初期キリスト教美術(読み)しょききりすときょうびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「初期キリスト教美術」の意味・わかりやすい解説

初期キリスト教美術
しょききりすときょうびじゅつ

キリスト教成立とその展開の時代の美術。発生の時期は不明瞭(ふめいりょう)であるが、2世紀後半の180年ころにはキリスト教美術とよべるものの存在が確かめられている。キリスト教徒迫害時代を経て、キリスト教公認の313年のミラノ勅令、キリスト教国教化の380年、異教崇拝禁止令の発布された391年、そして395年のローマ帝国東西分離を経て、476年の西ローマ帝国滅亡へと続く時代に、古代ローマ美術の一領域としての初期キリスト教美術が、中世キリスト教美術へと変貌(へんぼう)を遂げてゆく過程が認められる。395年以降は東・西ローマ帝国のキリスト教美術が、ローマおよびコンスタンティノポリス(現イスタンブール)を中心にしてそれぞれ異なった独自の性格を表してゆく。西側では民族移動期を経て西欧中世初期のメロビング朝美術が形成され、東ローマ帝国のキリスト教美術は中世ビザンティン美術へと継承されてゆく。古代美術としての初期キリスト教美術と中世キリスト教美術との間に明確な境界線を引くことは、その変貌が緩やかに行われたため困難である。しかし6世紀中葉のユスティニアヌス1世時代の美術が最初のビザンティン美術の黄金時代といえるならば、5世紀末ないし6世紀初頭までのキリスト教美術を初期キリスト教美術とみなすことができよう。

 ここでは、初期キリスト教美術を、次の四つの時代区分によって考察することにする。

第1期 180年ころから260年のガリエヌス帝によるキリスト教寛容令発布まで。

第2期 260年から313年のミラノ勅令発布まで。

第3期 迫害時代の終了から、キリスト教国教化を経て、391年の異教崇拝禁止令まで。

第4期 以後の、5世紀末ないし6世紀初頭まで。

 継続的に繰り返されたキリスト教徒迫害の時代にも、313年に至るまでに比較的平穏な時代もあり、キリスト教美術はしだいにその姿を現してくる。第1期および第2期の教会建築については、まず個人の住宅の一室を集会所として使用することから始まって、信徒の増加とともに、私宅教会(ティトゥルス)とよばれるものになっていったと考えられる。その際、多数の信徒を収容するのにふさわしい古代ローマのバシリカとよばれる公共建築、あるいは宮殿の謁見の間のプランが利用されたとみなされている。近年における目覚ましい発掘調査はしだいにこの時期の教会堂の遺構を明らかにしつつある。しかしこうした教会堂の装飾壁画は、シリアのドゥラ・エウロポスの洗礼堂壁画(3世紀中ごろ)などの例外を除いて、ほとんど現存しない。

 第1期の絵画や彫刻は、ローマのカタコンベ(地下墓室)の壁画や石棺浮彫りにわずかな遺例が認められるものの、当時のローマ異教美術との区別の困難なものが多い。寓意(ぐうい)的なキリスト像表現である「羊飼い」ないしは「善(よ)き羊飼い」「オルフェウス」をはじめ、牧歌的田園風景、プット(幼児)、イルカ、花綱などは古代異教美術のレパートリーのなかからキリスト教美術に転用されたものにすぎず、しかも葬礼美術という枠内にあったものにすぎない。

 260年以降、ようやく本来のキリスト教美術が、キリストの洗礼や聖餐(せいさん)式の予表的表現として選ばれた旧約聖書物語の諸場面の登場とともに現れてくる。この時期にローマ帝国内の主要都市に教区組織が編成され、司教座聖堂を中心とした教会堂が建造されたと思われるが、発掘調査の進んだ今日でも、教会堂内の壁画の現存作例がなく、把握が困難である。

