改訂新版 世界大百科事典
「サラーフアッディーン」の意味・わかりやすい解説
サラーフ・アッディーン
Ṣalāḥ al-Dīn
生没年:1138-93
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「サラーフアッディーン」の意味・わかりやすい解説
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のサラーフアッディーンの言及
【バハー・アッディーン】より
…モースルで生まれアレッポで没す。モースルにいたが,後に[サラーフ・アッディーン]に仕え,軍のカーディーとして彼が没すまで行動を共にする。その後はアレッポでその息子に仕えた。…
【エジプト】より
…街区ごとに宗派別の住み分けが行われるようになるのは,キリスト教徒十字軍のエジプト侵攻とスンナ派復活の影響が現れる12世紀半ば以降のことである。 ファーティマ朝の宰相となって実権を掌握したサラーフ・アッディーン(サラディン)は[アイユーブ朝](1169‐1250)を創始し,国家の宗旨をシーア派からスンナ派に変更するとともに,それまでセルジューク朝やザンギー朝で実施されていた[イクター]制をエジプトに導入し,これを軍隊編制と農村支配のための基本制度に定めた。ナイル川流域のエジプトは政府による統治が容易であったから,水利機構の管理・維持は比較的よく行われ,その結果,農業生産は安定し,商品作物であるサトウキビも下エジプトから上エジプトへとしだいに拡大していった。…
【カイロ】より
…11世紀中葉,大飢饉がおこり黒人系とトルコ系の奴隷軍人が争うころからファーティマ朝は衰え始めるが,1168∥69年,第5回十字軍の攻撃を避けるためにフスタートの町が焼かれて以後,この町はしだいに衰退に向かい,代わってカイロが経済の中心に成長していった。これを促進したのがアイユーブ朝(1169‐1250)のスルタン,サラーフ・アッディーン(在位1169‐93)である。十字軍との戦いで有名な彼は,カイロ南方の丘の上に巨大な城砦(カルアQal‘a)を築いて政治と軍事の中心をここに移し,庶民のカイロ移住を自由にしたので,フスタートその他から流入する商工業者が多く,カイロは広々とした街路の都城から,狭い通りや袋小路に人家の密集するにぎやかな商工業者の町に変貌していった。…
【シリア】より
…これは当時ファーティマ朝が弱体化しており,一方では北部から中部シリアにかけてセルジューク・トルコの流れをくむトルコ系諸勢力が乱立していたため,シリア全土が政治的には一種の真空状態にあったためである。イスラム側の勢力を統一して十字軍に対抗するにはかなり時間がかかったが,[ザンギー朝](1127‐1222)のヌール・アッディーンによってかなり推進されたこの事業を,サラーフ・アッディーン(サラディン)が完成させた。サラーフ・アッディーンはマムルーク(奴隷軍人)の力を結集し,その活動の結果,十字軍は地中海沿岸地方に押し込められた。…
【ヒッティーンの戦】より
…ティベリアス湖西方のヒッティーンHiṭṭīnで行われたムスリム軍と十字軍との決戦。1187年3月,[サラーフ・アッディーン]は聖戦(ジハード)を宣して,エジプト,シリア,ジャジーラから1万2000の正規軍と2万余の補助軍を結集,一方,エルサレム王のギーもほぼ同数の十字軍騎士を集めてこれに対抗した。7月4日の戦いはムスリム軍の圧倒的な勝利に終わり,ギーを捕虜としたサラーフ・アッディーンはその余勢を駆って同年10月,約80年ぶりにエルサレムを奪回した。…
※「サラーフアッディーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」