地中海最大の島。英語ではシシリーSicily島という。古代より多くの民族がいれかわり支配したが,1861年イタリアに帰属し,現在に至る。この間1946年に特別自治州となり,大幅な自治権を認められた。周辺の小島をあわせた面積2万5708km2,人口502万(2006)。州都はパレルモ。気候は夏に乾燥・高温となり,短い冬に降雨のある典型的な地中海式気候。島の北東部にヨーロッパ最大の活火山であるエトナ山(標高3323m)があり,最近では1983年に大噴火をみせた。
ブルボン朝の両シチリア王国のもとにあったシチリアは,1860年ガリバルディらの遠征隊に征服された。これに対して,サルデーニャ王国のカブールはシチリアをサルデーニャ王国に併合することを策した。シチリアではかねてより自治主義への強い動きがあったが,統一イタリアのもとでの自治の保障を期待して,同年10月の住民投票でサルデーニャ王国との合併を決めた。61年3月サルデーニャ王国はイタリア王国となり,それに伴ってシチリアもイタリア王国に編成されたが,新国家のもとでの自治の要求はいれられず,中央集権的性格の行政制度が導入された。島内はパレルモ,カターニア,メッシナ,シラクサ,トラパニ,ジルジェンティ(現,アグリジェント),カルタニセッタの7県(のちラグーザとエンナが加わって9県)に行政区分され,広範囲の権限をもって中央政府から派遣される県知事の支配下におかれた。また徴兵制の導入は,かつてこの制度を経験しなかった島民の反発を買い,徴兵を逃れた青年が匪賊化する現象を生んだ。そして,新国家に対する不満は1866年のパレルモの反乱を招いた。
シチリアの社会構造は大きく内陸部と沿岸地帯の二つに分けて考えられ,内陸部ではラティフォンドとよばれる大土地所有が支配的で,穀作と牧羊を主とする粗放農業が営まれた。内陸部の1村ごとの面積規模は大きく,北イタリアの数ヵ村分に相当したが,居住地は小高い丘の上の1ヵ所に集中しており,教会,役場,広場,商店,豪壮な屋敷と並んで農民の家屋もそこに密集して建てられた。大地主の貴族は通常パレルモか半島部の大都市に住んでいて,土地は大借地人(ガベロッティ)が管理を請け負い,日雇農を使って直接に経営するか,あるいは土地を分割して農民にまた貸しした。国家統一のころには,村内の支配権は貴族から農村ブルジョアジーたる大借地人層の手に移っていた。農民の耕作地はたいていの場合居住集落から遠く離れているので,朝早く家を出て夜遅くに戻る生活が繰り返された。居住集落は1村ごとの孤立した存在で,集落相互の交渉や上級都市との結びつきをもたず,この点居住家屋が農地の近くにあり,また近隣の地方都市との結びつきの強い北イタリアの農村のあり方と大きく相違していた。
大借地人層は土地の管理とともに道路や水利の管理を行い,さらには広い村域の治安の維持を通して村内の生活を統制した。彼らはまた外界との交渉を独占する位置をも占めていた。大借地人たちは,こうして得たみずからの権威に基づいて,そして必要な場合には直接的な暴力の行使によって社会生活の規範をつくりだし,地域社会の支配権を確立した。このような環境のもとでの社会生活には血縁関係が重要な役割を果たし,また名誉や復讐の観念が重んじられた。イタリア統一の前後からシチリアにマフィアとよばれる現象が出現するが,それはこうした社会環境と密接なつながりをもつものであった。
一方,沿岸部は中小農による集約農業が特徴で,内陸部に比べて生産性が高く,ブドウ,かんきつ類,オリーブ,アーモンドなどの樹木栽培が行われた。パレルモ近郊の果樹・野菜栽培はその代表的なもので,この地は黄金の盆地(コンカ・ドーロ)とよばれた。沿岸地帯で産出されるオレンジ,レモン,ブドウ酒,オリーブ油は内陸部で採掘される硫黄と並んでシチリアの重要な輸出品であった。しかし,シチリアの経済状態は,北イタリアの産業を優先する政府の財政政策,貿易政策によって強い影響をうけた。1887年,政府が高関税を導入して保護主義を採用した結果,フランスとの通商戦争が生じ,そのあおりをうけて輸出市場を失ったシチリアの経済は大きな打撃を被った。
