日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
コンスタンティヌスの定め
こんすたんてぃぬすのさだめ
Constitutum Constantini
コンスタンティヌス帝寄進状ともよばれる。ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝(在位306~337)が、らい病にかかったとき、ローマ司教シルベステル1世の施す洗礼によってそれが治癒(ちゆ)されたことを喜び感謝して、同皇帝がシルベステルおよびその後継者に対し、皇帝のラテラノ宮殿、ローマ市、全イタリアおよび西方の属州と都市とを譲渡した旨を記した偽書。作成の時期、場所、意図については諸説があって定まらない。
その一=ピピン3世は教皇ステファヌス2世の要請で756年ランゴバルド族が占領する教皇領を返還させるが、この教皇の領土要求を基礎づけるため教皇パウルス1世(在位757~767)の時代に教皇庁官房で作成された、とする。
その二=教皇レオ3世はローマ皇帝権を西方に取り戻そうとの計画に基づき、800年カールに戴冠(たいかん)を行い、その結果生まれたキリスト教世界における2人の皇帝の並存、いわゆる二重皇帝権を正当化するため、804年ローマで作成した、という。
その三=ルイ(ルードウィヒ)1世(敬虔(けいけん)王)の戴冠後820年代にフランスで成立。
その四=イタリアのフリウリ辺境伯の図書館でアナスタシウスが848~852年間に、将来教皇になったとき帝冠を授ける際の法的根拠をつくるため作成――など諸説続出である。
オットー3世の宮廷では、これが偽書であることは気づかれていたが、『偽(ぎ)イシドール教令集』第2部序章第2文書として収められてから真正なものとして流布し、教皇庁もまた教皇首位権を主張する根拠として11世紀以降これを利用する。しかし15世紀以降、古写本や文献学的研究への関心が高まり、まずニコラウス・クザーヌスによって、ついでロレンツォ・バッラによってその虚偽性が論証された。
[今野國雄]