改訂新版 世界大百科事典 「ビザンティン美術」の意味・わかりやすい解説
ビザンティン美術 (ビザンティンびじゅつ)
東ローマ帝国の美術で,厳密にいえば,年代的には330年のコンスタンティノープル開都から15世紀半ば(1453)にイスラム教徒に攻略されるまでが,その時期であり,地域的には,帝国領域内(時代によって境界線は著しく変動)に限定される。しかしこの厳密な意味でのビザンティン美術の時間的・空間的周辺には,同じキリスト教美術に属するものとしてもコプト美術,シリア美術,アルメニア美術,ゲオルギア美術,イタリア美術(13世紀まで),ロシア美術などがあり,とくにバルカン地域ではビザンティン美術の跡がつよく残っている。さらにエチオピアのキリスト教美術をも含めてこれらを東方キリスト教美術ということができる。
その中心的位置にあったビザンティン美術は4世紀以後キリスト教美術として急速に発達したが,その源泉はこれを古代および東方に求めることができる。ヘレニズム世界ないしローマ世界から受けついだ古代の古典主義は,ビザンティン美術の長期にわたる展開を通じていくたびか造形的刺激剤の役割を果たした。他方,東方的源流は,ビザンティン美術に宗教的・神秘的性格を与え,また建築から工芸にいたる各分野で技術的に多くのものを与えた。初期には,とくに東地中海沿岸地方に古代的性格がつよく残っていたが,やがてシリア,パレスティナなどの奥地に残るアジア的伝統が徐々に台頭し,またササン朝の刺激もあって,6世紀のユスティニアヌス1世(大帝)時代にはビザンティン美術は決定的な成熟をとげ,古代美術と完全に交替する。
その特質はいろいろ考えられるが,まずその宗教的・神秘的性格である。美は,たんなる外形の比例や調和のうちに求められるのではなく,内的な精神価値の輝きとして意識される。そしてそのような内的な感情(宗教感情)の表現のためには形態よりも,むしろ色彩の効果が利用された。こうして建築(とくにその内部の装飾)から小工芸品にいたるまで,きらびやかな色彩芸術の世界が展開する。こういった豪華な趣味は,教会芸術が同時にまた宮廷芸術として発達したことにもよる。こうしてキリスト教美術は,様式的,技術的,図像学的に急速に成熟発展を見,西ヨーロッパ方面に中世を通じて強い影響を与えた。
もちろんビザンティン社会においても美術の発展には波があった。初期キリスト教時代からすでに存在した聖像否定論はアリウス派などの神学論などともからんで6世紀ごろから再び力を得,それが8~9世紀にはいわゆる〈イコノクラスム〉となり,そのためにビザンティン美術は一時衰えた。その後マケドニア朝およびコムネノス朝(11~12世紀)に再興する。12世紀後半~13世紀には西ヨーロッパの十字軍およびセルジューク・トルコ人の侵入によって不安の時代を迎えたが,パレオロゴス朝にいたって最後の花を咲かせる。地域的にみても,ほぼコンスタンティノープルを中心とするが,建築や絵画にはある程度の特色をもつ地方的発展現象が認められる。
建築
4世紀以後,東方キリスト教社会の成熟とともに,シリア,パレスティナ,小アジア,バルカンなどの各地で多元的な源流をもつ建築が急速に発展し,やがてコンスタンティノープルを中心にビザンティン建築が成熟し,宮廷の力を背景に6世紀にその最盛期を迎える。宮殿その他の世俗建築ももちろん発達したわけで,コンスタンティノープルの城壁,地下貯水場,床モザイクなどによって当時の建築の規模とすぐれた技術を推察することができる。しかし建築の中心は宗教建築にあった。これはその平面構造からみると集中式とバシリカ式の二つの原形から出発している。前者はいわゆるマルテュリアmartyria(殉教者または宗教的事跡などを記念する聖堂)および洗礼堂である。マルテュリアは殉教者の墓棺などを中心にした円形・八角形などのプランをもつ建築で,さらにその原形を求めれば,古代末期の廟(びよう)がこれであろう。洗礼堂は洗礼盤を中心とする主として八角形の建築で,当時は全身洗礼が行われたので,かなり大型であった。その原形は古代ローマの浴場などに見いだされる。いずれにしても,これらの集中式建築が発達して教会となり,アンティオキアの八角聖堂,エルサレム東方のオリーブ山の聖堂,聖墓聖堂,ローマのサンタ・コスタンツァ聖堂などがその初期の例である。