日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゴシック美術」の意味・わかりやすい解説
ゴシック美術
ごしっくびじゅつ
ヨーロッパ美術史の様式の一つ。ゴシックgothicという用語は、15世紀のイタリアの人文主義者たちがローマ式書体に対し中世式書体の呼称として用いた「ゴテコ」に由来する英語式表記であるが、美術史上の用語として最初に採用したのは『美術家列伝』の著者としても有名な16世紀の画家兼建築家バザーリである。その意図は、古代ローマ美術を破滅に導いたゴート人の建築様式を過小評価しようとする一種の偏見によるものであった。18世紀後半になって、その様式上の特質が正当に評価されていくにつれ、12世紀後半から16世紀初頭まで(イタリアでは13世紀初頭から15世紀中期まで)の、ヨーロッパ中世美術のロマネスクに次ぐ様式名に適用されるようになった。
[濱谷勝也]
建築
ゴシック様式がその突破口を開くのは聖堂建築においてであるが、建築家たちにとって最大の難題となったのは、しだいに高さを増していく石造穹窿(きゅうりゅう)(ボールト)の架構法であった。それを解決し、構造上の安定を確保しながら上昇性を維持する主要素となったのは、リブ(肋骨(ろっこつ)状アーチ)穹窿と尖頭(せんとう)アーチである。リブ穹窿の最初の使用例はミラノのサンタンブロージョ聖堂とイングランド北部のダーラム大聖堂のロマネスク建築にみられるが、これが北フランスに伝えられて、12世紀前半に最初のゴシック式聖堂を生み出す契機となった。交差穹窿の梁線(りょうせん)に沿って対角線をなすリブは、穹窿の重量を分散させ、これを支柱へと導き、壁体に負わされる横圧を軽減させる機能をもっている。またリブの採用は、建築規模の拡大に役だっているばかりでなく、穹窿における複雑な力線を明確に視覚化し、合理的な秩序を備えた建築構成を実現させていった。
尖頭アーチを用いた建築デザインはイスラム建築にその源流がみられるが、イスラムの影響下で造営されたシチリア島や南イタリアの聖堂建築が媒介したのか、あるいは十字軍によってもたらされたのか、ヨーロッパに流入した経路は明らかでない。しかし、現在は廃址(はいし)となっているクリュニー修道院聖堂などのロマネスク建築に、すでに用いられていたことは確かである。リブ穹窿の発展と結合した尖頭アーチのモチーフは、穹窿の交差部はもちろん、入口、窓その他のすべてのアーチ構造に適用されている。そして尖頭アーチの角度は力学上の解決法に基づいて多様に変化するが、これによって聖堂のプランの変更も自由になった。一方、壁体の脆弱(ぜいじゃく)さを補うために外壁に沿って設けられた控壁(バットレス)や飛梁(とびばり)(フライング・バットレス)は、ステンドグラスや狭間(はざま)飾り(トレサリー)による採光面の拡大に役だつとともに、ゴシック独自の外観構成を実現した。
これらの諸要素を総合的に取り入れ、12世紀中期にサン・ドニ修道院の内陣と西正面の改築に着手し、最初のゴシック建築を生み出したのは、修道院長シュジェールである。これに続いてサンス、ラン、そしてパリと大規模な大聖堂が相次いで起工され、初期ゴシック様式が確立された。これら12世紀のゴシック聖堂には、まだロマネスク的性格が残されていたが、ゴシック的要素をほぼ完全に具備した代表的事例は、13世紀初期に着工されたシャルトル、ランスおよびアミアンの大聖堂である。
フランス北部に発生したゴシック様式は隣接諸国へ伝播(でんぱ)していくが、各地域によってそれぞれ独自の様相をみせながら進展する。イギリスでは、13世紀初期からリンカーン、ソールズベリー、ヨークなどの大聖堂が造営されたが、フランスの影響を受けながらも明快な比例と単純な比例を求め、アーリー・イングリッシュ(初期イギリス式)とよばれる独自の様式を確立した。ドイツでは、国境を接するフランスの各地からこの新様式が流入するが、とくにケルンとストラスブールの大聖堂にフランス様式が顕著である。一方ドイツの建築家たちは、フライブルクやウルムの大聖堂に例証されるように、双塔形式を排して、正面中央に1基の大塔を据え、またマールブルクのエリザベート聖堂では身廊と側廊の高さをほぼ同じくして、聖堂内に単一空間をつくる「ハルレンキルヘ」Hallenkircheの形式を開発している。
12世紀末期からイタリアの諸都市にも、シトー派修道会を通じてこの北方様式が流入する。しかしイタリアの建築家たちは、フランス・ゴシック様式が達成した垂直性を強調する構造体系を拒否し、伝統的なバジリカ式に近い様式に固執した。13世紀中期以降にシエナ、フィレンツェ、オルビエートなどの大聖堂がゴシック様式を取り入れながら造営されたが、リブ穹窿は構造的な意図よりも装飾的効果が重視されており、壁体の色大理石による横縞(よこじま)模様は、むしろ垂直性を抑止する役割を果たしている。ドイツ、フランスの建築家とイタリアの建築家との間で、構造か装飾かをめぐり長い論争を経て建立されたミラノ大聖堂には、アルプスを境にした南北ヨーロッパの様式観が折衷されており、その外観構成は多くの人の関心を強くひきつける。
