汎(はん)イスラム、反帝国主義思想家。イランに生まれ、シーア派の教育を受けたが、スンニー派世界での影響を考えて、アフガン人と自称した。1857~1858年のインド滞在後、アフガニスタンで過ごしたが、政争に巻き込まれ、1871年イスタンブールに逃れ、そこで多くの講演を行った。しかし彼の思想はウラマー(法学者)の反感を招き、同年カイロに移った。そこで、ムハンマド・アブドゥーやサード・ザグルールSa‘d Zaghlūl(1857―1927)など、のちのエジプトの民族的指導者となる若者たちに哲学や神学を教えると同時に、立憲制要求や反英ナショナリズム思想へと導き、アラービーの反乱(1882)に影響を与えることとなった。しかし、1879年にはイギリスの教唆によりインドに追放され、インドではアフマド・ハーンの親英思想を攻撃した。アラービーの反乱後、ヨーロッパ諸国を遍歴、パリでは、イスラムの合理主義精神を否定するルナンと論争を行ったり、エジプト時代の弟子ムハンマド・アブドゥーとともに雑誌『固き絆(きずな)』を創刊(1884)し、反植民地主義、汎イスラムの論陣を張ったりした。1886年、1889年の2回、イランの国王ナーシル・アッディーン・シャーNāir al-Dīn Shāh(在位1848~1896)に招かれ、イランの近代化政策に参与したが、宮廷内の陰謀のため1890年に追放された。追放後、イラン専制政治を激しく攻撃し、イランにおけるタバコ・ボイコット運動、立憲主義運動に影響を与えた。1892年、オスマン帝国のアブデュル・ハミト2世は、その汎イスラム主義を利用するために彼を招待したが、彼の自由思想はスルタンの専制主義とは相いれず、宮廷内で孤立し、事実上の幽閉の状態で死亡した。まとまった著作は残さなかったが、西欧植民地主義に対する強い危機意識と、イスラム世界の一致団結の必要性、自由主義的政治改革の思想、イスラム黄金時代への憧憬(しょうけい)、合理主義的イスラム神学、哲学の再建の試みなどは、彼のカリスマ的人格を通して、多くの次代のイスラム近代主義者に影響を与えた。
[竹下政孝 2018年4月18日]
イスラム改革および反帝国主義の運動の扇動家,組織者。名はジャマール・アッディーンJamāl al-Dīn。アフガン人と自称したが,イラン生れ。そのため,イランではアサダーバーディーAsadābādīと呼ぶ。イギリスによるセポイの反乱の鎮圧とムガル帝国滅亡とから,早くヨーロッパの脅威を感得し,アフガニスタンの政争に関与してイスタンブールに逃れたが,彼の哲学思想を異端とするウラマーの圧迫を受け,1871年カイロに定住した。イジュティハードの再開を唱えて,ムハンマド・アブドゥフ,サード・ザグルールら,後にエジプトの民族的指導者となる青年たちに感化を与え,専制反対・立憲制要求・対ヨーロッパ抵抗の立場で秘密結社を組織して,ワタン党やアラービー運動を準備した。79年インドに追放されたが,イギリスのエジプト占領後,移動の自由を得,ヨーロッパで活動,ロシアを含む諸国を遍歴した。この間,84年パリでムハンマド・アブドゥフとともにアラビア語政治評論誌《固き結合al-`Urwa al-wuthqā》を18号まで刊行,同誌は以後アフリカからインドネシアに至るムスリム世界各地にひそかに運び込まれ,強烈な帝国主義批判と抵抗闘争におけるムスリム連帯の訴えとによって甚大な影響を及ぼした。J.E.ルナンとのイスラムの合理主義的立場に関する論争やスーダン問題についてのイギリス政界との折衝によって,ヨーロッパの政治家・知識人の間でも注目された。1880年代後半,2回にわたりカージャール朝のシャー(国王)の求めでイランに滞在したが,90年追放され,これを機としてイランではタバコ・ボイコット運動,シャー暗殺事件の激動が始まった。90年以降,彼をパン・イスラム主義の立場で利用しようとしたオスマン帝国スルタン,アブデュルハミト2世に迎えられてイスタンブールへ赴いたが,同宮廷内部で孤立,イランのシャー暗殺をめぐる容疑などのため幽閉され,死亡した。毒殺説もある。
執筆者:板垣 雄三
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1838/39~97
イラン生まれの革命家,思想家。列強による植民地化が進むなかで,生涯を旅に生き,イスラーム世界各地で帝国主義に抗するムスリムの団結(パン・イスラーム主義)を説いて回った。またムスリム没落の原因を内的な頽廃に求め,立憲制,議会制の導入とイスラーム改革の必要を訴え続けた。彼の薫陶を受けた青年層を中心に,エジプトでアラービーの反乱,イランでタバコ・ボイコット運動が起きるなど,ムスリム一般の政治意識を活性化させた功労者とされる。
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…その点に,中世に存在したイスラム改革運動との相違が見られる。萌芽期の代表的事件として,エジプトのアラビー運動(1881-83),イランのタバコ・ボイコット運動(1891-92)が挙げられ,前者がスンナ派,後者がシーア派の国で起こったため,両方の事件に関わったアフガーニーが,両派にまたがる復興運動の起点における象徴とされる。
[西洋による〈脅威〉の認識]
アフガーニーは列強の侵略に抵抗するイスラム連帯を訴えたが,西洋側ではそれを自分たちに対する〈脅威〉ととらえ,パン・イスラム主義の名称で呼んだ。…
※「アフガーニー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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