夫シドニーSidney Webb(1859―1947)、妻ベアトリスBeatrice Webb(1858―1943) 夫妻ともにイギリスの社会学者、経済学者であり、フェビアン主義の理論的指導者であると同時に、イギリス社会改革史上重要な役割を果たした活動家である。シドニーは1878年官界に入り、高級官吏としての道を進むはずであったが、1891年辞職。コントの思想に動かされつつフェビアン協会に加盟(1885)、漸進的社会主義者としての理論的、実践的作業を開始した。ベアトリスは上流階級の娘としての教育を受けたが、H・スペンサーの思想に共鳴し、慈善活動に身を投ずる一方、労働者調査にもその情熱を注いだ。2人はフェビアン協会で巡り会い、思想的に共鳴しあって1892年に結婚した。以後夫妻の協力による理論的活動は『労働組合運動史』(1894)、『産業民主制論』(1897)、『大英社会主義国の構成』(1920)、『ソビエト・コミュニズム』(1935)などとして結実した。また夫妻の活動は政治面、社会面においても目覚ましく、シドニーは下院議員、労働党閣僚として、ベアトリスは救貧法廃止の運動家として、イギリスの社会改革のために貢献した。コモン・マン(庶民)の自治意欲と行動とを基盤にした新しい制度形成こそ社会変革を可能にする、というのが夫妻の一貫した考えであったが、こうした活動はまさにその考えを現実に移すものであった。
[元島邦夫]
『高野岩三郎監訳『産業民主制論』復刻版(1969・法政大学出版局)』▽『名古忠行著『ウェッブ夫妻の生涯と思想――イギリス社会民主主義の源流』(2005・法律文化社)』
イギリスの建築家。G・E・ストリートの建築事務所で働いているときに、ウィリアム・モリスと出会い、以後生涯を通じての協力が続いた。1860年、モリスのために、近代住宅史に名高い「赤い家(レッドハウス)」を完成したが、この作品によってウェッブは建築家として初めて世に知られた。以後モリス商会のためのインテリア関係の仕事も多く残した。ウェッブの建築家としての本領は、大規模なカントリーハウスの設計において発揮され、その円熟した作風は、クラウズ(1887)やスタンデン(1894)などの住宅に示されている。いずれも設計者の細部に徹底する性格を反映して、実直で堅実な内容をみせている。
[長谷川堯]
イギリスのフェビアン社会主義指導者。妻ビアトリスBeatrice Webb(1858-1943)とともに福祉国家の建設に貢献した。シドニーはロンドンの下層中産階級の出身,夜学で学び文官試験に合格。植民省に入り,1885年フェビアン協会に参加。ビアトリスは大実業家リチャード・ポッターの八女。父の友人H.スペンサーの影響をうけて社会有機体の科学的検証を志し,ロンドンのイーストエンドで労働者の生活調査を始め,シドニーの協力をうける。《フェビアン社会主義論文集》(1889)所収の,漸進的社会変化を説くシドニーの論文が彼女を魅了し,C.ブースの貧民調査報告の中の彼女の文章がシドニーを動かし,二人は92年結婚した。《労働組合運動史》(1894)に始まる夫妻の共著は,《イギリス地方政治史》10巻(1906-29)などの膨大なもので,《ソビエト共産主義,新しい文明?》(1935。2版以後,〈?〉が消える)までつづく。その間,社会改良専門家養成のロンドン政経学校London School of Economicsを設立(1895),ビアトリスは福祉国家の礎石ともいえる救貧法調査委員会《少数派報告》(1909)を発表,フェビアン調査部を設けてフェビアン協会を指導した。シドニーは第1次大戦中労働党書記長アーサー・ヘンダーソンに協力し,以後,自由・保守両党への浸透路線をやめ,労働党の政策樹立に貢献し,党の最初の社会主義綱領《労働と新社会秩序》(1918)を作成した。1922年シドニーは下院に選出され,第1次労働党内閣で商務相をつとめ,29年パスフィールド男爵として上院に移り,植民地相として第2次労働党内閣に加わる。ビアトリスは男爵夫人の称号を拒否。32年夫妻はソ連を訪れ,そこにフェビアン社会主義の楽園を見いだし,帰国後は科学的ヒューマニズムを擁護して余生を送る。47年12月夫妻はウェストミンスター・アベーに埋葬された。
1911年夫妻は日本を訪れ,シドニーは東京で大英帝国の行政経験について講演し,日本の講壇社会主義者と接触し,京城(ソウル)で日本の朝鮮統治を観察した。共著の邦訳は大正デモクラシー期に多く,《国民共済策》(原著1911,大日本文明協会訳,1914),《労働組合運動史》(原著1894,荒畑寒村・山川均訳,1920),《資本主義文明の凋落》(原著1923,安部磯雄訳,1924),《産業民主主義》(原著1897,高野岩三郎訳,1927)などがある。
執筆者:都築 忠七
イギリスの建築家,デザイナー。アーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの代表者の一人。オックスフォードに生まれ,1852年から59年まで建築家G.E.ストリートの下で働き,ここでW.モリスと出会う。モリスの新居レッド・ハウス(1860)をはじめ,主に地方の館を設計。また,モリス商会の家具その他のデザインを多く手がける。その強固な芸術信念は顧客を限定したが,手工芸復興に共鳴したデザイナーに大きな影響を与えた。
執筆者:湊 典子
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1859~1947
