改訂新版 世界大百科事典 「ロマネスク美術」の意味・わかりやすい解説
ロマネスク美術 (ロマネスクびじゅつ)
西ヨーロッパで主として11~12世紀におこなわれた中世美術をいう。ロマネスクRomanesqueは英語で,フランス語でロマンroman,ドイツ語でロマーニクRomanik,イタリア語でロマーニコromanico。これらの名称は,フランスの考古学者コーモンA.de Caumontが1825年その著書で,〈ロマン語〉にならって〈ロマン〉の語をもって,ゴシック建築に先行した中世建築の様式を名づけたところに由来する。ラテン語から分岐した諸ロマン語のように,これらの建築が,尖頭アーチやリブ・ボールトを用いた仰高性のいちじるしいゴシック建築とは異なって,半円アーチや重厚な壁体やボールトを用い,古代ローマ建築からの直接間接の派生関係のあることを意味させたものであるが,しかしロマネスク美術は,その地理的範囲でも,構成要素でも,ロマン語の意味するところとは大きなへだたりがある。ドイツ,イギリスなどが,ロマネスク美術の有力な北半をなしているのであり,またその成立・発展にあたっては古代ローマ美術を継承しただけではなく,そこには西ヨーロッパ特有なケルト的,あるいはゲルマン的芸術要素が強く発揮されており,またビザンティン美術の影響,さらにエジプト,シリア,アルメニアなどの東方キリスト教美術の影響,一部にはイスラムの影響などが取り入れられ,古代の古典美術とはほとんど対照的な性格をもった中世美術様式を展開しているのである。
世界の終末かと恐怖をもって迎えられた紀元1000年も無事豊作にすぎて,ほどなく〈キリスト教世界はいたるところ白き衣の御堂でおおわれた〉と伝えるクリュニー会修道士ラウル・グラベルの言葉は,西ヨーロッパのロマネスク美術の興る気運を示している。カール大帝の帝国は9世紀の間に分裂解体して,10世紀初め消滅し,代わってドイツ,イタリア,フランス,ノルマンディー,イギリス,南フランス,北スペインと各地に新しい王公諸侯の勢力が現れ,10世紀半ばころから西ヨーロッパに政治的安定がふたたび見られ,封建社会が整えられて各地は幾多の小領主に細分され,カロリング朝の中央集権的な文化に対して,地方分権的な情勢の上に文化活動が準備された。このようにして,10世紀後半からきざし,11世紀から12世紀にわたって,〈ロマネスク〉とよばれている西ヨーロッパ最初の大芸術が展開するのである。
すでにカロリング朝美術は大修道院建設をはじめ絵画,諸工芸にいたるまで,全ヨーロッパのロマネスク美術が出発すべき直接の基礎を準備した。さらにこの時代にメロビング美術やそれ以前の原始的美術伝統の復興をおもわせる半面があり,他方,前述したような有力な東方的諸影響が加わっている。これら複雑な諸要素を結合し,融合しながら西ヨーロッパの中世生活に適合した芸術を作り上げようとするのであって,そのため各地各国さまざまな試みがおこなわれ,解決が実現されたのである。したがって,西ヨーロッパ全体に共通する性格をもちながら,他面,各国各地方の独自性をよく発揮した数多くの地方様式を生み,カロリング朝美術の画一性やまた後のゴシック美術の古典的様式統一の傾向とは対照的な様相を呈するのである。
ロマネスク美術は,ゴシック美術の中心が都市の大聖堂の芸術であるのに対し,修道院の芸術であるとしばしばいわれるように,修道院がこの美術の形成・発展に演じている役割は大きい。代表的な建築は多く修道院の教会堂であり,これらを飾って彫刻や絵画の代表的作例が実現され,また当代の傑作とされるエマイユ(七宝)や金工品,ステンド・グラス,ミニアチュール(写本画)などが作られるのも修道院の工房においてであった。そして,これらの大修道院は大小の領主から土地を寄進された大土地所有者であり,しばしば有力な王侯と密接な関係があり,封建社会の有力者が修道院長となった。まずオットー朝,ザリエル朝のドイツ諸帝の強力な保護のもとにドイツ初期ロマネスク美術が形成され,この点カロリング朝美術の直接の後継者たる半面をもって,〈オットー美術〉と称されて,ロマネスク美術と区別する学者も少なくないが,すでに強力なドイツ中世前期美術としての性格を確立していて,ロマネスク美術の重要な一環をなしている。