日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンスタンティヌス」の意味・わかりやすい解説
コンスタンティヌス(大帝)
こんすたんてぃぬす
Flavius Valerius Constantinus Ⅰ
(274?―337)
ローマ皇帝(在位306~310副帝、310~337正帝)。初めてキリスト教を公認し、これに改宗した皇帝。
[松本宣郎 2017年11月17日]
正帝になるまで
ドナウ川下流ナイスス(現在のセルビアのニシュ)に生まれる。父はコンスタンティウス(1世)、母はヘレナHelena(?―330ころ)。少年時代は人質としてニコメディアのディオクレティアヌスの宮廷で過ごし、ペルシア遠征に参加して活躍した。305年父がローマ帝国西方正帝となるや、東方正帝ガレリウスの制止を振り切って父のもとへ逃れ、ブリタニアに渡り、ピクト人を破った。父はすぐに没し(306)、軍隊はコンスタンティヌスを正帝と宣したが、ガレリウスは彼を副帝位にとどめた。306年ローマでマクセンティウスMaxentius(在位306~312)が蜂起(ほうき)して帝位を僭称(せんしょう)し、退位していた父マクシミアヌスMaximianus(在位286~305、306~310)をも復位させた。トリエルを居所としていたコンスタンティヌスは、この父子からの呼びかけに応じ、マクシミアヌスの娘ファウスタFausta(289ころ―326)を妻とした。308年ガレリウスはリキニウスを正帝に抜擢(ばってき)し、コンスタンティヌスを依然として副帝のままとしたので、両者の関係はいっそう冷却し、コンスタンティヌスは310年自ら正帝と称するに至った。
[松本宣郎 2017年11月17日]
キリスト教公認
この間、彼はライン川国境に遠征してゲルマン人を討ち、さらに独自の行動をおこしてマッシリアを占領したマクシミアヌスを攻めて殺し、同じ年、宮廷詩人に自らの祖をクラウディウス・ゴティクス帝ととなえる頌詩(しょうし)をつくらせた。311年、ガレリウスが没し、帝国は内乱に陥る。コンスタンティヌスは、ローマに拠(よ)るマクセンティウスと対立、リキニウスと、東方のマクシミヌスMaximinus Daia(在位305~310副帝、310~313正帝)と連絡をとり、翌312年ローマに進軍してミルウィウス橋の戦いでマクセンティウスの全軍2000をテベレ川に追い落として全滅させた。ラクタンティウスLactantius(生没年不詳)やエウセビウスらキリスト教史家は、この戦いに際しコンスタンティヌスはキリスト教の神の加護を得、中空にキリストの頭文字からなる十字架の幻(あるいは)を見て勝利したと伝え、これが帝の改宗の動機となったと述べる。ローマに入城したコンスタンティヌスは第一正帝位を宣し、東方のマクシミヌスに、彼のみが続行していたキリスト教徒迫害を中止するよう勧告し、さらにリキニウスとミラノに会してキリスト教公認、宗教自由の原則を決した(ミラノ勅令)。313年、リキニウスが東方を平定してコンスタンティヌスと帝国を二分することとなったが、やがて両者は不和になり、リキニウスはキリスト教徒迫害を再開、ついに324年コンスタンティヌスはこれを破って処刑し、単独支配者となった。小アジアに至った彼は、人的・物的資源の中心はいまや西のローマよりも東方にあることを知り、古都ビザンティオンの傍らに新しくコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)を建設、330年にローマ宗教とキリスト教の二つの儀式によってこれを首都として奉献した。この都市には元老院を置き、市民には穀物を無料で供給するなど、ローマ市なみの格を与えたが、キリスト教会のみを建設させ、ローマの神々の神殿建設は許さなかった。こうして帝国の、ギリシア的東方、ラテン的西方への分離傾向と、コンスタンティノポリス教会とローマ教会との対抗関係とがしだいに明らかになっていった。
[松本宣郎 2017年11月17日]
専制体制
コンスタンティヌスは、行政面ではディオクレティアヌスを受け継いで、帝国再建に成功し、皇帝専制体制を確立した。軍事力をいっそう強め、野戦軍を皇帝直属とし、ゲルマン人兵士、将校を増やした。軍事、民政の区別はいっそう明確になり、かつての近衛(このえ)総督はその名称のまま行政、裁判職となった。皇帝官房をはじめ階層的官僚団が複雑になっていった。皇帝支持者は、元老院議員や高官に取り立てられ、最上層は枢密顧問会議を構成したが、彼らすら皇帝の面前では起立していなくてはならなかった。このように、帝国民は上から下まで身分的に固定され、皇帝への依存度を強めていった。都市も自治権を完全に失い、皇帝の派遣する官吏の支配を受けた。コンスタンティヌスは経済には放漫で、ソリドゥス金貨の安定には配慮したが、銀貨の質を落とさざるをえず、貨幣経済の不振から税の物納化が進んだ。財源確保のため国民各層への負担を強化し、国営仕事場も設けた。農業労働力確保のためにコロヌスの土地緊縛の措置をとった。対外的には総じて何事もなく、ゲルマン人の傭兵(ようへい)、農民としての平和的進出がみられる程度であった。
[松本宣郎 2017年11月17日]
宗教観
彼の宗教についてはいまなお論争が続いている。彼は早くより太陽神を信じ、唯一神崇拝への好意をもっていたようである。彼の父もキリスト教を敵視せず迫害も行わず、マクセンティウスは彼のローマ入城以前に迫害をやめ、教会を保護していたから、コンスタンティヌスも彼らの姿勢を踏襲し、かつ、たぶんキリスト教徒側近の説得もあってキリスト教への理解を深め、東方に多い教徒を慰撫(いぶ)することが帝国支配にとって不可欠であることを察知したものと思われる。「ミラノ勅令」の神の表現は、新プラトン主義的な至高の存在としての唯一神であって、完全にキリスト教の神と同一ではないが、コンスタンティヌスにおいてそれ以上のキリスト教理解、真の改宗が実現したか否かは疑問である。彼はローマ最高神官の職を保持し、伝統祭儀も変わらず行わせた。しかし、カエサリア司教エウセビウスらは、彼を神の地上の代理人と措定して教会発展の後ろ盾とし、キリスト教に帝権を支えるイデオロギーの役割を付して、この教義をもって皇帝に接近し、コンスタンティヌスもこれをいれて教徒を官職に抜擢し、教会と聖職者には保護を与え、数々の立法を行った。教会はまた自らの教義論争の決着をコンスタンティヌスにゆだねようとし、彼は325年にはニカイア公会議を招集してアリウス主義を排斥させたり、アフリカのドナティズム紛争の調停を試みたりした。このような関係は、後のビザンツの皇帝教皇主義の端緒ともなった。
[松本宣郎 2017年11月17日]
晩年
晩年のコンスタンティヌスは、一族間の不和に悩まされ、長子クリスプスCrispus Caesar(在位317~326副帝)と妻ファウスタを処刑し、後継者を決めることのできぬまま、337年5月22日に病没した。死の直前、アリウス派司教から洗礼を受けたと伝えられる。ローマ市には彼の凱旋(がいせん)門が現存し、カピトル博物館には頭部を含む彼の巨大な立像の断片がある。
[松本宣郎 2017年11月17日]
『秀村欣二著『コンスタンティヌス帝とキリスト教』(関根正雄他編『聖書とその周辺』所収・1959・伊藤節書房)』▽『弓削達「マクセンティウスとコンスタンティヌス」(『一橋論叢』28―4所収・1952・日本評論新社)』