こうした状況のもとで,都市と農村を問わず全島的な規模で民衆の間にシチリア・ファッシの運動が生じた。だがこの運動は,1894年戒厳令を発したクリスピ首相によって厳しく弾圧された。ちなみにクリスピはシチリア出身の初めての首相で,シチリア出身の政治家では,ほかにディ・ルディニとオルランドが首相となっている。シチリア・ファッシの運動が弾圧されたあと,大西洋を越えてアメリカに移民する者の数が急増し,95年から第1次大戦の始まった1914年までの20年間にシチリアからの移民者はおよそ120万に達した。この移民とともにマフィア現象もアメリカに伝わった。この間,シチリア経済の再生のために,有力企業家のフロリア家が造船業や硫黄会社の経営に取り組み,また農村における協同組合,共同借地,農村金庫設立などの改良運動に支援を与えたが,実らずに終わった。
第1次大戦後,北イタリアでファシズム運動が台頭し,政権を掌握したが,シチリアではこの運動は遅れて広まった。ファシズム政権のもとでもシチリアの伝統的な社会構造はあまり変わらなかったが,この政権はマフィアの存在を嫌って抑圧した。とくにパレルモ県知事として派遣されたモーリはマフィア弾圧で名をはせた。第2次大戦中,枢軸国に対して反撃を開始した連合軍は,ヨーロッパ進攻の最初の上陸地としてシチリアを選び,1943年7月上陸作戦を成功させてこの島を占領した。アメリカ軍はこの上陸作戦にシチリア移民の兵士を多く参加させるとともに,シチリアとアメリカのマフィア・ルートを利用して,ファシズムのもとで抑圧されていたマフィアの復活を許した。一方,フィノッキアーロ・アプリーレをリーダーとする団体〈シチリア独立運動〉は,この機会にシチリアの独立を達成しようと,軍事組織の〈シチリア独立義勇隊〉をつくって運動を進めたが,実現にはいたらなかった。
独立とは別に,シチリアの自治を要求する声は島民の間に根強く,44年連合軍から施政権を返還されたあと,政府はシチリア委員会の設置に踏み切り,46年に大幅な自治を盛りこんだシチリア特別州憲章の制定をみた。47年最初の州議会選挙が実施され,キリスト教民主党を中心とする州政府が成立した。50年に州議会は大土地所有を制限する土地改革法を制定し,原則として200haを超すラティフォンドの収用を決めた。土地改革は種々の障害を伴ったが,この改革により旧来の社会構造にも変化のきざしが現れ,水利,道路,集落などの整備を通じて生活環境に少しずつ改善の手が加えられた。戦後,ラグーザとジェーラの両地方で油田が発見され,古都ジェーラ(ゲラ)に石油化学コンビナートが建設されるなど工業化の試みが興り,また東海岸のアウグスタがイタリア有数の貿易港に急成長したりしたが,工業化の動きは部分的なものにとどまった。50年代後半から再び大量の移民の流れが生じ,今回はアメリカでなく北イタリアの工業地帯へと向かった。戦後のさまざまな改革にもかかわらず,シチリアの経済生活はなお困難な面をもち,また日常生活における伝統的な社会慣行も多く維持されている。とくにマフィアは農村的なものから都市的なものへと性格を変えながら,依然シチリアの社会生活に強い影響を及ぼしており,政府や司法当局の反マフィア対策も効果をあげえないでいる。
シチリアにはギリシア,アラブ,ノルマンなどの諸民族にゆかりの遺跡,建築物,美術品が多く残っており,自然の景観も変化に富んでいる。島民の日常生活と結びついた豊かな民俗文化については,《シチリア民間伝承叢書》25巻(1870-1913)を著したG.ピトレをはじめ,彼と同時代のサロモーネ・マリーノSalvatore Salomone Marino(1847-1916),さらにコッキアーラGiuseppe Cocchiara(1904-65)らすぐれた民俗学者の手によって収集・研究され,パレルモのピトレ民俗博物館に収められている。
