レロイ(その他表記)Le Loi

改訂新版 世界大百科事典 「レロイ」の意味・わかりやすい解説

レ・ロイ (黎利
)
Le Loi
生没年:1385-1433

ベトナムの後レ(黎)朝の創始者(在位1428-33)。タインホアのラムソンの土豪の家の生れ。1407年明はホー(胡)朝を倒してベトナムを占領したが,その直接支配に抗して18年ラムソンに挙兵し,ビンディン(平定)王と称した。さらにタインホア,ゲアンで反明ゲリラ戦を展開し,名参謀グエン・チャイ阮薦)の協力を得てしだいに勢力を増した。26年北方に進撃し,翌年ソンコイ川デルタの明軍を撃破,チャン(陳)朝の子孫チャン・カオ(陳嵩)の即位を条件に明軍を撤退させた。28年レ・ロイはチャン・カオを廃してみずからハノイで即位し,国号をダイベト大越),年号を順天とした。明も31年にレ・ロイを権署安南国事に任じ,その独立を認めた。レ・ロイは独立後,国内を五道に分け,各道に衛軍,行遣を置いて軍政を施行したが,しだいに在野文人の登用に努め,国子監を再編するなどして,チャン朝後期からホー朝にかけての貴族制から科挙官僚による中央集権制への脱皮の道を継承・推進した。しかし没後継嗣タイトン太宗),3代ニャントン(仁宗)のいずれも幼く,このため太后権力が強化されたり,また継嗣をめぐる内紛が続いたりし,レ・ロイの事業完成は60年のタイントン聖宗)の登位を待たなければならなかった。レ・タイトLe Thai To(黎太祖)とも呼ばれ,ベトナム民族英雄の一人として尊崇されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「レロイ」の意味・わかりやすい解説

レロイ
れろい
James A. Le Roy
(1875―1909)

20世紀初頭アメリカのフィリピン問題研究家。ミシガン州ポンティアック出身。ミシガン大学卒業後、デトロイトニューヨークで新聞記者として活躍した。1901年、母校の恩師ウーセスター教授Dean C. Worcester(1866―1924)が第二次フィリピン委員会委員に任ぜられたのを機に、彼の秘書としてフィリピンに渡り、フィリピン事情をスペイン支配の初期にまでさかのぼって精力的に研究した。しかし、2、3年後に肺結核を患って帰国。その後、メキシコのドゥラゴで領事を務めるかたわら、おりからアメリカで高まった反帝国主義者たちのフィリピンを独立させよの主張に強力な反対論を展開。1905年には『フィリピンの都市と農村における生活』を出版した。

[池端雪浦]


レ・ロイ
れろい

黎利

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レロイ」の意味・わかりやすい解説

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世界大百科事典(旧版)内のレロイの言及

【レ朝】より

…レ(黎)朝と呼ばれる王朝には前レ朝(980‐1009),後レ朝(1428‐1789)の2王朝があるが,一般には後レ朝をさす。 15世紀初め,ベトナムは中国明朝の支配下にあったが,タインホア地方の土豪レ・ロイ(黎利)は1418年に反明ゲリラ戦を起こし,27年ハノイを占領して明軍を駆逐,翌年に国号をダイベト(大越),年号を順天とする新王朝を開いた。レ・ロイは31年に明との国交を修復し,権署安南国事に封ぜられた。…

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