋根は、15世紀初めにブルネレスキによって建築された。大聖堂が共和国時代のフィレンツェの宗教的中心地であるのに対して、政治的中心地であったのがシニョリーア広場である。広場に面して共和国の政庁であったベッキオ宮殿が建つ。宮殿は13世紀末に着工され、高さ94メートルの塔をもつ。ウフィツィ美術館は1560年にジョルジョ・バザーリの設計でつくられたメディチ家の政庁で、現在はルネサンスの巨匠たちの作品を収蔵している。アルノ川に架かるベッキオ橋(ポンテ・ベッキオ)は、橋全体が2階建ての建物になっており、1階に商店が並ぶ特異なもので、1345年に完成した。橋の南にあるピッティ宮殿は15世紀の建造、現在はピッティ美術館となっている。同美術館は16~17世紀の絵画を展示する。ほかにルネサンス時代の彫刻を集めたバルジェッロ美術館、ミケランジェロの彫刻を収めるアカデミア美術館などがある。これら美術館・博物館の数は町全体でおよそ40にも及び、町自体が一つの美術館・博物館の観を呈している。教会では、フラ・アンジェリコと弟子たちが多数のフレスコ画を描いたサン・マルコ修道院、ルネサンスの宗教建築の最高傑作の一つに数えられるブルネレスキ設計のサン・ロレンツォ聖堂などが知られる。さらに、蔵書400万冊を擁する国立中央図書館、古い写本を多く収蔵するミケランジェロ設計のラウレンツィアーナ図書館、1924年創設のフィレンツェ大学などの文化施設がある。
[藤澤房俊]
エトルリア起源説は疑わしいが、紀元前20~前30年ごろにローマ人が植民、帝政時代に発達した。紀元後5世紀のゴート人による破壊後、カール(大帝)の来訪(786)をきっかけに復興が始まった。トスカナ女伯マティルデ(1070年伯位相続)の時代に貴族と有力市民を核とする自治が始まるが、コムーネ(自治都市)の形成は1120年代である。1215年貴族がグェルフ党(教皇党)とギベリン党(皇帝党)に分裂し戦った結果、前者と大商人が政権を握った。以後貴族間の抗争、支配圏拡張戦遂行の過程で大商人が勢力を伸張し、1250年、1282年の憲法改正を経て、1293年「正義の規定」を制定した。これによりアルテ(同業組合)がコムーネの政治基盤となり、2か月ごとに組合員から選出される代表プリオーレが行政執行府を構成、貴族の行動は著しく制約されることとなった。また1290年代にはフィレンツェ商人は教皇庁より徴税業務を委託され、金融業、貿易面で国際的に活躍した。毛織物工業も従来の羊毛布の輸入―加工―輸出型から、原料よりの一貫生産に切り替えられ、経済は飛躍的に発達した。年代記作家ビッラーニGiovanni Villani(1276ころ―1348)によると、1338年にこの都市国家は9万の人口を擁し、ヨーロッパで五指に入る大都市であった。
しかし、商路確保のため近隣諸都市との戦いが相次ぎ、戦費捻出(ねんしゅつ)のための重税が経済不振と社会不安を招いた。そこで不満を抑えるために市政府はアテネ公グアルティエーリと契約する。やがてアテネ公は自ら統領の座につくが、わずか1年で追われ、1343年、より広い政治基盤にたつ新体制が発足する。しかし数年後、バルディ銀行を筆頭に大銀行の破産が続出、1348年ペストが未曽有(みぞう)の猛威を振るい、人口は半減、市場は縮小、景気は悪化した。そのうえ1375~1378年には教会を相手に「八聖人戦争」を戦うなど、これら悪条件の重なりが、1378年の「チョンピの乱」となって爆発する。この毛織物工業の下層労働者の暴動により一時政局は麻痺(まひ)するが、一揆(いっき)はまもなく鎮圧され、結局この動きの黒幕の新興大商人グループの寡頭体制が進んだ。
1380年代後半より商業貿易が上向き、1412年前後の十数年間、フィレンツェは黄金時代を迎える。絹織物工業と工芸品産業の好景気と海上権確立によるものであった。1422年ミラノの拡張政策が始まると、フィレンツェは例のごとく戦費調達―重税―経済不振の悪循環に陥り、旧家アルビッツィと新興勢力メディチ家の対立が深まる。そして1434年コジモ・デ・メディチが実権を握り、以後同家を軸とする寡頭支配時代に入る。1494年メディチ家は共和国を追われ、フィレンツェにはより民主的な政治体制が敷かれる。やがてサボナローラのいわば神政が始まるが、彼は教皇と正面衝突のあと、市民にも離反され、1498年処刑された。1512年メディチ家がカール5世の軍と教皇の後押しで復帰し、憲法が廃止され、共和制は解体する。1527年市民は再度メディチ家を追放、1530年まで共和制が復活するが、スペイン軍の前にフィレンツェは降伏、メディチ家が権力の座につき、共和制は実質的に倒れ、1532年同家のアレッサンドロが公爵に叙され、フィレンツェ共和国は形のうえでも終焉(しゅうえん)する。