また,カンのサンテティエンヌ,ラ・トリニテの両修道院付属教会もノルマン公妃の保護のもとに建設され,イギリスの大規模な諸会堂建設もノルマン朝の征服政策と並行しておこなわれる。のちにその隷属する修道院1450を数え,一大修道院帝国を築いて,ドイツ皇帝勢力と対抗して,これを押さえるほどの勢力を有するにいたったクリュニー修道会の総本山であるベネディクト会クリュニー修道院も,初めは910年アキテーヌ公の寄進によって創建されたものである。このような背景はあるが,美術自体の形成・発展には修道院自体が直接の推進力となっているところが大きい。クリュニー会は諸巡礼路を組織し,ことにフランス全土からスペインの北西端にあるサンチアゴ・デ・コンポステラの聖地にむかう巡礼路が名高く,その要所要所に大規模な会堂(巡礼路教会堂)を建設し,美術の交流・普及に尽くしている。
この時代には,はやくから修道院の院長やその他高僧のなかに有力な推進者が少なからず現れ,なかにはすぐれた芸術家として名の伝えられるものも少なくない。ヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエル教会に青銅扉などの傑作を作った司教ベルンワルトは学識高く,絵画にもひいで,その会堂建築を指導したし,10世紀後半,ウィンチェスターの修道院長エセルウォルドも宗教建築に通暁していた。また,クレルモンの教会の聖母木像を作った高僧アデレムスは,同教会(946)の内陣に後代フランス教会堂のティピカルなプランとなる放射状祭室群の配置を創案しているし,11世紀にはオスナブリュック司教ベンノがすぐれた建築家として知られた。しかし,他方,専門の建築家も早くから現れ,国境をこえて広く諸地方で仕事をした。北イタリアのコモ地方の建築家組合〈マエストリ・コマチニmaestri comacini〉は著名な存在であった。
ロマネスク美術は,このように宗教美術が主であり,中でも宗教建築が指導的地位にあって,これを中心として絵画・彫刻および諸工芸が制作された。したがってこれら美術の諸部門に建築様式が反映し,モニュメンタルな性格,建築装飾としての性質が多かれ少なかれ表れている。この美術は10世紀半ばころから準備され,しばしば簡素な形式をとって形成され,11世紀末には結実するが,12世紀には獲得された表現形式をさらに大規模に,あるいは豊富に実現してロマネスク美術の古典期に達する。すでに12世紀半ばころから完熟期に入り,建築技術の熟達と洗練があらわれ,絵画・彫刻はビザンティン古典様式の影響を受容・消化して後期ロマネスク様式を形成するが,他方これらと並行して,北フランスのフランス王国を中心として,ロマネスク美術よりゴシック美術への過渡的現象である初期ゴシック美術が,建築のみならず,彫刻・絵画の分野でも活発に形成されていった。そして,ロマネスク美術は,地理的に概観するならカロリング朝美術の伝統の強かったドイツ,北フランス,ノルマンディーおよびイギリスの北方圏と,東方諸影響の強かったイタリア,カタルニャ,北スペインおよび南フランスの南方圏とに大別でき,それぞれの地方で準備,形成されたところで,相交流し,融合して完成されるのである。ドイツもイギリスもそれぞれ東方影響を取り入れ,ことにドイツはイタリアとともに後期のビザンティン・ロマネスク様式の最も重要な中心となる。ロマネスク美術はこのように,東方的諸要素を複雑に包含しているが,この東方影響を西ヨーロッパの実際的・合理的な精神をもって批判して,真に西ヨーロッパ的な中世美術を形成するのはつぎの時代ゴシック美術である。
建築
ロマネスク教会堂建築は,カロリング朝の大規模な中央集権的な教会堂建築のあとをうけて,各国各地方で,その地方独特の表現ゆたかな様式を生んでいる。西ヨーロッパの教会堂建築は,終始バシリカ形式の会堂を基本としているが,ロマネスク教会堂も同様であって,ただこれに新しい要素を付加しながら,ひじょうに豊富ないくつかの表現に達し,その一部はさらに精練されて古典的なゴシック会堂形式のうちに結晶されている。
