初期キリスト教時代の地下墓所。異教徒あるいはユダヤ教徒のものもあるが,とくにキリスト教徒のものを指す。本来ローマ郊外の聖セバスティアヌスの地下墓所を指した〈アド・カタクンバスad catacumbas〉(〈くぼ地のそば〉の意)に由来する言葉である。古代ローマの埋葬形式は2世紀前半に火葬から土葬形式に移り,地上の墓地のほかに,小規模の地下墓室であるヒュポゲウムhypogeumや,地下に広範囲に通廊で連結した墓室をもつカタコンベ形式の墓所があった。キリスト教徒もこの伝統に従って,2世紀後半から7世紀ころまで地下墓室を使用し,発展させた。迫害時代には避難所や礼拝所にも使用されたが,原則として各カタコンベは殉教聖人の名をもち,歴代の教皇や聖職者,キリスト教徒の墓所である。ナポリやシラクサのほか小アジア,北アフリカの各地でもキリスト教徒のカタコンベが発見されているが,ほとんどはローマおよびその近郊にある。カタコンベは1578年に再発見されるまで,長い間忘れさられていた。近年も1955年にローマ郊外のラティナ街道沿いに一つ発見された。比較的単純なヒュポゲウム形式のものも含め,現在ローマ近辺には39のカタコンベが知られ,すべて古代ローマの城壁外の主要街道沿いに位置する。主なものにラビカナ街道の聖ペトルスとマルケリヌスのカタコンベ,アッピア街道の聖カリストゥスのカタコンベ(歴代の教皇の墓があった),ドミティラのカタコンベなどがある。いずれも未発掘の部分もあるが,数百m四方の敷地の地下に通廊で連結された無数の墓室が3層ないし4層をなして設けられている。墓室には壁龕(へきがん)墓をもうけ,石棺を収める。要所に通気孔や採光孔をもつ通廊の壁面にも,上下に柵床のように重ねた貧者のための無数の墓が埋めこまれている。墓室の壁面はフレスコ壁画で飾られ,石棺浮彫とともに初期キリスト教美術の貴重な遺例となっている。2世紀末~3世紀中ごろの壁画は白地を線で区画し,植物や動物のモティーフを配した単純なものが多い。それには異教美術のモティーフをキリスト教的意味に転用したものが多く,魚によってキリストを表すといった象徴的表現も見られる。3世紀中ごろ以降に聖書場面が現れるが,アダムとイブをはじめノア,ダニエル,ヨナ,モーセの物語など旧約聖書場面が圧倒的に多い。4世紀に入るとキリストの生涯伝の幾つかの場面,〈キリストと使徒たちの集い〉のような新約聖書の主題も現れるが,すでに教会の勝利の時代となって地上の教会堂にキリスト教美術が開花すると,カタコンベの壁画はその主流からはずれたものとなってゆく。またカタコンベの壁画には古代神話場面などの異教的主題およびモティーフも多く認められる。その中には,明らかにキリスト教徒以外の諸秘教を信じた者たちの墓室とみなされるものも存在する。
執筆者:名取 四郎
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古代キリスト教徒の地下墓所。ギリシア語カタキュムバス(「窪地(くぼち)の傍ら」の意)に由来。ローマにある窪地の古い地名であったが、そこに建てられた聖セバスチャン教会の地下墓所の名前となり、さらに、これと同様な古代のキリスト教徒の地下墓所をもさすようになった。初めは家族墓所だけであったが、3世紀以前に信者共同の墓所も設けられたようである。しかし地下に墓所をつくる慣習はユダヤ教その他の宗教においても行われていた。カタコンベはナポリ、シチリア、北アフリカ、小アジアなど古代ローマ世界の諸所に広がっている。なかでもローマではもっとも大規模なカタコンベが発見された。市内での埋葬は法律で禁じられていたので、カタコンベは郊外に(多くの場合、広い道路に沿って)つくられている。ローマで発見された最古のカタコンベは1世紀にさかのぼる。加工が容易で耐久性の強い火山灰の地質がカタコンベに適していたからであろう。幅約1メートル、高さ2~3メートルの通廊(つうろう)の壁に、長方形あるいは上部が半円形の壁龕(へきがん)をつくり、そこに遺体を安置し、れんがまたは大理石板でふさぎ、石灰で密閉する。そこには死者の名前、年齢、死亡の日などのほかに、ときには象徴的な絵や祝福のことばが刻まれている。