キリスト教美術(読み)きりすときょうびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「キリスト教美術」の意味・わかりやすい解説

キリスト教美術
きりすときょうびじゅつ

キリスト教に関する美術全般をさす。単にキリスト教徒の信仰の中心たる教会堂建築およびその壁画、ないしは典礼上の用具だけではなく、信徒の私的な信仰生活にかかわるものまで広範囲にわたる。形式上の分類に従えば、まず建築では、集会所(エクレシア)としての教会堂以外にも、礼拝堂、洗礼堂、廟堂(びょうどう)、修道院建築などが含まれる。絵画も、建築に付随したモザイク画、フレスコ画ステンドグラスといった壁画以外に、聖書や典礼書などの写本挿絵ミニアチュール)、奉納画たる祭壇画などがある。内容的には、『旧約聖書』『新約聖書』、聖者伝に題材をとったものだけでなく、個人的な信仰表現としてのものも、キリスト教美術といえる。建築、絵画以外にも、彫刻、工芸など美術全般にわたって、キリスト教徒が神の栄光をたたえるために表したものが、キリスト教美術といえるであろう。とくにヨーロッパの美術においては、今日に至るまで、もっとも重要な主題であった。

[名取四郎]

キリスト教美術の誕生

ユダヤ教は厳しく偶像崇拝を禁じ、画像表現に反対した。ユダヤ教を母体とするキリスト教も、その本質においては、「神は霊なれば、拝するものも霊とまこととをもって拝すべきなり」(「ヨハネ福音書」4章24節)のことばにみるように、不可視な神の存在を、偶像崇拝に陥りやすい感覚的で可視的な画像で表現することに否定的であるのはいうまでもない。2~4世紀の初代教会の教父たちのことばには、こうした画像表現についての否定的見解が認められる。しかし、ローマに数多く残るカタコンベ(地下墓所)のフレスコ壁画や石棺浮彫りなどにみられるように、4世紀初頭のキリスト教の勝利(313、ミラノ勅令)以前にも、すでに2世紀末ごろからキリスト教美術は存在した。キリスト教以上に厳しく偶像崇拝を禁じたユダヤ教でも、実際には、2~3世紀のドゥラ・エウロポスシナゴーグの壁画が示しているように、画像表現はあった。キリスト教美術も古代末期ローマ美術の枠内で、一つの宗教美術として誕生したのである。しかし、物質的な色彩で描かれたものへの信仰の移ろいやすさを自覚し、石材や木材で彫られた聖像を偶像崇拝の危険があると禁じた当時の神学者たちの見解にみるように、キリスト教美術がキリスト教の教義に反して生まれてしまったことへの反省は、歴史を通じてたびたび現れる。

 東ヨーロッパの中世美術であるビザンティン美術が経験した聖像破壊運動(イコノクラスム)は、726年から843年の間ビザンティン帝国を揺るがした宗教的、政治的大事件であったが、本来不可視であるべき神の存在を美術という手段で表現することの可否をめぐる論争であった。最終的には画像擁護論者が勝利を収めたが、西ヨーロッパ中世においても同様な現象は、12世紀の聖ベルナルドゥスの神学を実践したシトー会修道院建築に認められる。そこではいっさいの画像表現を避け、植物文様が唯一の許された装飾であった。同時代のクリュニー派などの壮大なロマネスク美術の図像体系と比較して、きわめて対照的な美の世界がそこにはある。しかし他方では、初代教会の教父たちの著作や、4世紀ないし5世紀の宗教会議の決議事項には、美術を積極的に利用しようとする見解も含まれている。殉教者をたたえるためにその功績を絵画によって表し、教会堂の壁画として描かれた『旧約聖書』や『新約聖書』の物語は、たとえば読み書きのできない信徒の教化に役だつなどの考えであった。迫害時代には私宅教会やカタコンベ内の集会所や墓所の壁画、さらには死者を弔う石棺の浮彫り装飾などにみるように、3世紀から4世紀へと至る時代に、キリスト教美術はしだいに図像体系を整えてゆく。しかし、なんといっても大きな飛躍を遂げたのは、313年のキリスト教の勝利以降のことで、パレスチナおよびローマを中心に、地中海沿岸や黒海沿岸、さらには小アジアや中近東の内陸部に至るまで、次々に教会堂が建造されていった。ここに至って壁画も、一般教会堂、殉教者記念会堂、洗礼堂、廟堂などの建築の使用目的に応じて、その図像体系が整理され、確立されてゆく。