→シチリア王国
執筆者:北原 敦
18世紀までのイタリア文学は韻文作品が主流を占め,ダンテ,ペトラルカ以来,ロマン主義の小説家マンゾーニに至るまで,トスカナ地方の文章語を母体とする詩的伝統が重んじられてきた。シチリア島では1250年前後にホーエンシュタウフェン家の宮廷に栄えた〈シチリア派〉以後,文学史上はまったくの沈黙のうちにリソルジメント(国家統一)期を迎えた。G.ベルガ(1840-1922)は東海岸のカターニア市に生まれ,シチリア島がイタリア王国に組み込まれてゆく過程のなかで,統一国家から何の恩恵も受けず,従来と同じく弾圧され苦しみつづける民衆の姿を描いて,イタリアの文学的伝統を一挙に革新した。シチリア島の日常会話語を母体とするベルガの詩的散文は,長・短編小説群となって結実し,同じくカターニア市出身の評論家L.カプアーナによって〈ベリズモ(真実主義)〉と規定され,イタリア各地とくに南部諸地域に,リアリズム文学を勃興させ,地方主義文学と呼ばれるにいたった。デ・ロベルトFederico De Roberto(1861-1926)やL.ピランデロの長・短編小説も,また遅れて長編《山猫》一作を書き残したランペドゥーサGiuseppe Tomasi di Lampedusa(1896-1957)も,〈ベリズモ〉の周縁に位置している。
20世紀前半のイタリア文学は,一気に近代化をはかろうとして,〈未来派〉や〈魔法のリアリズム〉などいわゆるモダニズムの運動が顕著で,これらの文学運動はファシズムに同化していった。この傾向に批判的な立場をとった最初のシチリア出身者の一人がG.A.ボルジェーゼであり,さらに強固な反ファシズムの文学者が《ソラーリア》誌に拠ったE.ビットリーニとS.クアジモドである。クアジモドは,シチリア島が古代ギリシアの植民市であったころからの詩的伝統を復活させ,同時に古来,アラブ,ノルマン,スペイン,フランスなど,外国勢力の圧政下に苦しんできたシチリア民衆の感情をこめて,ファシズムに激しく抵抗する抒情詩をうたいあげた。一方,ビットリーニは,ファシズム政権下に苦しむ民衆の姿を《シチリアでの会話》(1941)に描いて,パベーゼと並び〈ネオレアリズモ〉文学の立役者となった。そして現代イタリア文学の背骨をなすビットリーニ,パベーゼ,クアジモドらの文学は,いずれもその基盤にベルガの作品を置いている。その意味でも〈ネオレアリズモ〉は〈ベリズモア〉の正統を継ぐものといってよい。
ベルガと同じころ,異なる角度から民衆の詩心に着目したのが,パレルモの医者であり,かつイタリア民俗学の礎を築いたG.ピトレである。この活動を受け継いだのが民俗学者コッキアーラGiuseppe Cocchiara(1904-65)で,コッキアーラは神話論においてパベーゼと,また民話論においてカルビーノと連携し,さらにビットリーニを軸にして北イタリアとシチリア島の文学は,第2次大戦後に緊密な関係を保って,イタリア文学の主潮を形成しつつある。そして1960年代以降は,シチリア島に在住する国会議員作家L.シャッシャがこの100年間のシチリア島民の心理を歴史の動きのなかで考察しつづけている。
執筆者:河島 英昭
古代ギリシア人の伝承によれば,シケリアSikelia(シチリアのギリシア名)島には,シカノス人(イベリア系),エリュモス人(小アジア系),シケロス人(イタリア系)の3部族が居住していた。この島の呼称はシケロス人に由来する。前8世紀ころからギリシア人の植民が活発になり,東岸から南岸にかけて,メッシナ,カターニア,シラクサ,ゲラ,アクラガス等の都市国家(ポリス)が建設された。同時期,北西部へはフェニキア人の植民が行われ,パレルモ,モテュア等の貿易拠点が設けられた。