黎利(読み)れいり

日本大百科全書(ニッポニカ) 「黎利」の意味・わかりやすい解説

黎利
れいり
(1384―1433)

ベトナム黎(れい)朝(レ朝)の創設者(在位1428~33)。廟号(びょうごう)は太祖平定王(ビンディンブオン)とよばれる。黎利(レ・ロイLe Loi)は、中部ベトナム、タインホア地方の土豪の子として生まれる。1407年明(みん)によってベトナム全土が占領されるや、18年から故郷のランソン地方で挙兵して、明軍と戦った。名参謀阮薦(グエン・チャイ)の補佐を得て10年にわたる山岳ゲリラ戦ののち、ソン・コイ川デルタに進撃して、28年明軍を駆逐し、ベトナムの独立を回復して黎朝を開いた。帝位につくや、前代陳朝(チャン朝)の王族支配を改め、中国律令(りつりょう)制度と土着の社会体制を調和させた律例制、公田制、社(村落)制度を創始した。これは4代聖宗に至って完整された。

[桜井由躬雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「黎利」の意味・わかりやすい解説

黎利
れいり
Lê Lo`i

[生]1385
[没]1433
ベトナム,後黎朝 (→黎朝 ) の創始者 (在位 1428~33) 。ベトナム音でレ・ロイ。諡は高皇帝。廟号は太祖。清化 (タンホア) の人。 1418年当時自国を支配していた明朝に対して反抗し,兵をあげた。以後明軍と 10年間戦い,27年までにはこれを完全に国外に駆逐し,ベトナムの独立を回復させた。翌 28年東都 (ハノイ) で即位し,国号を大越と定め,黎朝を開いた。在位中,諸制度を整備し儒学を振興した。また明に朝貢し,その封冊を受けた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「黎利」の解説

黎 利
れいり

1385〜1433
ヴェトナム(後)黎朝の初代皇帝(在位1428〜33)。レ=ロイ(Lê L'oi)とも呼ばれる
陳朝末期,明軍の侵入に対して1418年ラムソンに挙兵し,平定 (へいてい) 王と称した。明の再度攻撃を破り,1428年ハノイで即位,国号を大越とし,明とも和を結んだ。民族的英雄として現在もヴェトナム民衆の尊敬をあつめている。

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改訂新版 世界大百科事典 「黎利」の意味・わかりやすい解説

黎利 (れいり)

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世界大百科事典(旧版)内の黎利の言及

【レ朝】より

…レ(黎)朝と呼ばれる王朝には前レ朝(980‐1009),後レ朝(1428‐1789)の2王朝があるが,一般には後レ朝をさす。 15世紀初め,ベトナムは中国明朝の支配下にあったが,タインホア地方の土豪レ・ロイ(黎利)は1418年に反明ゲリラ戦を起こし,27年ハノイを占領して明軍を駆逐,翌年に国号をダイベト(大越),年号を順天とする新王朝を開いた。レ・ロイは31年に明との国交を修復し,権署安南国事に封ぜられた。…

【レ・ロイ】より

…ベトナムの後レ(黎)朝の創始者(在位1428‐33)。タインホアのラムソンの土豪の家の生れ。1407年明はホー(胡)朝を倒してベトナムを占領したが,その直接支配に抗して18年ラムソンに挙兵し,ビンディン(平定)王と称した。さらにタインホア,ゲアンで反明ゲリラ戦を展開し,名参謀グエン・チャイ(阮薦)の協力を得てしだいに勢力を増した。26年北方に進撃し,翌年ソンコイ川デルタの明軍を撃破,チャン(陳)朝の子孫チャン・カオ(陳嵩)の即位を条件に明軍を撤退させた。…

※「黎利」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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