1537年即位したコジモ1世は、官僚機構の整備、属領統治など国家形成に力を注いだ。1569年トスカナ大公国成立によりフィレンツェはその首都となるが、1731年メディチ家断絶後、ロレーヌ家に継承され、とくに啓蒙(けいもう)君主レオポルトの在位期(1765~1790)とレオポルト2世の治世の初期(1824~1849)、トスカナ大公国およびフィレンツェには活性化がみられた。リソルジメント(イタリア統一運動)の高まりのなかで、1859年大公は退位し、1860年国民投票によりイタリア王国への併合が可決され、1865~1870年の間、フィレンツェは同王国の首都であった。
[在里寛司]
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イタリア中部トスカーナ地方の中心都市。エトルスキにより建設されたとされる。のちローマに服属し,ローマ帝国崩壊後はランゴバルド,フランクに支配される。1115年に自治都市の地位を与えられ,教皇庁との密接な関係により経済的に発展した。13~14世紀には毛織物業,商業,金融で繁栄。15世紀に入ると政治の実権を握ったメディチ家の庇護のもとに芸術活動が隆盛をきわめ,イタリア・ルネサンスの中心地となる。1596年,メディチ家にトスカーナ大公の称号が与えられ,すでに形骸化していた共和制に終止符が打たれた。1738年にトスカーナ大公位がハプスブルク家に譲渡され,オーストリアの支配下に入った。イタリア統一後,1865年から71年までイタリア王国の首都となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…これ以後,ゲルフは教皇,アンジュー家,フランス王に結びつく勢力となり,大きく発展した。13世紀後半におけるフィレンツェの躍進は,このようなゲルフの中心都市としての役割に負うところが大きい。以上のようにこの語は厳密には13世紀以降のものであるが,〈反皇帝派〉という意味で,後世の歴史家によって12世紀のロンバルディア都市同盟の時代を記述する際に使用されることも多い。…
…捺染技術も木綿原産地のインドで始まりエジプトに伝えられたらしい。中世の染色技術はユダヤ人の秘伝であったのが,13世紀にイタリアのシチリア,フィレンツェ,ベネチアなどの都市に伝えられ,染色工のギルドが結成された。1540年にロセッティGiovanni Ventura Rosettiにより最初の染色書が記述され,このころから天然染料の種類も豊富となった。…
…長編叙事詩《神曲》を著して,ヨーロッパ・ラテン中世の文学,哲学,神学,修辞学などの伝統を総括し,同時に踵(きびす)を接して現れたペトラルカ,ボッカッチョと並んで,ルネサンス文学の地平をきりひらいた。 フィレンツェの小貴族の家柄に生まれ,父はアリギエーロ・ディ・ベリンチョーネ,母はベッラ,祖父の祖父カッチャグイーダは第2回十字軍に加わって戦死している。祖父ベリンチョーネと父アリギエーロはフィレンツェとプラトで金融業を営んでいた。…
…面積2万2900km2,人口353万(1994)。州都はフィレンツェ。北東のアペニノ山脈には標高2000mに達する山があり,全体として西側の海に向かって低くなっていく。…
…中世イタリアの年代記作者。フィレンツェの商人の家に生まれ,大商人ペルッツィ家の会社に入り,1300年ごろからフランスのパリ,ブルージュなどで商業活動に従事した。08年ごろ故郷に戻り,ブオナッコルシ家の会社に入ってこれを有力な商社に育てた。…
…イタリア中部,トスカナ地方の古都フィレンツェで活動した美術家の総称。おもに14世紀初頭から16世紀中葉にかけての人々を指す。…
※「フィレンツェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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