サード・ザグルール
Sa`d Zaghlūl
生没年:1857-1927
エジプトの近代民族運動史上最大の指導者。農村支配者(ウムダ)の家系の生れ。アズハル大学時代,当時の思想家アフガーニーやムハンマド・アブドゥフの影響を受けた。その後法律家,官吏として身を立て,イギリス占領下の有能な官僚として,1906年文相,12年法相に任命された。エジプト近代化とムハンマド・アリー朝のヘディーウ(副王)専制抑制の一定の効力をイギリス占領に見いだしてきたザグルールは,13年以降官職を辞し,反英民族運動へ傾斜した。第1次大戦後イギリス保護領化の危機を前に,ザグルールらは18年11月エジプト完全独立を目ざすワフド・アルミスリーal-Wafd al-Miṣrī(のちのワフド党)を結成し,国民を広範な反英運動に結集させ保護領化を阻止した(1919年革命)。イギリス支配と鋭く対決しうるワフドの国民結集の秘密は,農民の心情に通じたうえ,国民的公正への奉仕を自らの義務とする指導者ザグルールの人民的立場にあった。
執筆者:藤田 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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サード・ザグルール
Sa‘d Zaghlūl
1857 - 1927
エジプトの民族運動指導者。
元・法相。
アズハル大学時代にアフガーニーなどの思想家の影響を受け、その後法律家、官史となる。1906年文相、’12年法相を歴任。’13年イギリス占領に及ぼすエジプト近代化と副王専制抑制の影響を感じたザクルールは、官職を辞職。反英民族運動に傾倒。’18年エジプトの完全独立を目標にワフド・アルミスリーを旗揚げし、国民を反英運動の下に結集させた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
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百科事典マイペディア
「サードザグルール」の意味・わかりやすい解説
サード・ザグルール
エジプトの政治家,ワフド党の組織者。初めは穏和な民族主義者で,文相,法相,立法議会議長を歴任。第1次大戦中に英国の支配に対する批判を強め,完全独立要求の大衆運動を起こし,2度海外流刑となった。1924年エジプト独立後最初の総選挙でワフド党を率いて圧勝,初代首相となった。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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世界大百科事典(旧版)内のサードザグルールの言及
【ムハンマド・アリー朝】より
…76年におけるエジプト財政の破産に端を発した一連の政情不安の中で,近代エジプト最初の民族主義運動である[アラービー運動](1879‐82)が発生したが,イギリス軍によって鎮圧され,以後エジプトはイギリスの軍事支配下に置かれ,エジプト経済の対西欧,とりわけ対英従属化は強化された。 第1次世界大戦後の1919年,[サード・ザグルール]を指導者とする反英民族独立運動が発生し,この運動の高まりの中で,22年イギリスはエジプトの独立を一方的に宣言した。しかし,これによって従来のイギリス権益が放棄されたわけではなく,独立は名目的なものであった。…
【ワフド党】より
…エジプトの民族主義政党。第1次世界大戦後,パリ講和会議にエジプトの民族〈代表団〉(ワフドwafd)を送ろうとして始まった運動を母体に,1924年,[サード・ザグルール]を指導者として成立。〈エジプト人のためのエジプト〉を標榜し,キリスト教徒・ムスリムの違いを超えた広範な大衆の支持を獲得した。…
※「サードザグルール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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