シチリア島(読み)しちりあとう(英語表記)Sicilia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「シチリア島」の意味・わかりやすい解説

シチリア島
しちりあとう
Sicilia

イタリア半島の南、地中海のほぼ中央に位置する島。英語ではシシリー島Sicilyという。面積は2万5460平方キロメートルで、地中海最大の島である。周辺に浮かぶ島々を含めてシチリア自治州を構成する。トラパニパレルモメッシーナアグリジェントカルタニセッタエンナカターニアラグーザシラクーザの九つの県からなり、州都はパレルモ。州の面積は2万5708平方キロメートルで、イタリアの州のなかではもっとも広い。人口486万6202(2001国勢調査速報値)。東のファーロ岬、南のイゾラ・デッレ・コッレンティ岬、西のリリベオ岬を頂点とする三角形の島で、イタリア半島のカラブリアとは幅3キロメートルのメッシーナ海峡によって、アフリカ大陸とは幅140キロメートルのシチリア海峡によって隔てられる。島の北部には、アペニン山脈から連なるペロリターニ、ネブロディ、マドニーエの三つの山脈が東西に走り、中央部にはエレイ山地、南部にはイブレイ山地、そして東部には島内最高峰であるヨーロッパ最大の活火山エトナ火山(3323メートル)がある。平野は少なく、島内最大のカターニア平野を除けば、パレルモやジェラなどの周辺に小規模な海岸平野があるにすぎない。

 シチリアは、第二次世界大戦後に至るまでは、粗放的な穀作と放羊を主軸とするラティフンディウムとよばれる大土地所有制の存在によって基本的に特徴づけられる伝統的社会であった。しかし1950年代以降、社会・経済の領域で大きな変化がもたらされることになったのである。まず第一に、1951~71年には、北部のロンバルディアピエモンテ、あるいはドイツなどに向けて、純流出100万人といわれる大量の出稼ぎや移民を生み出した。さらに、そうした島外への流出と並行して、島の内部においても農村から都市への著しい人口移動が現出した。第二に、その結果、農村における労働力は著しく減少し、伝統的なラティフンディウムが解体過程に入った。しかも、それにかわる新しい経営様式への再編は困難を極めた。それゆえ、とくに条件の劣悪な内陸部では、年金と移民による送金とによって生計の大部分が支えられるという現象がおこった。第三に、内陸部の停滞とは逆に、全体の20~25%を占める、海岸平野を中心とした集約的農業地帯では、柑橘(かんきつ)類(レモンは全国生産の約90%、オレンジは約60%)、アーモンド(約50%)、ワイン(15%)などの生産が以前にも増して発達した。第四に、エンナとカルタニセッタの高原地帯で行われてきたシチリアを代表する鉱産物たる硫黄(いおう)の採掘が、1950~60年代において徐々に放棄されていった。第五に、ラグーザ(1953)とジェラ(1956)での石油の発見とイタリア政府による南部開発政策を契機として、アウグスタ、シラクーザ、ラグーザ、ジェラを中心として、地中海最大ともいわれる精油・石油化学の一大工業センターが形成された。なお、パレルモを中心とするシチリア西部はマフィアの故郷である。

[堺 憲一]

歴史

古くはシクリ人やシカニ人が居住した。紀元前8世紀ごろからフェニキア人およびギリシア人による植民活動が始まり、前者によりパレルモ、後者によってシラクーザ、メッシーナ、カターニア、ジェラ、アグリジェントなどの町が建設される。なかでもシラクーザは、マグナ・グラエキア(大ギリシアの意。南イタリアのギリシア植民市群)を形成する植民市のなかで最強の地位を誇った。前264年メッシーナで起こった紛争に端を発して、ローマとカルタゴの間で第一次ポエニ戦争が引き起こされた。その結果シチリアは最初の属州(プロウィンキア)としてローマに併合。奴隷を利用した大規模な穀作経営を行うラティフンディウムが発達し、ローマの穀倉としての役割を果たした。その後、紀元535年に将軍ベリサリオスによって征服され、ビザンティン帝国領となり、663~668年、短期間ではあるがシラクーザに首都が移された。9世紀初めごろマルサーラに上陸したアラブ人は、831年のパレルモ占領を皮切りに、徐々に全島を制圧、シチリアのイスラム化が進む。ところが、1061年になると、アルタビッラ(オートビル)家のロベルト・グイスカルドとルッジェーロによるシチリア征服が開始される。1130年にはルッジェーロ2世のもとで、イタリア半島南部を含めたシチリア王国が成立し、今度はノルマン人による統治が始まる。かくしてシチリアにも封建制度が導入されることになったのである。

 1197~1250年、神聖ローマ帝国の皇帝(在位1215~50)を兼ねたホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世の支配下に置かれ、パレルモは国際的な文化・経済の中心地として大いに繁栄する。彼の死後1266年、ルイ8世の子であるシャルル・ダンジューがシチリア王になったが、1282年「シチリアの晩鐘」とよばれる島民の大暴動によって島を追われた。その後1世紀に及ぶ内乱の時代を経て、1442年スペインのアラゴン王国に併合、18世紀初めに至るまでのスペインによる統治時代の幕開きとなる。1712~18年のサボイア家、1718~34年のハプスブルク家の支配を経験したのち、スペインのブルボン家の手中に入る。1816年、シチリア王国はナポリ王国と合併して両シチリア王国が成立するが、1860年にマルサーラに上陸したガリバルディの率いる千人隊によって、同王国は征服され、新生のイタリア王国に併合された。しかし、国家統一後、近代的大工業の発達がおもに北部イタリアで達成されたのに対して、シチリアやサルデーニャを含む南部は長らく貧困地帯のまま放置されることになる。

[堺 憲一]

『竹山博英著『シチリア 神々とマフィアの島』(1985・朝日選書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シチリア島」の意味・わかりやすい解説

シチリア島
シチリアとう
Sicilia

地中海最大の島。付近の小島とともにイタリアの 1州を形成。州都パレルモ。北東端はメッシナ海峡を隔てて本土南端に接する。全島が山がちで,最高点は東部のエトナ山(約3320m)。古くからインド=ヨーロッパ語族系のシクリ人などが住んでいたが,フェニキア,ギリシア,カルタゴ,ローマ,東ゴート,サラセン,ノルマン,フランスのアンジュー家,アラゴン,スペインなどに次々に支配され,1861年イタリア王国の一部となった。主要都市はいずれも古代ギリシア,ノルマンなどの遺跡をもつ。地中海性気候で,夏にサハラ砂漠から熱風(シロッコ)が吹くと気温は 40℃にも達することがある。ヒツジの放牧,ムギ類の栽培を行なうが,降水量が少なく,穀物や牧草の生育は悪い。オリーブ,オレンジ,レモン,ブドウなどはかなり広く栽培され,オリーブ油,ワインが製造される。シチリアは南部イタリアの近代化立ち遅れの影響を最も大きく被り,大土地所有制が残存,国外移住者も多い。かつて農村に浸透したマフィアは都市を舞台にして活動を続けている。エトナ山からは硫黄を産し,南東部では石油が発見され,石油化学工業が盛んになった。海岸にはマグロ・イワシ漁などの根拠地がある。面積 2万5460km2。人口 501万6861(2007推計)。

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