まずプランから考察すると,三廊式の身廊に袖廊(トランセプト)を結合してラテン十字をかたどる基本的なバシリカ形式を守りながら,鐘塔や洗礼堂も独立して建てる古い配置をピサ大聖堂などのように守り通すところもあるが,修道院会堂では同時にミサをあげる修道士が多数いるところから祭壇の数を多く設ける必要が生じ,このため従来のバシリカ形式の内陣部を拡張して新しい部分を付加する配置が現れてきた。ドイツでは,すでにカロリング朝の教会堂に採用されていたように,東西にアプスを設け,あるいは内陣を設ける二重内陣形式を踏襲し,これを整備してドイツ・ロマネスク教会堂の古典的な形式を作りあげている(ヒルデスハイムのザンクト・ミヒャエル教会,マインツ,マリア・ラーハ修道院,ウォルムス,バンベルクなど)。フランスではむしろ祭室群を頭部に集め,内陣中央のアプスの左右に1列に配置する方法(サン・レミ,オルレアン,カタルニャのリポルなど)や,クリュニー第2教会堂で採用されたところから〈ベネディクト式プラン〉と称される,中央のアプスの左右に山形に数個の祭室群を配列する方法(シャリテ・シュル・ロアール,ジュミエージュなど)が現れ,ことに前述したクレルモンの教会にはじめて採用された内陣の周囲に周歩廊をめぐらし,その外部に5個または4個の祭室を放射状に配置する方法は,トゥールのサン・マルタン,コンクのサント・フォア,リモージュのサン・マルシャル,トゥールーズのサン・セルナン,サンチアゴ・デ・コンポステラ大聖堂などの巡礼路の教会堂群に採用され,とくにクリュニー(第3教会堂)はじめ多くのフランスの修道院教会堂に採用されて,フランスのロマネスク修道院教会堂の古典的なプランとなっている。なおこの放射状祭室頭部は,後代,フランスのゴシック大聖堂の正式のプランとして踏襲されているものである。
つぎに教会堂の全体的形態は,ドイツでもフランスでも,上述の総合的な傾向をもつプランと関連して,諸部分が中軸に集合させられる有機的な総合的形態を実現する方向にむかって努力し,初期キリスト教会堂建築にみられたような単純な面を組み合わせたバシリカ会堂,それと鐘塔,洗礼堂の独立する形式とはちがった解決をとっている。外形ではことに内陣部の高屋根は周囲より2層,3層と階段的に上昇する形態を作り,さらにその上に大塔がそびえ,しばしばその左右に小塔がひかえ,全体の集中点として最も重要な役割を果たしている。この大塔は,二重内陣形式をとるドイツ・ロマネスク教会堂の場合には,東西2基となり,さらにおのおのは左右に小塔を伴い,合計6基の多塔構成を作って,すぐれた効果を生み,その影響を周囲に及ぼしている(たとえばトゥールネ,フランスのゴシック教会堂建築ではラン,完全に実現はされなかったが,ランス,シャルトルなど)。正面構成については,カロリング朝の配置例にならって,二重内陣形式の西内陣を階上礼拝所にあげ,階下を通路とし,高大で威厳のあるウェストウェルクWestwerk(西構え)に整え,しばしばこれに双塔を添え(ゲルンローデ,シュパイヤー,トゥールネなど),さらにこれを独立させた正面構成として単塔正面構成(サン・サバン,リモージュのサン・マルシャルなど)や,ことに後代ゴシック教会堂正面にうけつがれる双塔正面構成(ジュミエージュ,カンのサンテティエンヌ,ラ・トリニテなど)が実現されるのである。
つぎに細部的考察に入ると,初期キリスト教会堂建築やカロリング朝建築では,単純な壁体の平面が強調され,この平面性を破らぬように窓や戸口の開口部が作られ,そこに柱が挿入されていたが,ロマネスク建築になると,壁面にバットレス(控壁)や添柱を付加して,分節的効果を作り,明暗凹凸を規則正しく設けて,立体的リズムを付加している。単純な面の組立てからなる建築から,面と線の組立てからなる建築に移行するのであって,線の強調は時代の進むとともに著しくなり,最後は力線構成の建築であるゴシック様式に到達するのである。この力線のうち著しいものは,内部の壁体や基柱(ピア)に添加される大小の半円柱,円柱が作る垂直線群であって,ことに地上から天井に達する長大な半円柱群,さらにそれがボールトに添えられたアーチに連なる力線構成は,11世紀のドイツやイギリスの教会堂建築に早くも現れ,まもなく一般化されるものであるが,教会堂内部の空間構成にすぐれた上昇的リズム効果を生んでいる。