他方バシリカ式は,信者が集まって宗教儀式に与(あずか)るのがその直接の目的であり,ローマないしヘレニズム社会の市民建築,裁判所その他さまざまな建築のタイプを源泉としている。その典型的な形式は,一般人も入りうる方形のアトリウム(前庭部),洗礼志願者のためのナルテックス(入口の間),信徒のための身廊,司祭のための半円形の祭室(アプス)が一直線上に配置される長方形のプランを構成する。内部空間を広くするために身廊の左右に2列の列柱を設けてその両側に側廊が設けられ,ときには側廊が二重になる。側廊上部にはしばしばトリビューン(階上廊)があり,全体は木組みの天井でおおわれ,祭室だけには半円蓋が架せられた。この形式はひじょうに普及し,ローマの旧サン・ピエトロ聖堂をはじめその例は多い。以上の集中式およびバシリカ式の両者は,単にビザンティン社会だけでなく西ヨーロッパにも見られるが,4世紀以後はビザンティン特有の建築が発達していった。まずバシリカ式聖堂の身廊部を半円ボールトでおおう技法が小アジア(とくにアナトリア)で発達し,さらに円蓋(ドーム)をいただくバシリカ式建築も現れる。やがてバシリカ式がしだいにすてられて,発達した集中式構造であるギリシア十字形式プランが主流をしめるようになる。
ここで建築技術にふれておこう。まず素材としては,ビザンティン建築は,良質の石材を産する地方は別として,原則的に煉瓦造建築である。この技法は,石材に乏しく良質の粘土の豊かなメソポタミアないしペルシア方面から伝わったものである。3世紀のササン朝の宮殿には煉瓦造のみごとなボールトが見られる。またビザンティンの円蓋は,ローマのそれが円形または八角形のプランの上に築きあげられるのに対して,方形の上をおおうのを原則とするが,これも東方にすでにその先例がある。この方形プランと円蓋の結合部分をいかにするかということが,ビザンティン建築家の課題の一つであったが,それには二つの解決方法があった。第1は方形プランの4隅に斜めに小アーチ(いわゆるトロンプ)を築き,それによって方形プランを八角形に変じてドームをのせやすくする方法である。第2は方形の4隅に逆三角形状のペンデンティブを築いて方形プランと円蓋とを連結するものであった。前者はペルシア伝来,後者はギリシア系ビザンティン建築家の独創とされる。これらの技術による円蓋建築にビザンティン社会はひじょうな執着をもったが,その理由は,一方では円蓋建築が東方古来の建築技法であったこと(最初は木造であったらしい),他方この円蓋がキリスト教以前から神々の住む宇宙の象徴として解釈され,その伝統がキリスト教社会にもはいったからである。こうして,西ヨーロッパ方面では円蓋建築が軽視されたのに対し,東方ビザンティン社会ではバシリカ式建築にまで円蓋を架すことが行われたのである。その最も代表的なものとしてコンスタンティノープルのハギア・ソフィアがある。
これはユスティニアヌス1世がアジア出身の2人のギリシア建築家,すなわちトラレスTralles(リュディア)のアンテミオスAntemiosおよびミレトスのイシドロスIsidōrosに命じて,費用を惜しまずに建てさせたもので,その完成は537年であった。アトリウム,ナルテックスを前面に控え,狭義の聖堂の部分だけでも長さ77m,幅71.7mという巨大なもので,内部は3廊に分かれ,中央部には直径33m,高さ54mという大円蓋が架せられた。この大円蓋の重量をどうして支えるかということで建物全体の構造が決定された。すなわち東西に半円蓋が架せられて中央の大円蓋を前後から支え,そのおのおのがさらに半円形の二つの龕(がん)によって側方から補強されている。このような構造によって縦長のバシリカとしての印象が強調される。南北両側面は,側廊上部にトリビューン,その上に巨大な側面アーチが架せられ,さらにそれを外部から2本ずつの大支壁が固める。側廊およびトリビューンのボールトも中央円蓋の重量を受けとめるのに一役買っている。現在の状態は6世紀の完成後修復補強を経たものであるが,この建築の以上のような恐るべき重量の均衡関係は複雑精密な科学的計算のもとに割り出されたものであり,ビザンティン建築家の驚くべき技術を示すものである。
