教皇領(読み)キョウコウリョウ(その他表記)Papal States

デジタル大辞泉 「教皇領」の意味・読み・例文・類語

きょうこう‐りょう〔ケウクワウリヤウ〕【教皇領】

ローマ教皇が世俗的支配権をもって統治する領域。中世を通じて変遷を遂げ、ナポレオンによりいったん廃絶、のち復活。1929年、ラテラノ条約によりバチカン市国となる。法王領

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精選版 日本国語大辞典 「教皇領」の意味・読み・例文・類語

きょうこう‐りょうケウクヮウリャウ【教皇領】

  1. 〘 名詞 〙 ローマ教皇が聖ペテロの遺産として領有する領土。一八六〇年以前はローマを中心に中部イタリアに約四万七千平方キロメートルあったが、イタリアの統一にあたって次々と縮小。一九二九年ラテラン協定により、ローマ市内のバチカン宮殿周辺に限定された。

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改訂新版 世界大百科事典 「教皇領」の意味・わかりやすい解説

教皇領 (きょうこうりょう)
Papal States

ローマ教皇の世俗的所領としてその主権下にある領土をいい,現在のバチカン市国にいたるまで一種の独立国家を形成した。その起源は5~6世紀の教皇たちがローマおよびその周辺の自領をサン・ピエトロ大聖堂に寄進したことに始まる。ユスティニアヌス帝のゴート戦役によってイタリアに対するビザンティン帝国の直接支配が回復された後のローマ教皇は,行政区ローマ・ドゥカトゥスの長として皇帝に対し統治上の責任を負っていたが,教会寄進地は皇帝特権によって租税を免じられた。568年から始まったランゴバルド族のイタリア侵入をラベンナのビザンティン総督は排除する力がなかったので,教皇グレゴリウス1世は,590年にローマ市の城壁にサン・ピエトロの印を付して主権者の所在を示すよう命じたというが,7世紀にはローマ・ドゥカトゥスがビザンティン政府の手を離れ,その統治権限が教皇職に受け継がれた結果,教皇はラティウム地方の主権的所有者となった。しかしこれらの領土は全イタリアの支配を目ざすランゴバルド族によって絶えず脅かされていたし,ラベンナ総督領も751年には彼らに占領された。この年教皇はピピン3世クーデタを正当化してフランク王権に接近し,ピピンはパトリキウス・ロマノルムの称号を,ローマはいわゆる〈ピピンの寄進〉をえて領土を保全する。教皇領の確実な基礎はこのとき築かれた(756)。この寄進領はカール大帝による774年のランゴバルド族滅亡によって拡大され,トスカナ南部のビテルボ,オルビエト,ソアナと海港都市グロセット,ピオンビノそれにベネベント公領境の町々も教皇領に加えられた。カールのこの寄進領は,962年神聖ローマ皇帝オットー1世の有名な〈オットーの特許状〉によって再確認された。しかしこの特許状は皇帝の上級支配権が教皇領全体に及ぶとうたっており,また皇帝のイタリア政策と10世紀以降の封建化の進行するなかで,教皇領はイタリア貴族たちに蚕食された。

 神聖ローマ帝国のイタリア支配がフリードリヒ2世の死(1250)によって弱体化した後に教皇庁ゲルフ党指導者たちの忠誠をうることによってラベンナ,ボローニャ地方を再び掌握することができたが,1309年のアビニョン移転により,教皇領はイタリアの中小貴族たちの独立の餌食となった。一方アビニョンの地は1348年8万フローリンで買い取られ,教皇庁のローマ帰還後も教皇領として残った。貴族たちに占拠された教皇領は,インノケンティウス6世が1353年教皇領総代理に任命したスペイン人枢機卿アルボルノスによってほとんど回復された。

 ルネサンス期の教皇たちが教皇領の保全と拡張に熱心であったことはよく知られているが,19世紀以後教皇領の運命は大きく変わる。1808年フランスに併合された教皇領は,枢機卿コンサルビErcole Consalvi(1757-1824)の精力的な活動により23年までにほとんど復旧したが,半世紀後イタリアのリソルジメント運動で今度はイタリア王国に併合される。現在のバチカン市国が誕生したのは1929年のことである。
教会領
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「教皇領」の意味・わかりやすい解説

