イギリスの政治家。ロンドンに生まれ、ロンドン大学を卒業後、弁護士となる。1931年労働党下院議員となり、党内左派の指導者として社会主義連盟を率いて、共産党などと提携しての反ファシズム人民戦線の結成を目ざした。しかし党主流にはいれられず、1939年党から除名された。第二次世界大戦中は、左派としての経歴を買われ駐ソ大使を務めた。またクリップス使節団の団長としてインドに赴き、戦後に自治を与える方針を示すことによってインド民族運動に戦争協力をさせようとしたが失敗した。戦後は労働党アトリー内閣の商務相、経済担当相、蔵相を歴任し、蔵相時代は耐乏生活を国民に説いて経済危機を乗り切ろうとした。
[木畑洋一]
オーストリアの指揮者。ウィーン生まれ。同地の国立音楽アカデミーを出て、ドイツとオーストリア各地の歌劇場指揮者を務め、1933~38年ウィーン国立歌劇場指揮者。ナチスに追われてウィーンを離れたが、45年復帰、同歌劇場の再建に尽力した。50年以後、ロンドン交響楽団、バッファロー交響楽団、サンフランシスコ交響楽団の常任指揮者を務めるかたわら、コベント・ガーデン王立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラなどに客演した。68年(昭和43)サンフランシスコ交響楽団と初来日。優美な演奏にみるべきものがあったが、晩年のアメリカでの活動は長所を生かしきれなかったうらみがある。
[岩井宏之]
イギリスの政治家。ビアトリス・ウェッブの甥。ロンドン大学卒業後,法曹界に入る。第2次マクドナルド労働党内閣法務次官を経て,1932年設立の社会主義連盟の指導者として活躍する。緊急権限法や一時的独裁など左派戦術を唱え,統一・人民戦線運動の先頭に立つ。39年党を除名されるが,第2次大戦中駐ソ大使,国璽尚書,航空機生産担当相を歴任した。45年労働党に復帰し,アトリー内閣で経済相,蔵相をつとめ,インド独立に関与,経済危機には〈耐乏〉の犠牲精神を説いた。
→クリップス使節団
執筆者:都築 忠七
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1889~1952
イギリスの政治家。弁護士,法務次官をへて,1931年労働党所属の下院議員となったが,人民戦線に賛成して39年党を除名。40年駐ソ大使に任じられ,42年国璽尚書(こくじしょうしょ),42~45年航空機生産相,戦後アトリー内閣で商務相,蔵相を務め,耐乏生活を強いる緊縮財政によって戦後経済の復興を図った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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