シチリアにおけるギリシア人の都市国家ではたび重なる諸地域からの植民による住民層の混在が進み,また,少数の有力貴族への土地所有の集中がみられたことから,貴族間の党争が繰り返された。さらに,北アフリカのカルタゴを筆頭とする外部勢力の脅威は僭主政の成立を促し,前5世紀前半のアクラガスにはテロンThērōn,シラクサにゲロンGelōn,ヒエロン1世らの僭主が出現した。彼らの指導下にあったギリシア人は,前480年のヒメラの戦でカルタゴ勢力を駆逐した。その後一時民主政が興ったが根付かず,前5世紀末の前後2回にわたるアテナイ軍遠征の失敗とカルタゴの侵入はシチリアにおける内紛を再燃させ,その収拾の過程で再び僭主政が興った。シラクサを中心として,ディオニュシオス1世,ディオニュシオス2世,アガトクレスらの僭主が出現した。この間,前4世紀前半に哲人王を理想としたプラトンが3度シラクサを訪れたことは有名である。
前3世紀になると,ローマとカルタゴの対立抗争が激化し,第1次ポエニ戦争の結果,島の大半部がローマの属州となった。それまでローマに自治を保障されていたシラクサも,第2次ポエニ戦争の最中にカルタゴを援助したことから,前212年ローマによって陥落し,全島がローマの支配下に収められた。この戦いでシラクサの自然科学者アルキメデスがローマ兵の刃に倒れたことは名高い。その後ローマの属州統治機構が整備されるなかで,奴隷制に基づく大土地所有制が発展した。前2世紀後半における2度にわたる奴隷の反乱は古代における最大級の奴隷蜂起であったと伝えられている。ローマ共和政末期の内乱に巻き込まれたシチリアは一時的に荒廃したが,帝政期にはローマの穀倉の一つと呼ばれるほどの繁栄ぶりを示している。最大の土地所有者は皇帝であり,キリスト教公認後は教皇領が拡大されたが,すでに後1世紀ころから奴隷は小作人によって置き換えられ,4世紀には土地に緊縛された。
文化的には,シラクサのカタコンベの大部分にギリシア語碑文が残ることからも知られるように,古代末期までギリシア語を使っていたことが特筆される。民族大移動の時代には一時バンダル族や東ゴート族に蹂躙(じゆうりん)されたが,やがてユスティニアヌス帝の治世にビザンティン帝国領となり,8世紀末には軍管区制が設置された。この間にもイスラム教徒のアラブ軍の侵入が相次ぎ,827年以後は島の西半部がアラブ軍の制圧下に入り,879年にはシラクサも陥落した。
執筆者:本村 凌二
クレタ島からダイダロスが渡来したとの伝承からも明らかなように,シチリアは青銅器時代からミノス・ミュケナイ文明と活発な交流があった。前8世紀ころ以降のギリシア植民者による都市国家建設ののち,前6世紀から前5世紀にかけて,セリヌス(現,セリヌンテ),アクラガス(アグリジェント),シラクサにドリス式神殿が造られ,その浮彫装飾を施したメトープ(パレルモ国立博物館)も出土している。ヘレニズム時代は窯業が盛んで,優雅なヘレニズム絵画がみられるケントゥリパ(チェントゥリペ)の陶器などがある。ローマ帝政末期の遺品としては,ピアッツァ・アルメリーナの南西約5kmにあるビラ・ロマーナで発掘された床モザイク(総面積約3500m2)が知られる。ビザンティン時代とイスラム時代の美術品自体は少ないが,ノルマン朝時代の教会堂(パレルモ大聖堂),宮殿(ノルマン宮殿。パレルモ)に,それらの時代の美術の要素が認められる。建築・絵画は15世紀からルネサンス美術様式となり,画家アントネロ・ダ・メッシナらが輩出する。17世紀はスペイン・バロック様式の影響が強まり,南西部のノトNotoの教会堂などにその例を見いだせる。しかし近世以降は全般に,シチリア特有の政治的不安定のゆえにイタリア本土ほどの活発な美術活動は見られない。
執筆者:青柳 正規
