本来は11世紀にフランス,ブルゴーニュ地方の封建領主であったウンベルト1世白手公に始まる家系である。その後,征服と婚姻政策によって,フランス南東部からイタリア北西部(サボア,バレ・ダオスタ,ピエモンテ)にわたる大領土を獲得し,15世紀にはサボイアSavoia公国を形成し,16世紀半ばにはエマヌエレ・フィリベルトにより絶対君主制が確立される。このように起源的にフランスの影響を強くうけたサボイア公国も,16世紀中にはピエモンテ中心のイタリア国家の性格を強める。そして17世紀,イタリアはフランス,オーストリア,スペインの勢力争いの場となるが,サボイア公国はそうした対立を利用して,徐々にフランスに対する独立性を獲得していった。
スペイン継承戦争(1702-13)に参加したサボイア公国は,はじめフランス側,のちに反仏同盟側へと巧みに戦争を乗り切り,ユトレヒトの和約(1713)でシチリア島を獲得,王国となる。シチリア島は1720年のハーグの和約でサルデーニャ島と交換され,ここにサルデーニャ王国Regno di Sardegnaが誕生する。ビットリオ・アメデオ2世に始まる18世紀の3代の王たちは封建的諸特権,教会特権を制限し,より中央集権的な政治機構を整備するとともに,軍事力の強化に努めた。ここに,19世紀にいたってサルデーニャ王国がイタリア統一の核となる源が存在する。
1796年から1814年までのフランスによるピエモンテ支配は,封建的遺制のほぼ完全な廃止など,社会的・経済的発展の基礎をつくった。国王ビットリオ・エマヌエレ1世(在位1802-21)とその後のカルロ・フェリーチェ(在位1821-31)は復古体制下で猛烈な反動政策をとるが,ピエモンテの近代化は徐々に進む。その後を襲ったカルロ・アルベルト(在位1831-49)は経済的自由化を推進し,彼の下でサルデーニャ王国は1848-49年のオーストリアとのイタリア解放戦争を戦い,敗北する。49年即位したビットリオ・エマヌエレ2世は有能な宰相カブールを起用して,サルデーニャ王国の急速な経済発展,軍事力の立て直し,外交的立場の強化に成功する。59年にはフランスと連合してオーストリアを破り,ロンバルディアを併合。60年にはトスカナなどの中部イタリア,ガリバルディの千人隊遠征によって確保された南イタリアを併合してイタリア王国Regno d'Italiaが成立する。
統一イタリアでの王家の政治的な重要性はしだいに低下していくが,憲法上の強力な立場は残される。このことは政治的な転換期での国王の関与をもたらす。つまり,ファシズムの政権確立や,その後の政策の展開を国王は支持する立場に立つ。そのために,第2次大戦後,1946年に行われた政体決定の国民投票で王制支持は46%しか獲得できず,王家としてのサボイア家はウンベルト2世で終りを告げることになる。
執筆者:柴野 均
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
第二次世界大戦直後までイタリアに君臨した王家。11世紀に、ブルゴーニュ公国の有力な家臣の一人であるウンベルト1世(「白い手」と称される)を始祖としてアルプス地方のサボア(サボイアSavoia)におこり、神聖ローマ皇帝コンラート2世からモリエンヌの伯爵領を授与された。13世紀から15世紀にかけてピエモンテ地方に領土を広げ、1416年に公国となるが、概して18世紀初頭まで国土はアルプス地方のフランスとスイス方面に偏っていた。15世紀なかば以降フランスとオーストリアとの対立、抗争の間にあって、しばしば小国の悲運を味わったが、ルイ14世の時代になると列国の勢力均衡を利用しつつ地歩を拡大し、スペイン継承戦争(1701~14)の結果、シチリアなどの領土を獲得し、かつ王号を得た(1713)。しかし1720年シチリアと交換にサルデーニャを得てサルデーニャ王と称した。フランス革命後ナポレオン体制下で本土の領土をすべて失ったが、ウィーン体制とともに旧領を回復し、さらにジェノバを併合したサルデーニャ王国はイタリア第一の雄邦となり、ビットリオ・エマヌエレ2世は1861年イタリアの統一(リソルジメント)を実現した。しかし第二次大戦後の1946年、国民投票により共和制が誕生すると、同家は廃絶となった。
[重岡保郎]
…このため,都市支配をめぐってジュネーブ伯と司教は長期にわたって争い続けたが,1124年,ビエンヌ大司教の調停によって司教が都市領主として正式に君臨することになった。 13世紀後半以降になるとサボイア家がジュネーブに支配の足場を築き始め,今度はサボイア家と都市君主たる司教および在地貴族の闘争が展開された。この闘争の間隙をぬって市民もしだいに自治体制を築いていった。…
… ローマの軍事植民市アウグスタ・タウリノルムAugusta Taurinorumとして建設され,6世紀にランゴバルドの公領,8世紀にフランクの伯領となる。9世紀以降領有をめぐって抗争が続き,1131年にサボイア家がトリノ伯を名のったが,すぐに追放され,36年神聖ローマ皇帝の保護のもとに自治都市(コムーネ)となった。この後1世紀以上に及ぶサボイア家との抗争が繰り返され,1280年最終的に同家の領有に帰した。…
※「サボイア家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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