 313年のミラノ勅令によるキリスト教公認とともにキリスト教美術の飛躍の時代が始まる。325年のニカイア宗教会議をはじめとする宗教会議の決定が美術にも反映され、キリストの生涯の物語、とくに受難物語を中心に、その予表としての旧約聖書物語が、さらにはキリスト像を中心として使徒たちを配した教義的図像などが体系化されていった。この第3期はなによりもまず教会堂建造の時代であった。コンスタンティヌス帝の命令を受けて聖地パレスチナに建造されたキリストの諸事蹟(じせき)を記念する教会堂(聖墳墓教会、隆誕教会など)、ローマ、アレクサンドリアアンティオキアなどの主要都市に次々と建造されていった殉教者記念教会(マルチリウム)などである。しかしこの時代も、絵画、彫刻については、カタコンベ壁画や石棺浮彫りなどの遺例を通してしか知ることができない。320年代から360年代にかけて建造されたローマのサン・ピエトロ・イン・バティカノ教会もこの時期の壁画は今日知られていない。第3期に属する唯一のモザイク壁画は現在サンタ・コスタンツァ教会とよばれているローマの一円形会堂のものであるが、これももともとは廟堂(びょうどう)であったものである。

 第4期の教会堂壁画は、5世紀初頭のローマのサンタ・プデンツィアーナ教会、440年ごろのサンタ・マリア・マッジョーレ教会をはじめ、ミラノ、ラベンナ、ナポリのイタリア各地、さらにはギリシアのテッサロニキの諸教会などに残っている。ローマ帝国が東西に分離し、とくに西ローマ帝国は民族移動期にしだいに衰退していったが、しかし教皇を中心とするローマ教会の努力はたゆみなく続けられ、この5世紀にこそ初期キリスト教美術の完成期がある。他方、東ローマ帝国はテオドシウス朝時代の5世紀前半に、後のビザンティン美術の原型ともいうべきキリスト教美術を準備していった。

[名取四郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「初期キリスト教美術」の意味・わかりやすい解説

初期キリスト教美術 (しょきキリストきょうびじゅつ)
Early Christian Art

200年ころから6世紀末にかけて地中海沿岸とその周辺の内陸部に展開した美術。キリスト教的主題と目的に従った作品を中心とするが,美術史的見地からは,関連ある同時代の異教的・世俗的作品も含める。時代の前半は西洋古代美術の最終段階である古代末期と,後半は初期ビザンティン美術と重なっている。美術史的特徴に従って三つの編年的段階に分けることができる。本項では絵画(モザイク,壁画)と彫刻(浮彫)を中心に記述し,建築に関しては〈バシリカ〉〈教会堂建築〉等の項目を参照されたい。

(1)キリスト教美術の起源から313年のキリスト教信仰の公認(いわゆる〈ミラノ勅令〉)まで。公認以前のキリスト教美術は一般に規模も小さく,現存する遺物は葬祭に関連した作品を中心とし,個人的,秘儀的色彩が強い。3世紀以前にキリスト教固有の美術があったかどうかは確かではないが,200年ころには,ローマあるいはユダヤ教美術の図像の一部が転用され,キリスト教的解釈が与えられていたことは確実である(アレクサンドリアのクレメンス《教育者》Ⅲ,11)。再解釈を施された古代異教,ユダヤ教図像の一部(ウェルギリウス風の牧歌的風景,海景,獅子の穴の中の預言者ダニエルスザンナとよこしまな長老たちなど)は,初期キリスト教図像体系の重要な一環となってその後も長く存続した。ローマ市郊外に最多例を残すカタコンベの壁画は,幾何学的線を用いた壁面の分割と,その小区画内に配した単純な象徴像の様式において,2世紀後半のローマ壁画の伝統を踏襲しているが,図像においてしだいにキリスト教的意味合いを強めていく(ローマ市,カリストゥスのカタコンベ天井画,200ころ-210ころ)。死者を葬った石棺側面の浮彫群にも異教,ユダヤ教からキリスト教固有なものにという同様な経過が見られる(ローマ市,サンタ・マリア・アンティクアの石棺,245ころ)。ローマ市を中心とする多数の葬祭芸術の遺例が著しく象徴的であるのに対し,シリア奥地のドゥラ・ユーロポス遺跡から出土した個人の私宅を改造した集会所(240ころ)の洗礼室壁画は,洗礼の秘跡に関連した象徴性とともに,福音書の物語を率直に語る説話性を併せ備えている。このような説話的傾向は4世紀初頭に至って,絵画にも彫刻にもいっそう顕著となった。

