改訂新版 世界大百科事典 「教会堂建築」の意味・わかりやすい解説
教会堂建築 (きょうかいどうけんちく)
キリスト教建築は,教会堂(聖堂),洗礼堂,記念堂(マルティリウム),墓廟,修道院,学校などからなるが,教会堂建築はその中核をなすものである。本項ではローマ・カトリック教会とギリシア正教会の教会堂を中心に,その変遷を概観する。
→キリスト教美術
キリスト教公認以前
当初は街頭が布教の場であったが,信徒の増加にともない有力者の住宅が信徒の集会所として臨時に使用された。聖職者と信徒の別が確立し,儀式の内容が整うにつれて3世紀には専用建物が必要となり,4世紀初のローマではそれが25以上もあったという。神殿のように壮麗なものも造られたと伝えられるが,一般にこれらの建物は目だたぬものであったらしく,シリアには既存の住宅を改造して礼拝室,洗礼室などを設けた建物(3世紀)や,農家を原型として新築したもの(4世紀初)が現存する。
バシリカ式教会堂
313年のキリスト教公認後,ローマ帝国各地に大小の教会堂が多数建設された。当時は宗教性の有無にかかわらず,多数の人が集まる,長方形プランの大広間をバシリカと呼んだが,教会堂も信徒が集まる一種のバシリカであった。そこで教会堂には既存の各種のバシリカの形態を借用したため,当初は形式が一定しなかった。またその機能も複雑で,記念堂,有蓋墓地,洗礼堂などを兼ねるものもあった。しかし4世紀末ごろには記念堂,洗礼堂,墓廟などは,一般に,円形や正多角形(八角形など)の集中式プランの独立建物として造られるようになり,大多数の教会堂は細部に地域的差異を残すが,ほぼ同じバシリカ式の建物となった。キリスト教会が皇帝礼拝の儀式を借用したのと同様に,この形式は皇帝や地方総督の宮殿の謁見用バシリカに負うところが大きいと考えられる。太陽をキリストの象徴としたところから,5世紀以降の教会堂はアプス(後陣)を身廊の東端に配置し,教会堂の方位を統一した。また施物や祭具を収納し,聖餐を準備する室をアプスに近い位置に造り,トリビューン(階上廊)やトランセプト(交差廊)を設けたが,これらの改良は主としてビザンティン帝国で行われた。
集中式プランの教会堂
集中式プランは古来,とくに墓廟に用いられたが,キリスト教会もこれを踏襲して墓廟,記念堂を造り,洗礼堂にもさかんに利用し,少数だが集中式の教会堂も造った。しかし,集中式プランの教会堂を完成したのはビザンティン帝国で(ビザンティン美術),ラベンナなどに優れた遺例がある。メソポタミアのように建築用木材のない地方では,石,煉瓦でボールト天井を造る技術が古くから発達し,またドームは特別な象徴的意味をもつと考えられていた。集中式プランの墓廟,記念堂,洗礼堂にはすでにドームが用いられていたが,6世紀のビザンティン帝国ではバシリカ式教会堂にドームを積極的に組み合わせた。それには身廊とトランセプトに連続的にドームをかける形式(例,ベネチアのサン・マルコ大聖堂)と,教会堂の中央に一つのドームをかけ,その周囲に半ドームを含めてそのほかのボールトをかける形式(例,イスタンブールのハギア・ソフィア)とがある。前者はバシリカ式の空間をそのまま踏襲するが,後者はドームの特性に基づいてこの空間を再編成する革新的な試みである。ドームは構造的にも形態的にも一つの独立した空間を形成する。全能の神が支配する宇宙を象徴する一つのドームを中心として,堂内を単一の空間にまとめあげる集中式プランの教会堂は,9世紀に出現し,ギリシア正教会の教会堂の基本形式となった。ビザンティンの教会堂建築は,9~10世紀にバルカン地方からスラブ諸国に伝えられ,土着的要素を加えながら発展した。とくに,ロシアの大規模な教会堂は,しばしば堂内を3廊以上に分け,側廊上にトリビューンを設けて昇高性の強い空間を造り,堂上に多数のドームをあげ,西正面に1基の鐘塔を建てる点などを特色とするが,一つのドームを中心として堂内の空間をまとめる点は変わらない。日本では札幌,東京,静岡,豊橋,京都などのロシア正教会の教会堂に,その簡素な例がみられる。
中世の西欧
