サボイア家(読み)サボイアけ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サボイア家」の意味・わかりやすい解説

サボイア家
サボイアけ
Savoia

北イタリアの名門家系。初めサボイア伯,次いでサルジニア王,さらにイタリア王となった。 11世紀に神聖ローマ皇帝コンラート2世からサボイア伯に任じられたウンベルト・ビアンカマーノ (?~1048頃) が始祖で,その後しだいにピエモンテに勢力を拡大した。アメデオ8世 (1383~1451) のときピエモンテの支配権を確固たるものとし,1416年サボイア公の称号を得た。 15世紀末から 16世紀前半のイタリア戦争のなかで多くの領土を失ったが,エマヌエレ・フィリベルト (1528~80) がカトー=カンブレジの和約でそれらを回復,その子カルロ・エマヌエレ1世 (1562~1630) のとき新たにサルッツォを獲得した。スペイン継承戦争後のユトレヒト条約 (1713) でビットリオ・アメデオ2世 (1666~1732) はシチリアを入手,1717年シチリア王となったが,1720年それをサルジニア王位と交換してサルジニア王国を建設した。フランス革命に続くナポレオン支配期にはピエモンテを失ってサルジニア島を領有するだけとなったが,ウィーン会議で旧領を復活したばかりか,新たにリグリアを領土に加えた。 1821年のピエモンテ革命ビットリオ・エマヌエレ1世 (1759~1824) が退位し,弟のカルロ・フェリチェ (1765~1831) が王位を継いだが,この兄弟には嗣子がなかったため,1831年傍系のカリニャノ公カルロ・アルベルト (1798~1849) が即位。その子ビットリオ・エマヌエレ2世 (1820~78) はイタリアの国家統一に重要な役割を演じ,1861年イタリア王国の成立とともに初代国王に即位した。暗殺された2代目国王ウンベルト1世 (1844~1900) のあと,ビットリオ・エマヌエレ3世 (1869~1947) が即位。彼はファシズム政権の成立を許して,エチオピア侵略後みずからエチオピア皇帝を僭称したが,のちにファシズムとの連帯責任を厳しく追及されて君主制存廃を問う国民投票にかけられることになった。投票日直前の 1946年5月王位を息子のウンベルト2世 (1904~83) に譲って引退を表明したが,投票の結果は君主制廃止が多数を占めてサボイア家のイタリア支配は終わった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サボイア家」の意味・わかりやすい解説

サボイア家
さぼいあけ

第二次世界大戦直後までイタリアに君臨した王家。11世紀に、ブルゴーニュ公国の有力な家臣の一人であるウンベルト1世(「白い手」と称される)を始祖としてアルプス地方のサボア(サボイアSavoia)におこり、神聖ローマ皇帝コンラート2世からモリエンヌの伯爵領を授与された。13世紀から15世紀にかけてピエモンテ地方に領土を広げ、1416年に公国となるが、概して18世紀初頭まで国土はアルプス地方のフランスとスイス方面に偏っていた。15世紀なかば以降フランスとオーストリアとの対立、抗争の間にあって、しばしば小国の悲運を味わったが、ルイ14世の時代になると列国の勢力均衡を利用しつつ地歩を拡大し、スペイン継承戦争(1701~14)の結果、シチリアなどの領土を獲得し、かつ王号を得た(1713)。しかし1720年シチリアと交換にサルデーニャを得てサルデーニャ王と称した。フランス革命後ナポレオン体制下で本土の領土をすべて失ったが、ウィーン体制とともに旧領を回復し、さらにジェノバを併合したサルデーニャ王国はイタリア第一の雄邦となり、ビットリオ・エマヌエレ2世は1861年イタリアの統一(リソルジメント)を実現した。しかし第二次大戦後の1946年、国民投票により共和制が誕生すると、同家は廃絶となった。

[重岡保郎]


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