外壁について,明暗凹凸を生む独特な手法は,軒下を飾る小アーチ列で,早く8~9世紀から北イタリア建築に採用され,この地の建築の特色とされたところから〈ロンバルド帯〉とも称される。これが,カタルニャからライン地方の初期ロマネスク建築にも適用されたところで,単純な小アーチ列から,アーチ内の壁にくぼみを作って明暗効果を加え,装飾性を高めて最後には外壁を飾る独立したアーケード要素となり,ロマネスク建築において一般的に好んで用いられるモティーフとなるが,その最も豊富な効果を引き出しているのはイタリアの後期ロマネスク建築である。
最後に,ロマネスク建築におけるボールト架構の重要問題に入ろう。カロリング朝建築では,アーヘンの宮廷礼拝堂のようなボールト建築は例外で,ほとんどの建築の主要部は石造壁体の上に木造の天井と屋根をのせていた。ロマネスク建築も当初はこの種の構造をとるものが多く,ことに北方ではそうであった。軽い木造屋根は,屋根こう配の急な,高い壁体の構成をゆるし,採光上,窓も大きく開き,北方的な教会堂形態が生まれていった。バシリカ形式を守るイタリアもそれであった(フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ,ピサ大聖堂など)。しかし火災の危険を防ぐ実際上の要請は石造ボールト天井の採用を促した。それよりも,朽ちない材料によって基礎から頂上まで築かれることによって,はじめて永遠の建築として理想的な教会堂建築が実現されるのであって,この方向に向かって,ロマネスク建築の努力は,西ヨーロッパ全体を通じて進められることとなり,12世紀には,一部の例外を除いて,ほとんどすべての教会堂建築はボールト架構をもって実現するにいたった。重い石のボールトをもって広大な空間をおおい,それをいかに支持するかという困難な課題は,技術の習得,解決法の探求を要求し,さらに部分と全体との関係,均衡の諸問題についてきびしい考案を重ねさせ,この実際の材料に即した技術的修練と数学的思考の訓練は,西ヨーロッパの建築に高次な芸術形態を実現させるのであった。ボールト教会堂vaulted churchという新しい形式の考え方は,東方の影響のもとに南方圏の一部,スペイン,カタルニャ,ロンバルディアの諸地方で前期ロマネスク時代から進められた。はじめ,南方は小規模な,低い単層の教会堂にボールト架構をこころみ,しだいにボールト教会堂を一般化していくが,これがフランスに入り,北方の高大な空間をもった教会堂形式に適用するとなると容易なことではなかった。中部フランスでは,2層構成の均衡のよいボールト教会堂を採用し,11世紀後半からこの形式が一般化された(コンク,トゥールーズ,リモージュなど)。南方では,単純で統一的な形態をもつ半円筒ボールトが主であって,これら中部フランス・ロマネスクの教会堂建築も身廊の天井をこれをもって架し,左右の側廊を2層にして,その天井を高め,4分の1の円筒ボールトを架して身廊のボールトを両端からささえ,側廊の中段にも一つ交差ボールトを渡して強化するのである。この安定のよい形式は,身廊の採光が,側廊の上下の窓を通じてなされる間接採光なので暗く,重圧感が強い。北方の木造天井の教会堂形式では,側廊は単層で,身廊が一段高く,その側壁上部に高窓をつらね,そこから直接に採光するのである。クリュニー第3教会堂(1088年起工,1096年内陣部完成,12世紀前半身廊部完成)は,大胆にもこの直接採光の方式を採用し,交差ボールトを架した高大な側廊よりも,さらに一段と身廊のボールトを高く架し,その下に,左右側壁上部に高窓をならべて,直接採光とする。この場合,身廊のボールトは,横圧力を減ずるため通常の半円筒形をとらず,中心線で截(き)って,尖頭アーチ形の断面をとるという新機軸をだしている(オータンのサン・ラザール大聖堂,パレ・ル・モニアルなど)。