[名取四郎]

中世キリスト教美術

こうした誕生期のキリスト教美術は、おのずと古代末期のローマ美術の影響を多大に受けていた。たとえば、当時のローマ美術の葬礼美術に一般的な死者の魂を慰める羊の群れを従えた羊飼いを「善(よ)き牧者」たるキリスト像表現として用いたり、動物たちの間で竪琴(たてごと)を奏でるオルフェウスがキリストを表すことになったり、ローマ美術中の象徴的な表現形式がそのままキリスト教美術へ転用された例も多い。また立像ないしは座像のキリストを使徒たちの中心に配した栄光のキリスト表現も、ローマ帝国の皇帝崇拝の形式を借りて生まれたものであった。様式的にみても中世キリスト教美術の一つの特質となる超絶的、精神主義的な性格は、3世紀から4世紀におけるローマ美術そのものの変質の枠内で培われたものとさえいえる。

 キリスト教美術の第一の目的は、なにはさておき神の栄光を賛美することにあり、それは殉教者崇拝や聖者崇拝へとつながってゆく。教会堂東端の内陣部アプシス壁面には栄光のキリストが描かれ、堂内南北の側壁面には、第二の重要な目的と思われる信徒の教化のために、『旧約聖書』物語や『新約聖書』のキリストの生涯の諸場面、さらには聖者伝などが描かれるのが原則となってゆく。モザイク技法やフレスコ技法の壁画以外にも、聖書や典礼書の写本に施された挿絵、ビザンティン美術に特有の聖なる板絵イコンなどがある。大規模な彫刻がふたたび復活するのは11~12世紀以降のことである。工芸においては、金や銀に打出し技法を施した典礼用の諸器具、聖遺物箱などにみる象牙(ぞうげ)浮彫りなどがある。ゴシック美術時代に至ってステンドグラスの技法が栄えるなど、キリスト教美術は時代によって、地域によって、そしてその使用目的に応じて、多彩な展開を示してゆくことになる。6世紀以降、東ヨーロッパのビザンティン美術は首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)を中心に独自の展開を示し、1453年の帝国滅亡の日まで、西ヨーロッパの中世美術とは質を異にするキリスト教美術を発展させた。6世紀のユスティニアヌス皇帝時代に実現された第一期の黄金時代ののち、とくに聖像破壊運動の終結後、9世紀から13世紀に至る中期には、教会建築および壁画の図像体系の確立、そしてイコンの隆盛などがあり、今日もギリシア正教圏内の国々にはみごとな遺例が残されている。

 西ヨーロッパでは民族移動の混乱期にも、ローマを中心に古代美術から中世美術へとキリスト教美術は着実にその歩みを進めていった。しかし西ヨーロッパの真の中世美術の幕開きは、9世紀のカロリング朝時代を経たのち、11~12世紀のロマネスク美術における大聖堂時代の始まりにあるといえる。古代末期以来、神学上の理由から避けられていた大彫刻が復活し、とくに教会の正面入口の外壁面には「最後の審判」を基調とした荘厳なるキリスト像が彫られるようになる。さらに内部の柱頭彫刻などでも、単にキリスト教の主題のみならず、1年の暦や労働の暦日、日常生活の情景に根ざした善徳と悪徳のアレゴリーなど、きわめて教育的役割をもった装飾体系が確立された。フレスコ壁画をも含めて、ロマネスク時代の教会は貧しい人々の聖書ともみなされ、石の百科全書ともよばれることになる。この伝統は12世紀後半から現れる次のゴシック美術でさらに発展する。しかし様式的には両者は非常に異なる。ロマネスク美術が神秘的で抽象的な性格をもっていたのに反し、ゴシック美術には写実的で人間感情の直接的表現が顕著となっている。都市の市民生活が活発となり、その活動の直接の反映がゴシック美術にはすでに認められるわけで、外壁面が隅々まで彫刻で飾られ、窓という窓には全面にステンドグラスがはめ込まれたゴシックの大聖堂(カテドラル)は、まさに市民生活の中心的位置を占めることになったのである。