通廊の所々に壁龕のついた四角な墓室が設けられ、儀式や会食にも使われた。壁沿いに石造りの腰掛が置かれ、墓室や通廊には採光、通風のために縦穴(たてあな)もあけられている。大きなカタコンベは通廊が縦横に網の目のように走り、5層からなるものもある。迫害されていたキリスト教徒がカタコンベを礼拝の場として用いたということは、事実ではないらしい。しかしカタコンベでは死者、とくに殉教者を記念する礼拝が行われた。4世紀には殉教者への崇敬が高まるにつれ、その墓に記念碑的墓銘(ぼめい)を取り付けたり、通廊を広げるなどして、カタコンベの改修がなされた。5世紀中葉からカタコンベへの埋葬は行われなくなり、8世紀には殉教者の遺骸(いがい)は都市の教会に移された。それ以後カタコンベはほとんど忘れられてしまったが、16世紀に至り発掘と研究が開始された。その壁画は、初期のころは古代神話の形姿や田園風景などを題材としているが(4世紀になると聖書の場面が数多く描かれる)、そこには、羊や魚をもってキリストを表すような、キリスト教的象徴がみられる。初期キリスト教美術を示すものとしても興味深い。
[川島貞雄]
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カタコームともいう。地下墓所。特に初代キリスト教徒の遺跡として著名。カタコンベはナポリ,シラクサ,マルタ,アレクサンドリアなどにもあるが,ローマのが最大で,約70カ所が発見されている。墓所を神聖とするローマ的観念により迫害時代にも黙許された。サン・カリスト,セバスティアーノのカタコンベが代表的。墓所には卓形の墓とアーチをもつ壁龕(へきがん)があり,天井,壁には壁画が描かれ,キリスト教美術の先駆をなした。
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…再解釈を施された古代異教,ユダヤ教図像の一部(ウェルギリウス風の牧歌的風景,海景,獅子の穴の中の預言者ダニエル,スザンナとよこしまな長老たちなど)は,初期キリスト教図像体系の重要な一環となってその後も長く存続した。ローマ市郊外に最多例を残すカタコンベの壁画は,幾何学的線を用いた壁面の分割と,その小区画内に配した単純な象徴像の様式において,2世紀後半のローマ壁画の伝統を踏襲しているが,図像においてしだいにキリスト教的意味合いを強めていく(ローマ市,カリストゥスのカタコンベ天井画,200ころ‐210ころ)。死者を葬った石棺側面の浮彫群にも異教,ユダヤ教からキリスト教固有なものにという同様な経過が見られる(ローマ市,サンタ・マリア・アンティクアの石棺,245ころ)。…
…ナダールのポートレート(肖像写真)は,単純な背景の中に全身の4分の3をストレートなライティングで写したものであるが,それは単なる人物の性格描写をこえ,これら芸術家自身の表現世界の広がりさえ感じさせるものであった。また58年には気球に乗り,世界最初の空中写真の撮影を試みたり,61年には3ヵ月をかけてパリの地下に発見されたカタコンベ(地下納骨堂)の撮影を,当時ようやく開発されたアーク灯による人工照明で撮影している。ナダールの波瀾に富んだ経歴はJ.ベルヌの《月世界旅行》の主人公のモデルとしても反映されているといわれる。…
…また,ローマのカエキリア・メテラの墓(前25ころ),アウグストゥスの廟(前28ころ),ハドリアヌスの廟(現サンタンジェロ城,135‐139)などのような巨大な円塔型墳墓が建てられたほか,ローマのポンポニウス・ヒュラスのコロンバリウム(1世紀)やパルミュラの塔状墳墓のように,墓室の周壁に多数の遺体を葬るロッカー・ルーム式の墓もつくった。初期キリスト教徒の墓地として知られるカタコンベは2世紀ごろからつくられた。地下道の両側に棚状に穴を掘って葬る一種のロッカー・ルーム式である。…
※「カタコンベ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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