他方,ベズレーのサント・マドレーヌ教会(1120-35)は,適度な調和よい高さで,側廊も身廊も交差ボールトを架す直接採光の形式を示しているが,北方では半円筒ボールトよりは,四方に窓や開口を許し重圧力を四すみに集中しやすいこの交差ボールトを好んで用い,すでに11世紀末のシュパイヤー大聖堂をはじめ,12~13世紀のドイツ・ロマネスク建築家も,側廊のみならず身廊にも交差ボールトを採用し,しばしばこれをもって従前の木造天井を改めている。ノルマンディーやイギリスの建築家たちも同様であって,11世紀末から交差ボールトを採用している。この交差ボールトは,交差する稜線に沿って,対角線をなす太い石造アーチを添付してリブ・ボールトに移行しうるが,このリブ・ボールトと尖頭アーチがゴシック建築の基本的な構成要素となるのである。イギリス(ダラム大聖堂,1094年起工,12世紀初め完成)は,ロンバルディア(サンナザーロ・セシア,ミラノのサンタンブロージョ教会など)とともに,リブ・ボールトが最も早く出現した地方であり,12世紀前半には北フランス(モリアンバル,パリのサン・マルタン)よりも活発にリブ・ボールト架構の高大なロマネスク教会堂を建築し(チュークスベリー,パーショア,グロスター),ゴシック建築の先駆として,つぎの段階への発展を予告している。ロマネスク建築の交差ボールトには,横圧力を減ずるうえから,また構築過程から,しばしば中高で,ドーム形をとるものが少なくない。しかし,大型ドームの架構で著しいものは,十字架プランの上に4基の大円蓋をのせたペリグーのサン・フロン教会(1120-79)を頂点とする南西フランスの一群のロマネスク建築であって,ロマネスク建築の技術的習得と独自な解決方法を示す一例ではあるが,わずかに初期ゴシック建築の一分派アンジュー様式の中にうけつがれるのみで半円筒ボールト架構のロマネスク教会堂群とともに,これ以上の将来性はなかった。これに対して,ただ北イタリアのドーム形の大交差ボールト架構は,ミラノのサンタンブロージョ,サンナザーロなどですでに11世紀に試みられたリブ・ボールトを先達として,12世紀の中ごろパルマやモデナの教会堂やパビアのサン・ミケーレにおいて実現した。ここではトリビューンを設けて3層構成をとり,ロンバルディア・ロマネスクの古典的形態を成就している。イタリアはゴシックを受け入れてのちもロマネスク的空間の影響は強く残存した。
絵画
ロマネスク教会堂はカロリング朝以来の伝統にしたがって,壁画で内部壁面を飾った。壁面の様式は,すでにカロリング朝の壁面によってその基礎があたえられていて,まずこの伝統の上に自己の様式を徐々に発展させていった。南ドイツ,ライヘナウのオーバーツェルのザンクト・ゲオルク教会の壁画では,まだ前時代のなごりが強いが,ブルクフェルデンや中部フランスのサン・サバン,タバン,ビック,あるいは北イタリアのアオスタなど11世紀から12世紀の壁画になるとロマネスク様式が明らかになっている。
ロマネスク絵画の特徴は壁画のみならず,写本のミニアチュールにも共通にうかがえるが,ミニアチュールの場合は色彩がさらに一段と強烈で,種類も多く,その特質がいっそう明らかに現れている。カロリング朝絵画は,人物も動植物も立体的なボリュームをもった,写実的な形象に描き,しばしば風景や空間の奥行きさえ描き出している。これに対し,ロマネスク絵画は,諸物の形姿を平面的に描出し,線中心のデッサンになり,いわゆる写実性をはなれて,光や陰も約束化された形をとり,色彩は平らに,しばしば強く色彩自体の効果を主張し,人物諸物の形象は一定の類型的な図形化の操作をうける。しかも,このような図形化された人間像は,カロリング朝の人間像には見られなかった一種の率直な力強い精神表現をもっている。簡素であるが,端的な意志表現を示し,最も基本的な感情表現を示して,約束化された身ぶりもじつにこれらと呼応している。いわばこれらは,意味をになった約束的形象であり,同時にその線・色・形の単純だが強い造形表現によって観者を感動させる形象である。ロマネスク画家は,ロマネスク彫刻家のようにこれら形象を組み合わせて簡潔に物語の内容を語らせるのが巧みである。そこでは構図の基本的素地も,自然的環境など顧慮せず,壁画や羊皮紙の面に,詩歌における文字・単語のように,絵画的韻律にしたがって,あるいは幾何学的構図原則に即して,人物諸物の形象をつづり合わせていくのである。