イギリスの社会および政治問題研究家。1885年フェビアン協会に加入。92年ビアトリス・ポッターと結婚,以後夫妻協力して救貧法を中心に社会・労働関係の一連の著作活動を展開。ロンドン大学政経学部の創立に貢献し,1914年以降労働党の国内政策を指導,18年新綱領「労働階級と新社会秩序」を起草して漸進的な社会主義への移行を表明。労働党内閣で24年商務相,29年植民相となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…この機械によって次のような操作でトップが作られる。(1)ビスコース,アセテート,あるいはダイネルのトウは12万~19万デニール(5デニール×24000~38000フィラメントのこと)で供給され,平たんなウェッブweb(外観がクモの巣のような薄い皮膜の繊維)の形にされる,(2)ウェッブはローラーの間を通るが,合成繊維の場合はここで延伸がかけられる,(3)ウェッブはローラー型のカッターによって,進行方向に対して約10度の角度で斜めに7.5~15cmのある決まった長さに切断される,(4)切口を引き離し,切断された繊維束の上部と下部をローラーによってずらす,(5)繊維束を巻いて,撚りをかけてない繊維束であるスライバーを作る,(6)スライバーを円筒形に巻き上げてトップを作る。直紡によって多くの工程が省略されるうえに,均一で約20%強さの増した糸を得ることができる。…
…イギリス側にはドーバー,フォークストン,フランス側にはカレー,ブーローニュ・シュル・メールなどの港湾都市があり,連絡港として機能している。海峡横断水泳は1875年のキャプテン・ウェッブMatthew Webb(1848‐83)が最初である。また1856年以来たびたび海底トンネル計画が論議されたが,1984年の〈海峡トンネル協定〉にもとづき,民営方式で87年鉄道専用の〈ユーロトンネル〉の本格的工事に着工した。…
…世界的に著名な遠泳は,ドーバー海峡の横断で,イギリス側のドーバーとフランス側のグリ・ネ岬の間,最短距離で約34kmを泳ぐ。ふつう単に海峡水泳channel swimmingの名で知られ,75年8月イギリスのM.ウェッブが21時間45分で泳ぎ切って以来,毎年世界各国のチャネル・スイマーが横断に挑戦し,年中行事化されている。女性では,1926年にアメリカのエダールG.Ederleが,14時間34分で初めて横断に成功。…
…イギリス側にはドーバー,フォークストン,フランス側にはカレー,ブーローニュ・シュル・メールなどの港湾都市があり,連絡港として機能している。海峡横断水泳は1875年のキャプテン・ウェッブMatthew Webb(1848‐83)が最初である。また1856年以来たびたび海底トンネル計画が論議されたが,1984年の〈海峡トンネル協定〉にもとづき,民営方式で87年鉄道専用の〈ユーロトンネル〉の本格的工事に着工した。…
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[内容の歴史的変化]
その内容は,社会思想上の立場によってさまざまに理解されており,歴史的にも変化している。イギリスのウェッブ夫妻(S.ウェッブ)が労働組合の構造や機能を研究した著書の標題に用いたことから産業民主主義という言葉は普及したが,この著書では,産業民主主義の内容として労働組合の民主主義的運営と団体交渉の当事者としての機能を確保することが強調されている。この考え方は,資本主義社会での階級関係を前提に,その枠内で労働者に一定の発言権を認めるものとして,現在も労使関係の基本的な考え方として継承されている。…
…〈国民的最低限〉を意味するこの概念は,イギリスのウェッブ夫妻(S.J.ウェッブとB.ウェッブ)が1897年に発表した《産業民主主義》の中で初めて提起したものである。労働組合運動と共済組合活動にゆだねられていた労働者の生活保障問題について,彼らは一定の条件以下ではいかなる産業も経営されることが許されないようなルールを策定することの必要を主張し,衛生と安全,余暇と賃金に関する法律によってナショナル・ミニマムを確保することを企図していた。…
…ローマの知将ファビウス(あだ名は〈遷延家〉)にちなんで名づけられた。G.B.ショーとシドニー・ウェッブの参加により,固有のフェビアン社会主義が確立される。協会が採択した《フェビアンの基礎》(1887)は,土地と産業資本の個人的・階級的所有から社会的所有への移行を目標に掲げ,社会主義的世論の普及によってこれを達成するものとした。…
… 第1次大戦で戦争支持のA.ヘンダーソンが党委員長となり,戦時内閣に参加するが,ロシア革命後は交渉による平和を主張して内閣を去り,これが党を自立に導くとともに反戦リベラルの労働党への参加の道を開いた。戦時中の組織労働者の飛躍的増加が党の自立を支え,18年S.J.ウェッブの協力を得て社会主義綱領が作成された。同4条は〈手と頭脳の生産者に勤労の全成果を確保〉するような〈生産手段の公有〉を宣言し,同時に地方支部を設けて一般党員の加入を制度化し,国民政党への展望を開いた。…
※「ウェッブ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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