(2)313年以降ユスティニアヌス1世の即位(527)まで。コンスタンティヌス大帝とその一族の強力な援助により,キリスト教美術は建築とともに一挙に大芸術へと成長する。同時に在来のローマ帝国芸術の伝統が流入し,キリスト教美術は急速にローマ帝国の公的芸術となった。ローマ市の旧サン・ピエトロ大聖堂(329建立)をはじめとする大聖堂群,あるいは記念堂(ローマ市,サンタ・コスタンツァ,350ころ)は,いずれも5世紀にかけて,壮麗なモザイクによって内部が飾られた。図像も,すでにあった旧・新約聖書の諸場面を対照させた予型論的なものから,〈律法の授与〉のような帝国主義的色彩の強いもの,あるいは長大な説話的シリーズもモザイクで表された(ローマ市,サンタ・マリア・マッジョーレ教会モザイク,430年代)。様式に関しては,325年ころまでは先行する四帝統治(テトラルキア)時代の帝国芸術の伝統が残存していたが,コンスタンティヌス大帝の晩年以降テオドシウス帝(在位379-395)の治世にかけて古代芸術復興の波が幾度となく押し寄せ,キリスト教美術には急速に宮廷的洗練が加わった(ユニウス・バッススの石棺浮彫,360ころ)。また背教者ユリアヌス(在位361-363)の即位などが契機となって,多数の洗練された擬古的作品が作られた(シュンマコス家とニコマコス家の結婚記念象牙二連板,4世紀末)。テオドシウス朝のときから,文化の中心はしだいにローマからコンスタンティノポリスに移り,それとともに本来のキリスト教美術には,新たに神秘主義,観念主義的傾向が強まって,ビザンティン美術の基礎が準備された。すなわち古代的伝統に発する陰影法による三次元の描写は失われ,モティーフは現実的な奥行きを持たぬ黄金地を背景に,神学的,政治的位階に従い上下に配される。当然人間像も肉体性を捨象され,正面性の強い超現実的相貌を帯びる(テッサロニキ,ハギオス・ゲオルギオス教会モザイク,400ころ)。他方ローマを中心とする西地中海世界の美術は,476年西ローマ帝国が滅亡するころには量質ともに低下し,一地方的様式に近づいた(ボエティウスの象牙二連板,487)。ただし,ラベンナのように,東ゴートによる短期間の支配の時期を除いてビザンティンと長く強い連帯を維持した所では,5~6世紀にかけて,ビザンティン的傾向の強い数々の優作を生んだ(王妃ガラ・プラキディアの廟堂モザイク,450ころ)。またこの時期には,《ウェルギリウス・ウァティカヌス》(400ころ),《ミラノのイリアス》(500ころ)のようなみごとな挿絵入りの古代風写本が生まれている。

(3)6世紀以降,東方では,ユスティニアヌス1世の下でビザンティン美術が確固たる形式を獲得した。一方西方では,メロビング朝につづく8世紀末のカロリング・ルネサンスにより,ようやく汎ヨーロッパ的表現様式に到達する。
キリスト教美術
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「初期キリスト教美術」の意味・わかりやすい解説