つぎに,ロマネスク壁画やミニアチュールに取り扱われた内容を検討してみると,神やキリスト,聖母の単独像の荘厳な図像が表されるのはもちろんである。四福音書記者の象徴をともなった黙示録的な神の荘厳な像も前時代からひきつづいてひじょうに多く,聖母子像も作られることとなるが,後代のように人間的な親しみはあらわに示さず,〈神の母〉としていかめしい姿をとる。単独の大構図で注目すべきは,〈最後の審判〉を内容とする教会堂西壁を飾る大構図で(サン・サバン),4象徴と24長老を伴う黙示録的な神の図像でこれを象徴するものと(モアサックの彫刻),《マタイによる福音書》により十字架を伴うキリストに十二使徒,天使群および蘇生した人々,善人の群れと悪人の群れを配する大構図が描かれ(ブルクフェルデン,南イタリアのサンタンジェロ・イン・フォルミス),これらは大彫刻にも盛んに取り扱われている(オータン,コンクなど)。ことに後者は,10世紀を通じてドイツで作りあげられ(オーバーツェル),のちのゴシック大聖堂正面を飾る大彫刻の中心テーマとなっている西ヨーロッパ独特の図像である。つぎに,当然,キリスト伝の諸場面,なかでも磔刑の主題を中心とする〈受難〉の諸場面などが数多く現れて,前代に比して福音書図像の著しい豊富化が示される。つぎにサン・サバンに見るように,天地創造と楽園追放からモーゼにいたる《旧約聖書》の諸場面が取り上げられるのも,ラテン教会の伝統であって,この場合は,後期ロマネスク,初期ゴシックの美術に現れるような神学的な新約・旧約対照の図像ではなく,世界史,人類史といった史伝的・叙事詩的な性格が中心である。この傾向は,聖人伝の諸場面にもうかがわれ,これらが盛んに壁画にも(サン・サバンの地下墓室の《聖サバン・聖キプリアヌス伝》),写本ミニアチュール(《聖オーバン伝》《聖マルティヌス伝》《聖ラドゴンド伝》など)にも描かれている。そして,ロマネスク図像の一特徴は黙示録関係の場面が絵画にも彫刻にもひじょうに多いことで,これによる超絶的な神の表現,神秘的な諸場面の連続は同時に一大叙事詩であり,人類史の象徴でもある。このようなロマネスク図像は,後期に進むと,大史伝的・黙示録的な性格を弱めて,人間感情の表現に重点をおく福音書的主題が強くなり,同時に知的・神学的な図像や倫理的な主題が加わってくる。
ロマネスク絵画には,東方のビザンティン様式の影響は多かれ少なかれ見いだされる。南イタリアのモンテ・カシノの画風を反映するとされるサンタンジェロ・イン・フォルミスの壁画(11世紀末),フランスではクリュニー会の壁画(ベルゼ・ラ・ビル,ノートル・ダム・デュ・ポール),カタルニャの壁画群(12世紀)などその遺例であるが,カタルニャのタウルの壁画は強い多色効果と緊張した平面構成によって特色を発揮し,なおこの地方では当時すでにロマネスク板絵が描かれているのもめずらしい。12世紀も進むと,さらに中期ビザンティンの古典的様式の反映が明らかになり,イタリアやドイツの遺例にうかがわれるように,人体はしだいにボリュームある自然な姿態をとり,明るい人間感情の表現が表れている。この後期ロマネスク図像美術は,北方ではドイツ,フランドルの写本画やエマイユ,金工品のうちによく示されていて,これらは13世紀の古典的なゴシック図像美術の形成に直接間接の関連をもっている。
写本装飾の芸術は,遺例が多く,変化にとみ,ロマネスク絵画のもっとも重要な部門であろうが,ここにその興味ある流派・作品を拾うなら,ドイツ,イギリス,スペインの前期ロマネスク美術に属する作例がそれであろう。オットー朝,ザリエル朝のミニアチュールは西ヨーロッパの写本装飾美術のなかでも最も豪華で優秀な作品群を生んだものの一つとして名高く,ライヘナウ派の作としては,《オットー3世の福音書》《ハインリヒ2世の福音書抄本》《ハインリヒ2世の黙示録》など豪華で力強い画風を示し,トリール派の作《サント・シャペルの福音書》は古代風のすぐれた福音者像で注目され,レーゲンスブルク派の《ハインリヒ2世の典礼書》《ウタの福音書抄本》が教義的・儀礼的な図柄で特色を示している。