このような円蓋を頂いたバシリカ式の構造は6世紀以後少なからぬ建築において踏襲されたが,本来集中式プランを要求する円蓋と長方形プランのバシリカ式とは構造上の矛盾があり,結局それがギリシア十字形プランの出現によって解決されることになる。これは円蓋を中心に四方へ半円形ボールトをのばすことによって円蓋の重量を支えようとするもので,4隅にはしばしば小円蓋を配し,全体が方形プランを構成する。テッサロニキの聖ソフィア聖堂(8世紀)はこのプランの試みで,それが10世紀以後,とくに12世紀にコンスタンティノープル,テッサロニキなどに数多く現れ,ビザンティン建築の伝統となった。なお12世紀以後は円蓋の基盤がのびて鼓胴形の壁をなし,そこに小窓がならべられた。この様式とは別に,中央円蓋の四方に円蓋を配した十字形プランも6世紀以後現れ,現存の実例ではベネチアのサン・マルコ大聖堂がある。
以上,ビザンティン建築は各時代各地方ごとにはなはだ変化に富んでいるが,一般にその外観は鈍重で飾りがなく,量塊的な印象を与える。しかしその内部は,モザイク,色大理石,金銀細工,染織品など,色彩芸術の粋を尽くして豪華に飾りたて,神秘的な輝きに満ちた超自然的雰囲気をつくりあげる。このビザンティンの煉瓦造建築の外観の鈍重さは,外光をいっぱいに吸いこんで白く輝く優美なギリシア神殿とは対照的である。しかしビザンティン建築も,時代が下るにしたがい,比例的に高さが増し,全体が軽快になり,単調な壁面には盲アーチや龕でリズムがつけられ,さらに外壁の煉瓦の並べ方の変化あるいは石板や陶板の使用によって装飾模様をあらわすなどし,外観の美がある程度意識されるようになる。
絵画
4世紀の初め,コンスタンティヌス1世(大帝)によってキリスト教が公認され,ローマ帝国各地にいっせいにキリスト教芸術が発達しはじめたわけだが,図像芸術に関しては強い障害があった。つまり神的な存在を可視的に表現することに少なからぬ神学者が反対論をとなえたのである。そこで初期の教会の装飾絵画は,当りさわりのない古代ローマあるいはオリエント風の装飾主題を,伝統的な技法によってあらわすにすぎなかった。ローマのサンタ・コスタンツァ聖堂はその例である。しかし,すでにローマのカタコンベで徐々に成長しつつあったキリスト教絵画は,4世紀以来しだいに教会内部にも現れ,最初はローマ的様式がなお顕著であるが,しだいにキリスト教的ないし中世的とよぶに値する絵画がビザンティン世界において成長していくのである。この新様式は,視覚のとらえる地上的現実をそのまま忠実に再現しようとする古代的(および近世的)様式とは逆に,精神の目に映る超自然的・宗教的理念,霊的・神的存在を象徴的に表現しようとする。いわばキリスト教教義の形象化である。元来ギリシア系の美術はあらゆる点で〈人間〉の美術であるが,これに対してオリエント系の美術は古くから超人間的,神的なもの,至上権者へのあこがれを基調とする。たとえば,ヘレニスティック型(ギリシア型)のキリストが平凡なローマ人の姿をとるのに対し,シリア型のキリストはひげをたくわえ神的権威をそなえた堂々たる姿で表現される。このような精神価値の表現にとくに重要な役割を演ずるのは色彩である。もともと東方系美術は,形態の問題に主眼をおくギリシア美術とは違ってむしろ色彩の美術である。したがってビザンティン社会の興隆とともに,色彩の効果の最も強い素材が要求される。
建築装飾としては,古代世界では壁画が用いられたが,中世に入ってモザイクが主流をなすことになる。古代にモザイクがなかったわけではないが,多くは床に敷きつめられ,材料も大理石その他の石片を用いるのが普通であった。中世に入って壁面装飾にモザイクが用いられ,しかもその材料は七宝(エマイユ)や色ガラスであり,透明体を通して色彩が輝くためひじょうに華麗な効果を発揮し,またその色彩は壁画のそれのように変色したり,いたんだりすることはない。〈永遠の絵画〉と呼ばれたゆえんである。この技法は当時のビザンティン社会に急速にゆきわたり,6世紀には古代様式の痕跡もほとんど消えて,ビザンティンのモザイクの黄金時代を迎えることになる。ビザンティン絵画は教会がその主要な舞台であったが,世俗建築とくに宮廷建築にももちろん見られたわけである。現存するものはほとんどないが,図像絵画としては狩猟や曲芸の場面,装飾絵画としては動物,植物などが描かれたようである。いずれにしても教会の絵画が主流をなしていた。
