アトリー(読み)あとりー(英語表記)Clement Richard Attlee

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アトリー」の意味・わかりやすい解説

アトリー
Attlee, Clement Richard

[生]1883.1.3. ロンドン
[没]1967.10.8. ロンドン
イギリスの政治家。オックスフォード大学卒業。 1905年弁護士を開業。 S.ウェッブ夫妻の影響を受け,07年独立労働党入党。 13~23年ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの講師をつとめながら,社会主義活動を行なった。第1次世界大戦ではガリポリ作戦に従軍して負傷。 22年下院議員に当選,以後 55年まで連続して議席を確保。 22~24年 R.マクドナルド労働党党首の秘書,24年マクドナルドが自由党の支持を得て組織した最初の労働党内閣で陸軍次官,30~31年ランカスター公領相,31年郵政相となったが同年の総選挙で敗退。 35~55年労働党党首。第2次世界大戦中,戦時内閣に入閣し,40~42年国璽尚書 (こくじしょうしょ) ,42~43年自治領相,43~45年枢機相を歴任,また 42年以降は副首相地位をも占めた。この間,サンフランシスコ会議,ポツダム会議に出席。第2次世界大戦後 45年の総選挙には,W.チャーチルの率いる保守党と戦って圧勝し,同年7月,労働党の単独内閣の首相として政権を担当。アトリー内閣は,イデオロギー的には漸進的社会主義を標榜し,現実政策の面では,イングランド銀行国有化に代表されるような重要産業の国有化政策の推進とともに,いわゆる「揺り籠から墓場まで」の社会保障制度の確立に多大の努力を払った。対外政策の面では,インド,パキスタンの分離独立を認めるなど,戦後のイギリス連邦再編を手がけた。しかし,戦後経済の復興は困難をきわめ,50年の総選挙では辛勝,再度アトリー内閣を組織したが,再軍備と社会政策の矛盾を調整できず,再軍備計画をめぐる党内左右両派の対立に出会い,翌 51年の総選挙では僅少差で保守党に敗れ,野に下った。 55年伯爵。主著"The Labour Party in Perspective" (1949) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アトリー」の意味・わかりやすい解説

アトリー
あとりー
Clement Richard Attlee
(1883―1967)

イギリスの政治家。オックスフォード大学を卒業し、弁護士となる。ロンドンの貧民街の状況をみて社会主義に目覚め、フェビアン協会に加入した。ロンドン大学で教鞭(きょうべん)をとったのち、第一次世界大戦に従軍し、戦後1922年に労働党下院議員となった。1931年の労働党の危機に際して副党首に選ばれ、1935年党首に就任した。第二次世界大戦中はチャーチル連立内閣の副首相として、自治領との関係調整などに活躍した。1945年7月の選挙で労働党が勝利した結果、首相の座につき、1951年まで国政を担当した。彼の政府は、国内的には、産業の国有化を行うとともに、国民医療制度の創設など種々の改革を通じて福祉国家の形を整え、対外的には、インドへの独立付与をはじめ、植民地の縮小を行った。冷戦のなかではアメリカ側を強力に支持したが、朝鮮戦争でアメリカが原爆使用の姿勢を示したときには激しく反対した。

[木畑洋一]

『和田博雄・山口房雄訳『アトリー自伝』(1955・新潮社)』

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