イギリスは10世紀後半から1世紀間,ウィンチェスター修道院を中心に,すこぶる描線の活発な画風をもった作品を生み,《エセルウォルドの祝禱書》がその代表作であり,名高い《バイユーのタピスリー》も,ウィンチェスター派の画風に属する下絵に刺繡(ししゆう)を施したものである。最も独特な様式を示すものとしては,スペインの,イスラム影響のもとに作られるキリスト教美術,すなわちモサラベ美術の写本装飾であって,あざやかな色彩と東方的な図様とを示す。その代表的な作例は《ベアトゥスの黙示録注釈》本の一群であって(ベアトゥス本),ニューヨークのモーガン図書館所蔵の《ベアトゥス》(926年または10世紀中期)をはじめ,バリャドリード大学本,ヘロナ大聖堂本,フルヘル大聖堂本など,10~13世紀の30近い写本を数えている。これらのうち,フランス的画風の《サン・スベールのベアトゥス》はロマネスク絵画の傑作の一つに数えられている。
ロマネスク絵画のところで,もう一つ触れなければならないのは,のちにゴシック教会堂の装飾としても最も重要なステンド・グラスの芸術が,すでにこの時代の後期に,いくつかのすぐれた作例を生んで,13世紀の隆盛を予言していることである。ステンド・グラスはすでにカロリング朝末期に出現していて,11世紀から12世紀にかけて,南西ドイツ,北東フランスに相当におこなわれていたことは文献によって示され,アウクスブルク大聖堂の大ステンド・グラス(11世紀後半または12世紀初め),ル・マンやバンドームの例に12世紀前半の純然たるロマネスク画風のステンド・グラスが見いだされ,名高いシュジェールのサン・ドニ内陣のステンド・グラス(1144ころ)もまだこれらの一群に属する。これに対して,12世紀後半のシャルトル,シャロン,ポアティエの諸教会堂の傑出した作例は,すでに古典的ビザンティン様式の教えを受けいれて,他の後期ロマネスク絵画に対し初期ゴシック美術に属している。
彫刻
中世初期は,西ヨーロッパでも古代の彫像芸術が衰退して,大彫刻がその後数世紀間キリスト教美術からほとんど姿を消してしまった。建築などを飾る平面的な模様彫刻や工芸的作品がおもなもので,ロマネスク彫刻は初めこれらの部門から成長して,教会堂建築の石壁に人像を刻んでキリスト教的内容を語る大彫刻を作り上げ,12世紀にはその盛んな時期を現出し,つぎのゴシック彫刻の発展を準備している。
彫刻的表現をまず工芸について見るなら,金属諸工芸や象牙彫は,すでにカロリング朝にすぐれた開花をみせ,その伝統を発展させて前期ロマネスク時代に興味ある作品を生み,後期はビザンティンの古典的様式の影響を消化して自然な人体表現をめざし,ゴシック彫刻の直接の先駆となる作品を生んでいる。教会堂建築装飾としての大規模なロマネスク石彫の豊富な展開は,むしろ前述の中間の時代であって,前者のおもな中心地が南西ドイツであるのに対し,後者のおもな舞台はフランスであった。
カロリング朝工芸の伝統をよくうけついだドイツは,イスラム影響のもとに制作したスペインとともに象牙彫にすぐれたが,さらに金属諸工芸がすぐれていた。貴金属工芸では,聖遺物箱そのほか聖祭具の制作が主となり,これにエマイユや金打出彫刻で人像などを表して装飾するもので,ライン・マース(ムーズ)地方と中部フランスのリモージュ地方がおもな中心地であった。中部フランスのコンクに現存する金薄板でおおった聖女フォアの木彫座像は,10世紀半ばころから出現するこの種の聖母座像と同種類のもので,彫像復活の一端を示すものである。また,バーゼルの金をかぶせた浮彫の祭壇前飾(アンテペンディウム)はドイツ皇帝ハインリヒ2世奉献の傑作で,前期ロマネスク浮彫の人体表現をよく示している。教会堂形の大聖遺物箱は,12世紀半ばころはゴドフロア・ド・ユイ,その半世紀後にはニコラ・ド・ベルダンといった名金工家を生んだライン・マース地方に傑出した後期の作例を生み(ケルン大聖堂の《三博士聖遺物厨子》(1206-30),アーヘン大聖堂の《マリア聖遺物厨子》(1225ころ-38)),それらを飾る高肉彫の人像群はすでに新時代の人間感情をたたえている(モザン美術)。ドイツはまたイタリアとともに青銅扉とその浮彫装飾の鋳造にすぐれ,前期にはヒルデスハイムの司教ベルンワルトの作ったザンクト・ミヒャエル教会の青銅扉(1015)および青銅柱(1025)がそのすぐれた人物浮彫をもって名高い。