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア半島の南、地中海のほぼ中央に位置する島。英語ではシシリー島Sicilyという。面積は2万5460平方キロメートルで、地中海最大の島である。周辺に浮かぶ島々を含めてシチリア自治州を構成する。トラパニ、パレルモ、メッシーナ、アグリジェント、カルタニセッタ、エンナ、カターニア、ラグーザ、シラクーザの九つの県からなり、州都はパレルモ。州の面積は2万5708平方キロメートルで、イタリアの州のなかではもっとも広い。人口486万6202(2001国勢調査速報値)。東のファーロ岬、南のイゾラ・デッレ・コッレンティ岬、西のリリベオ岬を頂点とする三角形の島で、イタリア半島のカラブリアとは幅3キロメートルのメッシーナ海峡によって、アフリカ大陸とは幅140キロメートルのシチリア海峡によって隔てられる。島の北部には、アペニン山脈から連なるペロリターニ、ネブロディ、マドニーエの三つの山脈が東西に走り、中央部にはエレイ山地、南部にはイブレイ山地、そして東部には島内最高峰であるヨーロッパ最大の活火山エトナ火山(3323メートル)がある。平野は少なく、島内最大のカターニア平野を除けば、パレルモやジェラなどの周辺に小規模な海岸平野があるにすぎない。
シチリアは、第二次世界大戦後に至るまでは、粗放的な穀作と放羊を主軸とするラティフンディウムとよばれる大土地所有制の存在によって基本的に特徴づけられる伝統的社会であった。しかし1950年代以降、社会・経済の領域で大きな変化がもたらされることになったのである。まず第一に、1951~71年には、北部のロンバルディアやピエモンテ、あるいはドイツなどに向けて、純流出100万人といわれる大量の出稼ぎや移民を生み出した。さらに、そうした島外への流出と並行して、島の内部においても農村から都市への著しい人口移動が現出した。第二に、その結果、農村における労働力は著しく減少し、伝統的なラティフンディウムが解体過程に入った。しかも、それにかわる新しい経営様式への再編は困難を極めた。それゆえ、とくに条件の劣悪な内陸部では、年金と移民による送金とによって生計の大部分が支えられるという現象がおこった。第三に、内陸部の停滞とは逆に、全体の20~25%を占める、海岸平野を中心とした集約的農業地帯では、柑橘(かんきつ)類(レモンは全国生産の約90%、オレンジは約60%)、アーモンド(約50%)、ワイン(15%)などの生産が以前にも増して発達した。第四に、エンナとカルタニセッタの高原地帯で行われてきたシチリアを代表する鉱産物たる硫黄(いおう)の採掘が、1950~60年代において徐々に放棄されていった。第五に、ラグーザ(1953)とジェラ(1956)での石油の発見とイタリア政府による南部開発政策を契機として、アウグスタ、シラクーザ、ラグーザ、ジェラを中心として、地中海最大ともいわれる精油・石油化学の一大工業センターが形成された。なお、パレルモを中心とするシチリア西部はマフィアの故郷である。
[堺 憲一]
古くはシクリ人やシカニ人が居住した。紀元前8世紀ごろからフェニキア人およびギリシア人による植民活動が始まり、前者によりパレルモ、後者によってシラクーザ、メッシーナ、カターニア、ジェラ、アグリジェントなどの町が建設される。なかでもシラクーザは、マグナ・グラエキア(大ギリシアの意。南イタリアのギリシア植民市群)を形成する植民市のなかで最強の地位を誇った。前264年メッシーナで起こった紛争に端を発して、ローマとカルタゴの間で第一次ポエニ戦争が引き起こされた。その結果シチリアは最初の属州(プロウィンキア)としてローマに併合。奴隷を利用した大規模な穀作経営を行うラティフンディウムが発達し、ローマの穀倉としての役割を果たした。その後、紀元535年に将軍ベリサリオスによって征服され、ビザンティン帝国領となり、663~668年、短期間ではあるがシラクーザに首都が移された。9世紀初めごろマルサーラに上陸したアラブ人は、831年のパレルモ占領を皮切りに、徐々に全島を制圧、シチリアのイスラム化が進む。ところが、1061年になると、アルタビッラ(オートビル)家のロベルト・グイスカルドとルッジェーロによるシチリア征服が開始される。1130年にはルッジェーロ2世のもとで、イタリア半島南部を含めたシチリア王国が成立し、今度はノルマン人による統治が始まる。かくしてシチリアにも封建制度が導入されることになったのである。