教会の絵画の図像学的配置をみると,必ずしも最初から決定的な形式があったわけではない。主としてシリア,パレスティナ地方で図像の原形が生まれ,それが巡礼や手写本によって各地に伝えられながら徐々に発展し,9世紀ころにようやく安定する。教会の図像の配置は建築プランに順応する。建築の各部分がそれぞれ象徴的意味をもち,それらにふさわしい図像が配置されたといってよい。その典型を示すと,祭室上部ボールトには〈天の教会を〉統(す)べるキリスト,その下の壁面には〈地の教会〉を統べるマリア,身廊側壁には使徒,殉教者,学者たち,その上方には新約および外典から選ばれた12の場面,教会入口には〈最後の審判〉の場面,といった風であった。教会内部の全壁面が統一のある一構図を形成し,キリストを中心とした世界史の秩序を信徒に示したのである。このような図像が華麗なモザイクであらわされ,また壁面下部には色大理石の板が張られ,さらに床には石のモザイクが敷きつめられ,色彩の壮麗な交響楽をかなでた。壁画の技術もすてられたわけではなく,それほど重要ではない建造物に用いられた。
こういった絵画は,十数世紀にわたるビザンティン社会において,時代的・地域的にかなりの変化を示している。その源流ともいうべきものが上部シリアのドゥラ・ユーロポスの遺跡で発掘された壁画(3世紀前半)に認められるが,初期に絵画が発達したはずのシリア,パレスティナ地方には実物はほとんど残っていない。ユスティニアヌス1世を中心とする5~6世紀の黄金時代のものは,シリア,小アジア,ギリシア各地の装飾絵画(とくにモザイク)が8~9世紀のイコノクラスムやイスラム教徒の侵入などで,テッサロニキ,シナイ山などわずかな例を除いて,ほとんど姿を消したのに対し,北イタリアの都市ラベンナに豊富に残っている。ガラ・プラキディア廟や大聖堂(正統派)洗礼堂などは5世紀のもので,古代的感覚がまだ多少とも認められるが,6世紀にはいってサンタポリナーレ・ヌオーボ聖堂やとくにサン・ビターレ聖堂において東方的な壮麗豪華な様式が十分な成熟をとげている。なおこの時代の写本画もいくつか残っており,材料からいえばパピルスを用いた巻物風のロトゥルスrotulus(初期に多い)と,羊皮紙を重ねてとじたコデックスの両形式があるが,様式的には,古代的色彩の強いもの(《コスマスのキリスト教地誌》《ウィーン創世記》《ヨシュア画巻》など),東方的・アジア的色彩の強いもの(《ロッサーノ福音書》《ラウラ福音書》など)がある。
8~9世紀のイコノクラスムを経たのち,9世紀から12世紀にかけて第2の黄金時代が現れる。この時代には前記のように図像体系が完成するが,また技術的・様式的にもかなりの変化が認められる。この時代の代表的なモザイクはギリシアのダフニ修道院(12世紀)のものであるが,ここではモザイクの各断片が小さくなり,柔軟な姿態や衣文,正確なプロポーションや構図,人物の個性的表現などが認められ,総じて古代的様式への復帰が感じられる。このほかコンスタンティノープル(ハギア・ソフィア),ベネチア(サン・マルコ大聖堂),シチリアの諸都市(チェファルーCefalù,モンレアーレMonreale,パレルモ)など広範囲にわたってすぐれたモザイク芸術が開花した。他方,小アジアのカッパドキアの洞窟修道院に壁画が多く残っており,その中には中央のビザンティン様式とは異なった,シリア・コプト様式とのつながりの認められる独自の様式を示すものがかなりある。この時期には写本画も最盛期に達し,《パリ誌篇》など古代色の強いものもある。
つぎにパライオロゴス朝に入って,ビザンティン絵画は最後の復興期を迎える。この時代に目だつことは,ギリシアのミストラ修道院によって代表されるように壁画がモザイクに代わる傾向がみられる。経済的な理由もあろうが,壁画の軽く柔軟なデッサンや変化のある色彩が当時の一般の好みに合致したのであろう。そして,ある程度の遠近法,運動表現,デリケートな自然描写などが新しい傾向として認められる。この壁画の伝統は,一方ではアトスの修道院へ引きつがれるが,他方マケドニア一帯からセルビア,ブルガリアへとひろがる。今日のユーゴスラビアにはとくに重要なものが多く残り(ネレジNerezi,1164。ソポチャニSopotchani,1265ころ),柔軟な筆勢や強い宗教感情の表現は13~14世紀のイタリア絵画の先駆としてきわめて重要な意味をもつものである。モザイクの伝統はコンスタンティノープルのカハリエ・ジャーミー(旧コーラ修道院)に引きつがれている。写本画は前代に比べると衰えているが,ほかにイコン(板または絹布に描かれた聖画像)がこのころからスラブ各地に発達する。その初期の代表的な作例として,今日モスクワに伝えられる《ウラジーミルの聖母》(12世紀)はコンスタンティノープルで描かれたものとされる。この伝統はほとんどくずれずに17~18世紀ころまでつづき,とくにスラブ地域で注目すべき発展を示した。