[濱谷勝也]
彫刻
現存するゴシック彫刻の最初期の事例は、シャルトル大聖堂西正面(1194年の火災の残部)の円柱人像群(スタテュ・コロンヌ)に代表される。円柱状の形態や衣服のひだの装飾的な線刻は、まだロマネスク様式の名残(なごり)をとどめているが、顔面には人間的な感情がみなぎり、ゴシック様式の萌芽(ほうが)が明白に認められる。典型的なゴシック彫刻の興隆がみられるのは13世紀の北フランスであり、パリ、シャルトル(南北正面)、ランス、アミアンなどの大聖堂の正面は、多数の立像、浮彫りで覆われる。そして人間や動植物の表現は、ロマネスクの抽象的な傾向から脱却し、自然主義ないし人間主義へと進展する。この世紀にはまた神学が隆盛を極め、聖堂を装う彫像群は「石の聖書」といわれるように、明確な宗教的秩序によって統一された。正面の中央入口には中心柱を背にキリスト像が置かれ、左右の壁面に6人ずつの使徒像を伴う。両わきの入口には聖母子と諸聖者がそれぞれ配され、入口上部を覆う奥行のある帯状アーチには天使や預言者の群像が並び、その周囲の壁面には「美徳」と「悪徳」を表す寓意(ぐうい)像や「十二か月の行事」にちなむ人間像がはめ込まれる。神から一般の庶民に至るまでの人間像が多様に表現され、中世的人間主義を反映する新しい美術領域が開拓されたのである。
イタリアでは彫刻においても独自の様相を示している。その先駆者はニコラ・ピサーノと、その子ジョバンニである。ニコラは南イタリアの出身であるが、この地方は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって古代彫刻の復興が早くから促進され、同時にゴシック様式の流入もみられた。ニコラが1260年にピサで最初に制作した説教壇の浮彫りとその建築的細部には、彼が南イタリアで体得したと思われる両様式が明瞭(めいりょう)に識別される。ジョバンニは建築家としてシエナ大聖堂の正面(ファサード)下部その他の設計にあたっており、彫刻家としての代表作はピストイアのサン・タンドレア聖堂の説教壇であるが、これらの作品は、彼がゴシック様式に精通していたことを如実に物語っている。
ゴシック彫刻の掉尾(ちょうび)を飾る美術家はフランドル出身のクラウス・スリューテルである。彼の代表作はディジョン郊外シャンモール修道院に制作した『モーセの井戸』であるが、それまで建築の付属物として発展してきた彫刻を、徹底した写実をもって建築から独立させ、新時代にふさわしい人間表現を確立している。
[濱谷勝也]
絵画
ゴシック式聖堂の壁体の量塊性を除去しようという建築家たちの意図は、結果として巨大なステンドグラスの発展を促すことになった。現存するもっとも早期の事例は、サン・ドニ大聖堂の放射状祭室群の窓を装うものであるとされるが、赤、青、橙(だいだい)および緑を主色とするその手法は、パリ(現存せず)、シャルトル(西正面)の大聖堂に伝えられ、また西部フランスではアンジェ、ポアチエの大聖堂などに優れた作品が生み出された。13世紀になると図像体系も豊富になり、技術のうえでも紫を主とする配色が細分化され、シャルトル大聖堂に代表されるように、広い空間が天上的雰囲気で満たされるようになる。
純粋なゴシック建築の発展をみなかったイタリアでは、ステンドグラスのかわりに壁画が隆盛を極める。ゴシック風の線描と色彩によって独自の画風を確立したシエナ出身のシモーネ・マルティーニは、晩年をアビニョンで過ごすが、シエナの画風とパリのゴシック絵画との媒介者となり、いわゆる「国際的ゴシック様式」の形成に関与している。ゴシックの伝統から出発して、油彩画の研究を重ね、近世絵画への道を確立したのは、フランドル出身のファン・アイク兄弟である。有名な『ガンの祭壇画』に代表される諸作品の迫真的な描写は、確かに近世絵画の誕生を示すものであるが、同時に中世的な象徴主義に対する執着も払拭(ふっしょく)され尽くしてはいない。
[濱谷勝也]
『吉川逸治編『世界美術全集29 西洋中世Ⅱ』(1963・角川書店)』▽『H・ホーフシュテッター著、飯田喜四郎訳『ゴシック』(1970・美術出版社)』▽『アンリ・フォション著、神沢栄三郎他訳『ゴシック』(1972・鹿島研究所出版会)』▽『堀米庸三編『大系世界の美術12 ゴシック美術』(1974・学習研究社)』▽『F・ドイヒラー著、勝国興訳『西洋美術全史7 ゴシック美術』(1979・グラフィック社)』