9世紀前後の一時的な安定期に,古代ローマとビザンティンを範として創意にとむ建築活動を開始した西欧は,10世紀後半に本格的な発展期に入り,基本的には古代末期の形式を踏襲しながら,独自のすぐれたキリスト教建築を完成した。9世紀から15世紀にいたる西欧ではキリスト教建築の建造が社会の最も重要な課題で,これに最大の努力を集中したが,その中心は教会堂である。基本はバシリカ式で,大規模な教会堂では9世紀ごろからトランセプトを造り,アプスを延長して内陣を拡大し,しばしば身廊の西端にもアプスを設けた(二重内陣式)。西欧ではすでに5世紀から教会堂に塔を造ったらしいが,9世紀にはトランセプトの中央や端部,内陣の両わきなどに大小の塔を建てた。また教会堂西端に多層で高大な塔のような西構(にしがま)え(ウェストウェルクWestwerk)を設けたが,これは各種の形式の西正面を生み出すに至るきわめて重要な発明である。また,典礼上の必要と聖遺物崇拝の流行にともない,多数の小祭壇を合理的に配置するための多くの試みをへて10世紀ごろに案出された放射状祭室も,教会堂東端部の内外空間に豊かな変化を与える重要な発明である。ロマネスク教会堂は壁構造という点で古代末期の教会堂と同じだが,壁を大理石やモザイクで外装しないので,壁がもつべき本来の役割を力強く表現する(ロマネスク美術〈建築〉)。この教会堂に石造天井をかける試みを通じて,また堂内の壁体を組織的に分節する努力を通じて,12世紀半ばごろ,最終的には石造でありながら骨組構造によるゴシック建築を完成する(ゴシック美術〈建築〉)。この骨組みの表面を柱型・付柱,繰型(モールディング)などで覆うことによりその線的表現をさらに強化し,〈神の国〉を目ざす限りない垂直性の追求とステンド・グラスの壁を透過する微妙な光の効果とあいまって,堂内に幻想的で超越的な宗教的空間を実現した。クリプトcrypt(地下祭室)の発達にともなって記念堂,墓廟はここに移され,ロマネスクの教会堂の地下にとりこまれたが,ゴシックの教会堂では小祭室または付属礼拝堂として地上の教会堂と一体化した。イタリアでは中世末期まで独立した洗礼堂を造ったが,そのほかの西欧では洗礼形式の変化にともない,10世紀以降は洗礼堂も教会堂の一部にとりこんだ。修道院についてはすでに9世紀初に理想的プランが作成されているが,修道会の大発展にともない,教会堂を中心とし,列柱廊をめぐらした中庭を結節点とする合理的な平面形式が確立され,救貧所や学校などにも応用された。
近世以降の西欧
ルネサンス以降,キリスト教建築は,社会をリードする中世のような役割は失うが,依然として重要な建築課題であった。円を最高のものとして正多角形を神聖視した古代の理念に従って,完全であるべき神の家には円,正方形に基づく集中式プランがふさわしく,これを音階の比例関係によって設計することにより調和のとれた教会堂が造れると考えられた(ルネサンス美術〈建築〉)。こうして西欧でも,〈神の国〉を象徴するドームをいただく,ローマのサン・ピエトロ大聖堂やパリのアンバリッドの教会堂(ドーム)などが出現した。しかし,教会の改革に努めていたミラノの大司教ボロメオは異教的理念の集中式プランを否定し,従来の,身廊とトランセプトとから構成されるラテン十字プランへの復帰を勧告したので,反宗教改革の推進者であったイエズス会はこれを本山のイル・ジェスー教会(1584)に採用した。同教会は,説教を聴きやすいように内陣を信徒に全面的に開放し,堂内をゴシックのように細分せず,垂直性も強調しない,ゆったりとした単一空間としたが,これがその後の教会堂の基本となった。他方,聖書の朗読と説教と聖餐を中心とし,盛大な儀式を排除したプロテスタント教会では,信徒が積極的に集会に参加し,相互の連帯を強化するのに適した集中式プランを教会堂に採用した。神は信徒の心のうちにあり,教会堂は神の家ではないので,その建築も調度も簡素なものとした。中央に洗礼と聖餐用卓子を,信徒が見やすく,聴きやすい位置に説教壇を設けた。信徒と牧師との距離を縮めるため大規模な教会堂では2階,3階にもトリビューンをめぐらしている。
17世紀には,宗教改革を乗り切って再び権威を回復したローマ・カトリック教会は,絵画と彫刻を動員し,信徒の宗教心を鼓吹するような動感あふれる教会堂を造りあげた(バロック美術〈建築〉)。バロック教会堂の強烈な色調,激しい明暗,壁面や空間の劇的な運動感に対して,18世紀には柔らかい色調,穏やかな明暗,なめらかな動感をもつ洗練されたロココの教会堂が造られた(ロココ美術〈建築〉)。19世紀以降は,バロック,ロココに対する反動と啓蒙思想,新しい古代遺跡の発見などを背景にギリシア神殿のような教会堂(新古典主義)が,ついで中世を理想視するところからゴシックやロマネスク様式の教会堂が造られ,さらにビザンティン建築に倣うもののほか,各種の様式を組み合わせた教会堂も建てられた。この傾向は日本でも長崎,京都はじめ各地の教会堂にその例がみられる。新しい材料と工学技術により高層建築が一般化したため,現代の教会堂は高くそびえてその意義を強調したような,規模による象徴性をもちえなくなった。しかし社会の精神的拠点として,現代にふさわしい教会堂をはじめとして,新しいキリスト教建築を求める努力が続けられている。
執筆者:飯田 喜四郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報