翻訳|Edinburgh
イギリス北部,スコットランド東部のロージアン州の州都。スコットランド王国のかつての首都で,グラスゴーに次ぐスコットランド第2の都市。政治,学術,文化の中心地。人口45万(2001)。1973年の地方行政法が発効するまでは,国王の勅許状による自治都市であった。スコットランド中央低地帯の東部に位置し,フォース湾をへて北海に面する。北緯56°に近く,サハリン(樺太)の北端とほぼ同緯度であるが,北大西洋海流や偏西風の影響のため気候は温和。城のある標高135mの丘を取り巻いて〈七つの丘〉や谷が散在し,その中に市街地が広がっている。自然と建築物とが調和して風景が美しく〈北国のアテネ〉と呼ばれている。別称イダイナEdina,愛称オールド・リーキーAuld Reekie。
市街はほぼ中央を東西に横切るプリンシズ街を境として,新旧二つの市街地に分けられる。プリンシズ街は,ジョージ3世の2人の王子にちなんで命名されたメーン・ストリートで,北側の通りには,商店やホテルが立ち並び,南側には濠を埋め立てて造った公園があり,そこからエジンバラ城の雄姿が眺められる。公園には文豪W.スコットの像をはじめ,多くの記念碑や世界最初の花時計(1903)がある。プリンシズ街から旧市街に至る通路マウンドの東側には,芸術の殿堂王立スコットランド・アカデミーと国立美術館がみられる。プリンシズ街の北に広がる新市街は,1767年から約1世紀間にわたり,J.クレーグの設計にもとづいて造られた。プリンシズ街に平行してジョージ街,クイーン街があり,これらはセント・アンドルー広場とシャーロット広場を起点・終点にしたジョージ王時代風の街である。
プリンシズ街の南側,エジンバラ城から東へ続く中世以来の旧市街ハイ・ストリートには由緒ある建物が多い。しかし中心はカッスル丘にあるエジンバラ城であろう。この城は三方が絶壁となっていて,攻防に有利な城塞であった。城の中にあるセント・マーガレット礼拝堂は11世紀に建てられた。城の一部は現在兵営として使用され,城の入口にある広場で行われる,キルトをはいた衛兵の交代は,エジンバラ名物の一つである。城からホリルードハウス宮殿までの1マイル(約1.6km)の道はローヤル・マイルと呼ばれ,東に向かって下って行くと,900年近い歴史を持つセント・ジャイルズ教会や,現在はスコットランド高等裁判所として用いられている,かつての国会議事堂が見えてくる。そこを少し南に折れると,17世紀まで起源のさかのぼる国立スコットランド図書館がある。ローヤル・マイルの東端に立つホリルードハウス宮殿は,中世期の修道院のかたわらに造られた王室の館で,特にスコットランド女王メアリー・スチュアートが住み,その愛人と噂されたイタリア人リッチョの暗殺された場所として有名である。現在も公式の王宮として使われている。その他市内には医学研究で名高いエジンバラ大学,1966年にそこから独立したヘリオット・ウォット工科大学,監督教会に属するセント・メアリー大聖堂,王立植物園,国立肖像画美術館,国立博物館などがある。また毎年夏にはエジンバラ国際音楽演劇祭が開かれる(1947創設)。産業の面ではビール,ウィスキーの醸造,印刷,製本,ゴム・ガラス器・菓子・薬品の製造が古い歴史を誇っている。最近は電気製品,電子工学の領域でも発展がみられる。外港リースLeithでは造船業,船舶修理業が盛んである。
エジンバラの歴史は,紀元前のピクト人の集落にまでさかのぼる。ローマ帝政期にはローマ軍がこの付近に駐在し,クラモンドに砦を築いた。ついで617年,ノーサンブリア王エドウィンが現在の城の場所に城塞を造り,これがエジンバラの地名の由来といわれる(Edwinesburg)。町が急速に発展したのは12世紀以降で,1128年デービッド1世がホリルード修道院を建て,1329年に町はロバート・ブルースから勅許状を与えられた。ジェームズ2世から4世の治世期(1437-1513)には特に伸展し,スコットランド王国の首都とみなされるようになった。1560年の宗教改革にはエジンバラが重要な役割を果たし,カトリック女王メアリーと宗教改革者J.ノックスの抗争は,ここを舞台にした。1603年ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し,宮廷をロンドンに移してから,その重要性は減ったが,17世紀半ばの政治的宗教的動乱に際しては国王反対派の拠点となった。1707年イングランドとスコットランドが合同し議会が廃止されたことは,この町の存立に大きな打撃を与えた。しかし1760年のジョージ3世の即位以降,エジンバラは再び活気を取り戻した。北側に新市街が建設され,またメドウズに接する南側への進展もみられた。学芸の中心となったのはこの時期以降である。のちにロンドンでジョージ3世の御用達肖像画家となるA.ラムゼー,弁護士図書館(現在の国立スコットランド図書館の前身)の司書として《イングランド史》を執筆した哲学者D.ヒューム,彼の友人でもあった経済学者A.スミスの名は,18世紀後半のエジンバラと深く結びついている。1768年には《ブリタニカ百科事典》の刊行が始まり,1802年にはホイッグ系の評論誌《エジンバラ・レビュー》が創刊された。また,作家W.スコット,R.L.スティーブンソンの故郷として,スコットランド文学の中心として有名であった。合同後もイングランドと異なる法体系を維持したスコットランドの中心都市として,19世紀のエジンバラの新市街には多くの法律家が居をかまえた。これに対し,産業革命の害悪をまぬがれたものの,中世以来の旧市街はしだいにスラム化した。スラム街の修復がなされ,観光の名所となるのは20世紀後半になってからである。第1次,第2次大戦後には新しい住宅区が周囲にひろがった。