教皇領
きょうこうりょう
Stato pontificio

ローマ教皇が主権者として支配する国土。ペテロの遺産と呼ばれるローマ教会所有地を起源とし,754年フランク王ピピン (小ピピン) がラベンナ総督府を寄進し,これらが基礎となった。 11世紀に偽イシドール文書中のコンスタンチヌスの寄進状に基づいて領土の拡大をはかり,トスカナ南部,カンパーニャ,ウンブリアを獲得した。さらに 13世紀末までにマルケ,ロマーニャ地方も支配下に入れて広大な領域とした。しかし 14世紀の教皇のアビニョン移住と諸侯の覇権争いは教皇領の統一性を著しく弱めることになった。 16世紀以来教皇のもとで中央集権化の試みが徐々に進行したが,18世紀末フランス軍の占領を背景に一時チザルピーナ共和国ローマ共和国に編成された。ウィーン会議によって教皇領が再建されたあと,1831年にロマーニャ地方で革命が起り,さらに 49年に再びローマ共和国が成立したが短命に終った。しかしイタリア統一運動が進むなかで,60年ロマーニャ,マルケ,ウンブリアが住民投票でサルジニア王国への合併を決め,教皇領の大部分はイタリア王国に吸収された。 70年ローマもイタリア王国に併合されて,教皇領はバチカン界隈だけとなり,教皇とイタリア国家の対立が始ったが,1929年ファシズム政権と結んだラテラノ条約により教皇が主権を持つバチカン市国の成立が認められて,現在にいたっている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「教皇領」の解説

教皇領(きょうこうりょう)

ローマ教皇を主権者とする国土。起源は5~7世紀にローマ教会の支配地となった「聖ペテロの遺産」(ローマ市を中心とするイタリア西岸)に発し,756年フランクピピン(小)が「五都地方」(アンコナなどの東海岸)を加えてピピンの寄進を教皇領とした。グレゴリウス7世のときトスカーナの一部を,インノケンティウス3世のときロマーニャ地方(五都地方の北)を得,最大版図に達した。フランス革命ナポレオン時代に壊滅的打撃を受け,さらにイタリア統一運動とムッソリーニ時代に大部分の領土を失い,現代のヴァチカン市国のみとなった。

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百科事典マイペディア 「教皇領」の意味・わかりやすい解説

教皇領【きょうこうりょう】

ローマ教皇の主権下にある領土をいい,英語でPopal States。古代からたび重なる寄進その他によって拡大,最盛期には中部イタリアの大部分を領有したが,フランス,イタリアなどによる併合を経て,1929年,固有の教皇領としてのバチカン市国が成立した。
→関連項目ピピン[3世]メッツォジョルノラチオ[州]

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旺文社世界史事典 三訂版 「教皇領」の解説

教皇領
きょうこうりょう
church state

ローマ教皇が世俗君主と同じような支配権をもった領土
最盛期にはイタリア中部の広大な領域を占めた。8世紀ピピンがラヴェンナなどを寄進したことをはじめとして,中世において教皇が世俗君主に対して優位に立つ経済的基礎となった。ナポレオン戦争からイタリアの統一の時期にかけて漸次縮小され,イタリア王国との間に対立が続いたが,ムッソリーニとの間に結ばれたラテラン条約(1929)によって,ヴァチカン市だけの支配が認められた。

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世界大百科事典(旧版)内の教皇領の言及

【イタリア】より

…この結合は,カロリング朝断絶後弱まったが10世紀のオットー1世以降ふたたび強化された。カロリング家のピピンによって半島の旧ビザンティン領がローマ教皇に寄進され,教皇領の基礎がつくられたことも重要である。西ヨーロッパ全域に影響力を持つ宗教的権威が世俗的領域的な権力として半島内に存在することは,その後の歴史に大きな影響を及ぼした。…

【ラチオ[州]】より

…8世紀に入るとビザンティンの力が衰え,ローマを中心とするローマ公領は教皇の影響下に置かれた。756年,小ピピンが旧ビザンティン領を教皇に寄進し,教皇領の基礎がつくられた。9,10世紀はイスラム教徒とマジャール人がイタリアへ侵入し,ラチオにも及んだ。…

※「教皇領」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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