彫刻・工芸
ビザンティン社会では宗教彫刻はほとんど発達しない。それは一つには,三次元的な宗教像に古代の偶像崇拝のなごりを感じてこれに対する反感が強かったことと,また立体的な彫刻に関心をもたぬ東方の伝統を引きついだこともある。初期には古代的伝統の強く残る地方に丸彫像がわずかに現れたが,それは一般に皇帝像など世俗的なもので,それも8~9世紀のイコノクラスムのためほとんど破壊されてしまった。要するにビザンティン社会では,宗教図像の表現は二次元的な色彩芸術にゆだねられていたので,いわゆる彫刻は建築の一定の部分であって,心理的・感覚的に装飾が要求されるところに施されたのである。つまり柱頭や石板がこれであり,墓棺も同じ性質をもつ。彫刻は建築の与える平面性を忠実に守り,金銀細工やレースのように繊細な明暗の文様を描きだすのである。モティーフは主として植物からとるが,クジャクやグリフォンなどの動物もあり,ササン朝ペルシアの織物の忠実な模倣もある。木彫は主としてとびらに施された低浮彫であり,初期のものはローマのサンタ・サビーナ聖堂(5世紀)のものがよく保存され,ここでは宗教図像があらわされている。しかし材料の性質上,今日まで保存されているものは後期のものが多い。
以上に対して小彫刻ともいうべき象牙彫は,ビザンティン各期を通じて注目すべき発達をとげ,宗教図像(キリスト,聖母,聖人など)が盛んにあらわされ,また世俗的図像も見られる。これらは初期においていわゆる〈執政官のディプテュコン〉として多く用いられた。ここでも東方および古代の伝統がいろいろの比例で結合しているが,初期においては後者がかなり目だつ。制作地の中心はアレクサンドリアとアンティオキアであったようで,その代表的作品はラベンナに保存される《マクシミアヌス司教座》(6世紀)である。10世紀から12世紀には象牙彫は隆盛期を迎え,その様式も成熟し,宗教的なもののほかに,花模様に世俗的図像(狩猟の場面など)を配した小箱なども数多く作られた。他方,金銀細工は5~6世紀にシリア方面で盛んに作られ,その技術も多岐にわたっている。巡礼者のための聖油瓶(かめ)(とくにイタリアのモンツァに保存される),浮彫装飾のついた皿,杯,壺などの遺品も多い。
ビザンティンの華麗な色彩趣味を反映させたものとしては七宝芸術が知られる。工房は主としてコンスタンティノープルにあり,この技法も東方伝来で,いわゆるエマイユ・クロアゾンネ(有線七宝)である。はなやかな色彩による装飾的効果のために,教会の貴重な十字架,聖遺物箱,祭具など,さらにぜいたくな美を好むビザンティン宮廷の装飾品にも用いられて大いに発達した。ベネチアのサン・マルコ大聖堂にはビザンティンの七宝が数多く保存されるが,なかでも〈パラ・ドーロpala d'oro〉とよばれる祭壇(10世紀末にコンスタンティノープルで制作。1105修復)はその代表的な作品である。
工芸品としては陶器やガラス器も発達したが,とくに染織品が注目される。色彩,技法,モティーフともにササン朝ペルシアの影響を強く受け,建築内部装飾・祭具・服飾用としてシリアを中心に盛んに作られ,とくに絹製品は西ヨーロッパにも多く輸入された。フランスのサンス大聖堂,ドイツのアーヘン大聖堂などにはその遺例の重要な収集が見られる。中期には制作の中心はコンスタンティノープルに移り,宗教的なものが多い。後期の染織品のうち特色のあるものはエピタフィオスepitaphiosである。これは聖金曜日の儀式に用いられる布で,キリストの死をあらわした豪華な刺繡でオフリトとテッサロニキに保存されているもの(13~14世紀)が有名である。
執筆者:柳 宗玄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報