執筆者:飯島 啓二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスを構成する連合王国の一つスコットランドの首都。スコットランド東部、北海に向かって開くフォース湾の南岸に位置する。西方約70キロメートルのグラスゴーに次ぐ同王国第二の都市で、人口44万8624(2001)。行政、学術、文化の中心都市。名称は、ゲール語の「エイデンの丘」を意味するダンエイディアンDuneideannに由来する。旧市街の西端にカッスル・ロックとよばれる城山があり、市街地を見下ろすようにエジンバラ城がそびえ立っている。これをアクロポリスに見立てて「北方のアテネ」と称される美しい古都である。北緯56度に近いが、海流や偏西風の影響で、気候は温和である。産業は観光が主であるが、出版・印刷、製紙、ウイスキー醸造などのほか、外港のリースLeithでは造船、機械、食料品などの工業が行われる。
ほぼ東西に走る旧市街は、西端のエジンバラ城から東端のホーリールードハウス宮殿までのロイヤル・マイルとよばれる通りが中心で、セント・ジャイルズ教会、旧議事堂、宗教改革者ジョン・ノックスの家、ホーリールード寺院などがある。同寺院は13世紀のイギリスの粋を集めたといわれる建築で、寺院の敷地の一部に、スコットランド女王メアリーの居城としてホーリールードハウス宮殿が建てられた。エジンバラ城内には1076年建立のセント・マーガレット礼拝堂がある。ロイヤル・マイルの北側にある谷を挟んで、新市街が北方に広がっている。新旧両市街を分ける谷にはエジンバラ(ウェーバリー)駅、W・スコット記念碑、ロイヤル・スコティッシュ・アカデミー、国立美術館、庭園などがある。新市街の大部分は、ジェームズ・クライブの設計による碁盤目状の市街で、1768年から1850年にかけて建設された。プリンシズ・ストリートPrinces Streetは新市街の南縁に沿う繁華街で、商店が多い。新市街にはジョージ王朝風の建築物も残っている。スコットランドの詩人バーンズは「エダイナよ、スコシアのこよなき都よ、ようこそ汝(なんじ)の宮殿よ、塔よ」とこの美しい都市をたたえている。毎年8月下旬から9月上旬にかけて、エジンバラ・フェスティバルが開かれ、音楽や演劇などが催される。なお、1995年に旧市街、新市街ともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[米田 巌]
この付近には先史時代の集落の跡があり、ローマ帝政期には、フォース湾岸の村クラモンドにローマ軍が砦(とりで)を築いたといわれる。しかしエジンバラの歴史が始まるのは、ゴドウディンというケルト系部族が現在のカッスル・ロックの上に城塞(じょうさい)をつくってからである。ついで7世紀前半にはノーサンブリアの支配下に入った。やがてスコットランド王マカルピンの子孫が、10世紀なかばにエジンバラを手中に収め、マルコム3世の王妃マーガレットはカッスル・ロックの上に礼拝堂を建てた。これが現存するエジンバラ最古の建物である。その子デイビッド1世は、1128年、ホーリールード寺院を建てた(1220年ごろ再建)。セント・ジャイルズ教会もほぼ同じ時期につくられた。スコットランドの封建的上長であると主張するイングランド諸王、とくにエドワード1世により、エジンバラはしばしば略取されたが、イングランドの支配から脱しようとする独立戦争の最中、1329年に、ロバート1世から特許状を与えられた。市は15世紀には大いに伸展し、スチュアート諸王はエジンバラをしだいに首都とみなすようになった。1560年のスコットランドの宗教改革はエジンバラを舞台に遂行され、1583年にはジェームズ6世の名を付した市立大学ができた(後のエジンバラ大学)。1603年ジェームズ6世がイングランド王を兼ねてロンドンへ移ったため、エジンバラには宮廷がなくなり、その地位は低下した。祈祷(きとう)書の強制に端を発するセント・ジャイルズ教会での暴動(1637)も、宮廷を失った市民のいらだちの一つの現れである。また、1640年代の政治的、宗教的革命に際しては、エジンバラが主導的役割を果たした。
18世紀に入り、エジンバラは新しい時代を迎えた。名誉革命後のウィリアム2世の無関心、パナマ地峡に植民地を建設しようとしたダリエン計画の失敗、1707年のイングランドとの連合は、ふたたびエジンバラ市民をいらだたせたが、彼らは文化面における北部の首都を目ざすようになった。「スコットランド啓蒙(けいもう)主義」は主としてエジンバラの所産である。1760年以降、市の拡張が行われ、北側にはプリンシズ街をはじめとする新市街がつくられた。詩人で小説家のW・スコットや、判事のコウバーンCockburn卿(きょう)などの活躍はこの時期のことである。産業革命は市に大きな変化はもたらさなかった。20世紀に入り、住宅区は郊外に広がり、かつてのエジンバラは急速に変貌(へんぼう)を遂げつつある。1947年にエジンバラ・フェスティバルが開始された。
[飯島啓二]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…イギリス(連合王国)の一地方で,グレート・ブリテン島の北部を占める地域。主都エジンバラ。ローマ時代にはケルト語で〈森林〉を意味する〈カレドニアCaledonia〉と呼ばれたが,アイルランドからのスコット人の移住にともない,11世紀には〈スコシアScotia〉の名称が与えられ,現在の地名の語源となった。…
※「エジンバラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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