しかしながら,教会堂建築を飾るモニュメンタルな彫刻は,ロマネスク美術の最も魅力ある部門である。教会堂の図像装飾として,当初は主として内部の壁画が用いられ,ときには外壁すら絵画で飾られた。しかし,やがて彫刻が図像的内容をとりあげ,柱頭やアーチを飾る純然たる模様装飾の彫刻と並んでおこなわれるようになる。すでに単独の彫刻は工芸的な作品や木彫の座像,磔刑像など10世紀末からおこなわれていたが,11世紀に進んで人体像が教会堂装飾に刻まれるのであった。柱頭や扉口左右の壁面,そのアーチ,上部のタンパン(半月形場面)などに多くの人物像が刻まれ,聖書や教義的な主題が表現される。ことにタンパンの大浮彫は,〈黙示録の神〉とか〈最後の審判〉〈昇天〉などといった重要主題が取り扱われ,荘重で激しい,ときには怪異な感銘を与える。人物も動植物も,すでに絵画のところで述べたように,ロマネスク彫刻では自然の姿を忠実に写そうというのではない。いくつかの伝えられた約束的形式にしたがっている。彫刻の場合は絵画よりはるかにデフォルマシヨンが激しく,それだけ超自然的・神秘的な印象がつよい。このデフォルマシヨンには二つの根拠がある。これら人物諸物の彫刻が建築に適用されるところから,建築の提供する場所の影響を受ける。柱やその他細長い場所に刻まれるなら人物は細長くなり,柱頭など幅のあるところならたけが短くなり,アーチならその曲線に影響される。また柱頭やアーチやタンパンになにか主題を刻むなら,その構図はこれら建築部分の有すべき機能の力線が構図に反映して,人物の配置や姿態,大小が左右されるのである。こういった建築の幾何学形の影響とならんで,もう一つロマネスク彫刻には模様図形の影響がある。これは中世初期以来,絵画や工芸その他にすでに著しく現れていた現象で,たとえば組紐文様を構成する線にしたがって,竜とか長身の怪獣が体をくねらせながら編みこまれる。波形唐草やパルメット文様の線にしたがって鳥獣はもちろん人間も,体をまげくねらせて,これら植物文様の形と結合し,または動物自体が相連続して波形を作り,相結合してパルメットを描くので,この模様図形はさらに物語構図まで構成される例もけっしてまれではない。このような一見目に見えない構成原理がロマネスク彫刻の形態生成の背後にあって,働きかけているのであって,これがいわゆるデフォルマシヨンとか怪異性のかぎである。
ロマネスク彫刻は,11世紀から西ヨーロッパの南部諸地方で建築の装飾として出現し,ことに当初は柱頭や石梁(せきりよう)などに適用され,11世紀の末には,クリュニー修道院内陣の柱頭群とかモアサックの回廊の柱頭群のようなすぐれた作例が生まれ,12世紀初めにはベズレー,オータンの諸教会やオーベルニュ,ポアティエ,トゥールーズなどの諸地方の柱頭群は円熟した段階に達している。最も重要なのは半月形の大構図であって,これの傑作は12世紀前半のモアサック,ベズレー,オータン,コンク,サンチアゴ・デ・コンポステラなどに,ロマネスク彫刻の絶頂がみられる。
ロマネスク大彫刻の魅力は,上述した諸例でもわかるように,人間や諸物の自然な形姿を強圧する抽象的な構成力,建築的幾何学や模様図形の牽制力とこれと対抗しようという人間などの形態の自然さの主張との抗争から生まれる。12世紀が進んで,自然的形姿への自覚や構図の合理性への自覚が現れ,また人間的感情の表現を意図する努力が強まってくるにつれ,このような特質は失われ,ロマネスク彫刻は解体するのである。この解体は,すでに述べた12世紀以来の金属彫刻においてしだいに明らかになり,またこれらと並行して12世紀中期以降の北フランスの初期ゴシック建築を飾る円柱人像とよばれている彫刻が出現する。これによって,個々の人間像は,なお円柱の形には束縛されながらも,不可解な模様図形の神秘からは解放され,人間感情の自覚に進んでいる。13世紀の古典的なゴシック彫像群は実にこれら円柱人像の発展したものである。
→教会堂建築 →キリスト教美術 →修道院
執筆者:吉川 逸治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報