初期キリスト教美術
しょきキリストきょうびじゅつ
Early Christian art

キリスト教独自の美術が発生した2世紀末~3世紀初め以後のキリスト教の美術の総称。その下限は史家によって異なるが,ほぼ,ユスチニアヌス1世の登位 (527) から聖像論争の開始 (726) の間におかれる。コンスタンチヌス大帝によるキリスト教公認 (313) 以前の美術は壁面石膏浮彫,大理石小像,小工芸などの遺品もあるが,石棺彫刻とカタコンベ壁面や天井に描かれたフレスコ画がその中心である。これらキリスト教葬祭芸術は,死後の魂の安息と復活を祈願する象徴的性格のものが多く,初期にはキリスト教以外の宗教やユダヤ教美術の象徴的イメージ (幸福な牧者の生活,ブドウの収穫,シュロ,クジャク,ハト,預言者ヨナ,ダニエル,モーセ,エリヤなど) を借りたが,キリスト教独自の象徴的イメージも次第に現れた (魚,錨,船など) 。しかし,これら復活信仰に基づく象徴的イメージのみが初期の美術を形成したのではなく,特に 300年頃からは,次第に詳しさを加えるキリスト伝や『使徒行伝』の詳しい物語的表現が増加している。キリスト教の公認以後は,地上に聖堂が建立されはじめ,同時に,理念のうえでも様式のうえでも,ローマ帝国美術の伝統との習合が急速に進んだ。特に聖堂祭室のモザイクは,その光と色彩の強さをもって,地上における皇帝の支配権,天上におけるキリストの絶対的権能とを表現する。コンスタンチヌスの晩年から背教者ユリアヌス,次いでテオドシウス大帝の時代にかけては,ギリシア的古典古代伝統への復帰が著しく,ここで,古代的伝統とキリスト教精神の統一的表現が形成された。これに対し,5世紀の後半からは新たな反古典的傾向が現れる。イタリアを中心とする西方では,蛮族の台頭により古代的伝統は急速に凋落した。ユスチニアヌスは東ローマ帝国に現れた観念的傾向を十分に取入れつつ,ビザンチン伝統を完成する。ローマのサンタ・コスタンツァ廟堂 (360頃) ,サンタ・プデンツィアーナ聖堂 (4世紀末) ,サンタ・マリア・マジョーレ聖堂のモザイク (5世紀前半) ,ラベンナのガラ・プラチディア廟堂のモザイク (5世紀中頃) ,セサロニキでは聖ゲオルギオス聖堂のモザイク (5世紀初) ,コンスタンチノポリスではテオドシウス大帝のオベリスク台座浮彫,アルカディウス帝像頭部などが代表的な遺例である。そのほかには象牙浮彫,装飾写本,金属工芸にもすぐれた作品が多く制作された。

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百科事典マイペディア 「初期キリスト教美術」の意味・わかりやすい解説

初期キリスト教美術【しょきキリストきょうびじゅつ】

キリスト教誕生後,ビザンティン美術,ロマネスク美術に至るまでの間,キリスト教の普及したローマ,ガリア,エジプト,シリア,小アジアなどで盛行した美術。キリスト教を公認したミラノ勅令(313年)以前はカタコンベを中心に展開し,壁画や棺を飾る浮彫に素朴な象徴的表現が多用された。勅令後は地上に教会堂が続々と建てられ,バシリカ式プラン,集中式プラン,両者の結合プランなどが成立(教会堂建築参照)。勅令前後を通じて,古代ローマに見られた丸彫彫刻は姿を消して浮彫が盛んとなり,モザイク絵画も隆盛をみた。

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世界大百科事典(旧版)内の初期キリスト教美術の言及

【イエス・キリスト】より


[キリストとイエス]
 一般にキリストはイエスの別名のように考えられている。実際,新約聖書の中でもパウロの手紙などではキリストとイエスとが区別されていない場合もあるし,古代ローマの歴史家たち(タキトゥスやスエトニウスなど)は,多くの場合キリストを固有名詞と思っていた。しかし,〈キリスト〉は元来普通名詞で,〈油を注がれた者〉を意味していた。具体的に言えば,それは,旧約聖書の時代,イスラエルの預言者たちによって頭に〈油を注がれて王位についた人物〉,すなわち〈王〉を意味するものであった。…

【イタリア美術】より

…したがって,西欧中世美術は,一方で,まずいち早く宗教的図像を決定しこれを厳格に伝承した東方キリスト教・ビザンティンの芸術に強く感化されたが,土台としてのヘレニズム,ゲルマン的ヘレニズムともいうべきカロリング朝文化,またゲルマン,ノルマン,ケルト人などいわゆる蛮族のもつ固有の民族的文化などの複雑な混合体であった。
[初期キリスト教時代]
 自然的形象と象徴的表現の混合は,初期キリスト教美術(4~5世紀ころ)においては,まず,既存のヘレニズム的形体をキリスト教の象徴とみる(例えば,クピドを天使,オルフェウスをキリストとみるなど)象徴主義から,しだいに形象の自然的要素(空間表現,量感,動作など)を脱し去り,これを抽象化(二次的空間と平面的形体,リアリティと自然らしさの消滅,物語性の重視など)する方向へと向かった。たとえば初期バシリカの一つローマのサンタ・マリア・マジョーレ教会の身廊とアルコ・トリオンファーレ(4~5世紀)のモザイクなどがその例である。…

※「初期キリスト教美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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