[名取四郎]

ルネサンス以降

しかしこうしたキリスト教美術の時代は14世紀で終わりを告げ、ルネサンス美術の時代に入ると、主流は世俗美術に傾いてゆく。中世美術にみたような大きな時代様式としてのキリスト教美術の時代は終わり、美術が宗教からしだいに独立してゆく過程で、キリスト教美術も個々の画家の作業に任されることになる。もちろんルネサンス時代にも教会堂壁画や祭壇画など数多くのキリスト教美術は生まれたが、中世にあったような宗教感情、道徳、さらには生活の面における民衆に対する指導的立場をすでに失ってしまった。16世紀の宗教改革の時代にキリスト教美術はふたたび大きな試練の場にたたされる。プロテスタント教会は従来の美術に偶像崇拝の危険を認め、とくにカルバン派が行った大聖堂の彫刻破壊運動は北部フランスを中心に猛威を振るい、その痕跡(こんせき)はいまもなお生々しく残っている。ローマ・カトリック教会側は宗教改革に対抗し、さらにルネサンス文化の異教主義に対抗して、16世紀後半にトリエント公会議を開いて立て直しを図り、キリスト教美術もここで近代美術にふさわしい基礎を築くことになる。バロック美術の壮大な教会建築と壁画によって、キリスト教美術はいったん再興したかにみえたが、それもしだいに形骸(けいがい)化し、17世紀のエル・グレコやレンブラントなどの幾人かの画家の業績を別にすれば、19世紀まで教会美術は衰退の道をたどったといえる。

 20世紀になってやっとルオーの作品群をはじめ、ランスの大聖堂にあるシャガールのステンドグラスや、南フランスの一礼拝堂のマチスの壁画、ランス郊外の礼拝堂にあるレオナルド藤田(嗣治(つぐじ))の壁画など、真の新しいキリスト教美術が芽生えつつある。

[名取四郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キリスト教美術」の意味・わかりやすい解説

キリスト教美術
キリストきょうびじゅつ
Christian art

キリスト教信仰にかかわる美術。キリスト教の布教されはじめた1世紀から数世紀の間の美術は初期キリスト教美術と呼ばれる。4世紀のコンスタンチヌス大帝によるキリスト教の公認とローマ帝国衰滅以後ルネサンスまでの中世美術は,キリスト教を中心に展開。それらは東方 (ビザンチン帝国) におけるビザンチン美術と,西欧のロマネスク美術ゴシック美術とに大別される。ルネサンス時代となっても美術の中心主題は依然としてキリスト教に関するもので,この傾向はマニエリスム美術,バロック美術まで続く。 18世紀後半にいたってヨーロッパ美術はようやくキリスト教的主題から解放されるが,19世紀のロマン主義美術の展開とともに再び取上げられ,ドイツのナザレ派や 19世紀後半のイギリスのラファエル前派などの美術では特に顕著。 20世紀では,フランスの G.ルオー,イギリスの彫刻家 J.エプスタインなど,現代画家ではイギリスの G.サザーランド,フランスの A.マネシエなどの作品が有名。また聖堂建築においては現代にいたるまでの数多くの傑作がある。ヨーロッパ以外のキリスト教美術として重要なのは,エジプトのコプト美術,ラテンアメリカのいわゆるコロニアル・アート,中国の景教や日本のキリシタン美術など。

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