グエン・チャイ
Nguyen Trai 阮薦
生没年:1380-1442
15世紀初頭のベトナムの学者,思想家。チャン(陳)朝を奪してホ(胡)朝が成立したベトナムに,チャン朝復興を理由とする明の永楽帝の軍が侵攻した時(1406),《蕊渓集》の作者として著名なその父,中書侍郎グエン・フィ・カイン(阮飛卿)は明軍に殺されたが,グエン・チャイは野にかくれて1418年のラムソン(藍山)におけるレ・ロイ(黎利)の蜂起に加わり,レ・ロイを助けて明の支配に対抗した。抗争10年の後明軍が撤退しレ(黎)朝が成立すると,太祖レ・ロイ側近の中心人物として入内行遣,吏部尚書となり,レ朝の政治中枢を掌握した。太祖没後は官を辞して隠棲したが,2代皇帝太宗謀殺の疑いをかけられて処刑された。レ朝初期の代表的詩文家でウク・チャイ(抑斎)と号し,《ウク・チャイ詩集》のほか,抵抗戦争の間に起草した文章を集めた《軍中詞命集》や明軍撃退を天下に布告した〈平呉大誥〉,ベトナム最初の地理書となった《嶼地志》を収めた《ウク・チャイ集》6巻を残した。民族文字チュノムの最も古い資料とされる長編詩《家訓歌》の作者とも考えられてきたが,真偽を疑う説もある。
執筆者:川本 邦衛
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グエン・チャイ
ぐえんちゃい
(1380―1442)
ベトナムの詩人。1400年大学生試験に合格し、胡(こ)朝に仕える。のち、明(みん)軍がベトナムに侵攻したとき、平定王黎利(レ・ロイ)を助けて従軍、功績をあげ重用される。10年にわたる抗戦ののち、明軍を国外に追討したとき書いた独立宣言文『平呉大誥(へいごだいこう)』は名文(漢文)として知られる。39年官職を退いたのち、冤罪(えんざい)で一族とともに殺されるが、のちに名誉は回復された。代表作としては『平呉大誥』のほか『家訓歌(ザ・フアン・カ)』がある。これは父子・夫婦・妻子の務め、家族の躾(しつけ)を説いた796行に及ぶ68体の韻文詩である。
[竹内与之助]
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グエン・チャイ(阮薦)
グエン・チャイ
Nguyên Trai
[生]1380
[没]1442
ベトナムの将軍。ベトナムを占拠した中国の明に対し 10年間抗戦を続けた黎利の将軍で,明軍を国外に追放したとき著わした『平呉大誥』は漢文で書かれた名文として有名である。また,字喃 Chu Nôm (漢字応用の国字) で書いた『家訓歌』は 15世紀の初めの作品で,家庭のしつけについての 796行の七七六八体の詩である。
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世界大百科事典(旧版)内のグエンチャイの言及
【ベトナム】より
… 15世紀に成立したレ朝では,科挙制の整備と儒教の国教化によって文学の評価が高まり,漢詩文が知識人層の必須の教養とされる一方,民族語詩にも新たな発展がみられた。初期の最大の詩人は[グエン・チャイ](阮薦)で,彼は《ウク・チャイ(抑斎)集》6巻にすぐれた詩文と学術的著作を残しただけでなく,18世紀に勃興する双七体長編詩の最古の作品《家訓歌》の作者ともされている。 レ朝はレ・タイントン(黎聖宗)の時代に文学尊重の気運が最も高まり,タイントン自身に《明良錦綉詩集》などの御製詩集や《瓊苑九歌》《古心百詠》その他の勅選集があるだけでなく,その《洪徳国音詩集》にはチャン朝の国語詩と詩体を異にする七言・六言混交体の国音詩を集め,より特徴のある民族語詩が盛んに試みられたことを示している。…
【レ・ロイ】より
…1407年明はホー(胡)朝を倒してベトナムを占領したが,その直接支配に抗して18年ラムソンに挙兵し,ビンディン(平定)王と称した。さらにタインホア,ゲアンで反明ゲリラ戦を展開し,名参謀[グエン・チャイ](阮薦)の協力を得てしだいに勢力を増した。26年北方に進撃し,翌年ソンコイ川デルタの明軍を撃破,チャン(陳)朝の子孫チャン・カオ(陳嵩)の即位を条件に明軍を撤退させた。…
※「グエンチャイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」