1197~1250年、神聖ローマ帝国の皇帝(在位1215~50)を兼ねたホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世の支配下に置かれ、パレルモは国際的な文化・経済の中心地として大いに繁栄する。彼の死後1266年、ルイ8世の子であるシャルル・ダンジューがシチリア王になったが、1282年「シチリアの晩鐘」とよばれる島民の大暴動によって島を追われた。その後1世紀に及ぶ内乱の時代を経て、1442年スペインのアラゴン王国に併合、18世紀初めに至るまでのスペインによる統治時代の幕開きとなる。1712~18年のサボイア家、1718~34年のハプスブルク家の支配を経験したのち、スペインのブルボン家の手中に入る。1816年、シチリア王国はナポリ王国と合併して両シチリア王国が成立するが、1860年にマルサーラに上陸したガリバルディの率いる千人隊によって、同王国は征服され、新生のイタリア王国に併合された。しかし、国家統一後、近代的大工業の発達がおもに北部イタリアで達成されたのに対して、シチリアやサルデーニャを含む南部は長らく貧困地帯のまま放置されることになる。
[堺 憲一]
『竹山博英著『シチリア 神々とマフィアの島』(1985・朝日選書)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…19世紀後半に成立したイタリア王国は,イギリス,フランス,ドイツなどの先進工業化諸国に比して,工業化が遅れ,19世紀末からは特に貧しい南部からたくさんの移民が各国に出て行くようになり,貧しい国イタリアというイメージもゆきわたった。
[自然]
長靴形の半島部およびシチリアとサルデーニャとから成るイタリアの自然は,かなり多様である。夏にはイタリアのほとんどの部分が低緯度大陸気団の影響下に入って,高温・乾燥によって特色づけられる〈地中海の夏〉によっておおわれるが,冬になると,アペニノ山脈の北部および東側は,中緯度大陸気団の影響を受けて,寒冷かつ湿潤であるし,中南部においても西からやってくる低気圧の影響を受けて,しばしば雨の降る不安定な気候を呈する。…
…イタリア文学は,ラテン文学を直接の母体として,古代ギリシア文学の伝統を強く受け継ぎながら,生みだされた。イタリア半島はローマを中心にラテン文化を築きあげた土地そのものであり,ネアポリス(すなわちナポリ)以南は,シチリア島とともに,多数のギリシア植民市を擁した,いわゆる〈マーニャ・グレーチア(マグナ・グラエキア)〉の地域である。古来,イタリアの詩人や作家たちが伝統の革新や伝統への回帰を唱えるとき,彼らはつねに古典文学を意識していた。…
…ハイメ1世の子。シチリア征服の功績から〈大王〉とあだ名される。ペドロ3世即位時のアラゴン連合王国は外に向けての新たな発展の可能性を模索していた。…
…
[シチリア]
シチリアに特有の組織犯罪を指す。〈マフィア〉の語はアラビア語に由来すると考えられるが,語源や語意は不明である。…
…59年夏,教皇ニコラウス2世が教会改革のためメルフィで開いた教会会議に出席し,教会に忠誠を誓った。このときに〈プーリアおよびカラブリア公,将来のシチリア公〉に任ぜられた。南イタリアのビザンティン領の教会はコンスタンティノープルに従属していたが,ノルマンの征服とともにローマ教会の支配下に入った。…
※「シチリア島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新