コナント(英語表記)James Bryant Conant

改訂新版 世界大百科事典 「コナント」の意味・わかりやすい解説

コナント
James Bryant Conant
生没年:1893-1978

アメリカの化学者,教育者,外交官マサチューセッツ州生れ。ハーバード大学で化学を学ぶ。第1次大戦中の1917年から18年にかけてアメリカ陸軍で化学兵器関係の業務に従事。19年ハーバード大学の助教授,28年同教授となる。33年から53年までハーバード大学学長を務める。第2次大戦時に戦争準備のための科学動員を目的として設立された国防研究委員会の委員長を1941年から46年まで務め,科学研究開発局長V.ブッシュの協力者として戦時下の科学行政に大きな役割を果たした。とくに,原爆開発のためのマンハッタン計画においては,ブッシュ,H.L.スティムソン陸軍長官,G.C.マーシャル参謀総長,H.A.ウォーレス副大統領らとともに最高政策決定グループの一員であった。また戦後の46年から62年にかけて原子力委員会諮問委員会委員として原子力行政に携わった。また,53年から55年にかけて西ドイツ高等弁務官,55年から57年まで西ドイツ大使に任命されるなど外交官として活躍。その後,アメリカの科学教育の研究調査に従事し,この領域での著書が多い。

 コナントは多方面で多くの仕事をしたが,第2次大戦の戦中・戦後を通じて,アメリカにおける科学と国家・軍との緊密な結合の形成に決定的な役割を果たした科学行政官の頂点にたつ人物として知られる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

大学事典 「コナント」の解説

コナント
James Bryant

アメリカの化学者,外交官,教育者。ボストンに生まれ,1913年にハーヴァード大学を卒業,有機化学を専攻して1916年,同大学よりPh.D. の学位を取得した。1927年同大学教授。おもに有機化学の分野で業績をあげ,多くの後進を育てた。1933年から53年までハーヴァード大学学長(第23代)。大胆な大学改革を行い,とくに教員任用昇進では,各分野で世界一評価の高い教員しか終身の教授職を与えないという方針を貫き,今日の研究大学としてのハーヴァード大学の基礎を築いた。学生選抜では,全米各地から能力ある学生を受け入れる方針を採用,大学の近代化に貢献するとともに,TOFFLなど世界中で使われているテストを開発・実施しているETS(Educational Testing Service)の設立や,大学選抜の共通テストであるSAT(Scholastic Assessment Test)などの導入に中心的役割を果たした。学外では全米国防研究委員会(National Defense Research Committee)委員として,トルーマン大統領の日本への原爆投下の決定に関与した。1955~57年,ドイツ連邦共和国(西ドイツ)大使を務めた。
著者: 赤羽良一

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コナント」の意味・わかりやすい解説

コナント
Conant, James Bryant

[生]1893.3.26. マサチューセッツ,ドーチェスター
[没]1978.2.11. ハノーバー
アメリカの著名な化学者,教育家。ハーバード大学で博士号を取り,講師を経て有機化学の教授となり学識をうたわれた。 1933年,40歳で総長に就任。第2次世界大戦後西ドイツ駐在高等弁務官となり (1955) ,デモクラシー精神の擁護者として名声を博した。 57年に帰国後は教育の調査,研究や評論に活躍。特にハイスクールの改革を提唱したいわゆるコナント報告書は,現実に少なからぬ影響を与えている。主著『有機化合物の化学』 Chemistry of Organic Compounds (33) ,『子供,親,国』 The Child,the Parents and the State (60) ,『教育政策の形成』 Shaping Educational Policy (64) ,『わが人生の種々相』 My Several Lives (70) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コナント」の意味・わかりやすい解説

コナント
こなんと
Charles Arthur Conant
(1861―1915)

アメリカの銀行論ならびに国際金融論の学者、実務家、ジャーナリスト。コナントの業績は大別して三つある。第一は、『近代発券銀行史』A History of Modern Banks of Issue(1896)に代表されるように、アメリカにおいても中央銀行制度が採用されるべきことを主張したことである。この主張は、その後も各種委員会において繰り返し行われている。第二は、国際通貨制度の側面における功績である。コナントは1903年の国際為替(かわせ)委員会で、金・銀両本位国間の為替の調整を図ったのをはじめ、各種の国際委員会において広い範囲の問題提起を行った。第三は、メキシコ、ニカラグア、キューバ、フィリピンの通貨制度の改革に貢献したことである。

[原 司郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のコナントの言及

【ブッシュ】より

…38‐39年航空諮問委員会委員長として,軍用航空機の増強にとり組む。40年大統領令によって設立された兵器研究の援助・調整機構である国防研究委員会(NDRC)委員長となり,MIT学長K.T.コンプトン(1887‐1954,A.H.コンプトンの兄),ハーバード大学長J.B.コナント,ベル電話研究所会長ジューエットF.B.Jewett(1879‐1949)らとともに科学動員にとり組む。また41年に設立された科学研究開発局(OSRD)の長官となる。…

※「コナント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android