改訂新版 世界大百科事典 「グリークリバイバル」の意味・わかりやすい解説
グリーク・リバイバル
Greek Revival
ギリシア復興(様式)。18世紀中葉以降の新古典主義建築の中に主として見られるギリシア様式再発見と応用の動きを指していう。スチュアートJ.StuartとレベットN.Revettが現地調査にもとづいて1762年に出版した《アテネの古代遺物》が,この機運の出発点となった。この頃からギリシアを訪れる芸術家や知識人が相次ぎ,エルギン卿はアテネのパルテノン神殿の大理石彫刻をイギリスに持ち帰る(エルギン・マーブルズ)。それが1816年に政府に購入され,ギリシア芸術再発見の機運は頂点に達した。ルネサンス以来,古代の理想はローマの遺跡や美術作品を通じて理解されていたが,ギリシアの再発見は〈崇高〉という概念に結びつくものとして大いに評価された。これを支えた理論家としては,1754年に《ギリシア芸術模倣論》を著した美学者ウィンケルマンがいる。こうした中で,実際にギリシアの様式を用いて建築や工芸品をつくり上げる動きが生じた。97年にはプロイセンにジリーFriedrich Gilly(1772-1800)がフリードリヒ大王記念物の計画案を,1822年にはエジンバラにコッカレルがナショナル・モニュメント(未完)を,30-42年にはレーゲンスブルク近郊にクレンツェがワルハラWalhallaを,それぞれパルテノン神殿を模して設計している。こうした動きはギリシア様式の復興という古典主義芸術の試みであると同時に,アクロポリスの丘を再現しようとするロマン主義的な動機に支えられたものであった。他の芸術家として,プロイセンのシンケル,アメリカのタウンIthiel Town(1784-1844)らもギリシア様式による建物をつくっている。また,ギリシアの造形を陶器の浮彫に用いたイギリスのウェッジウッド商会もこの動きの一翼を担った。このグリーク・リバイバルの動きと,思弁的な合理精神に裏づけられた同時代の造形を総称して新古典主義と呼ぶ。絵画においては,近代の人物や情景をギリシア風の背景の中に描いたり,あるいはギリシア風に描いたりする手法となって現れた。
→新古典主義
執筆者:鈴木 博之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報