フランス語(読み)ふらんすご

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス語」の意味・わかりやすい解説

フランス語
ふらんすご

イタリア語、スペイン語、ルーマニア語などと同じく、インド・ヨーロッパ語の一つであるラテン語にさかのぼるロマンス語の一つ。フランス(約6000万人)と海外領土のほか、ベルギー(フランス語人口約410万人)、スイス(同約140万人)、ルクセンブルク(同約44万人)、カナダ(同約740万人)、モーリタニアマダガスカル、ルワンダ、カメルーンなどの旧フランス領アフリカ諸国の一部で話され公用語の一つとされ、ハイチ、モナコ、アフリカ大陸のマリ、ニジェール、セネガル、ブルキナ・ファソ(旧オートボルタ)、トーゴ、ガボン、コートジボワール(象牙(ぞうげ)海岸)、コンゴ民主共和国(旧ザイール)など旧仏領、旧ベルギー領からの独立国のうち11か国では唯一の公用語となっている(2002)。これらのアフリカ諸国では小学校からフランス語で教育が行われ、共通語となっているが、フランス語を常用している人数を確定することはむずかしい。推定では1億人以上とされる。また公用語とはされていないが旧フランス領であったチュニジアアルジェリア、モロッコでもフランス語は通用し、北アフリカで地中海に面するこれらマグレブ三国からは移民また労働者が多くフランスに流入している。国際連合、ヨーロッパ連合(EU)、ユネスコでもフランス語は公用語の一つとなっている。文化的共通語としては英語、ロシア語、アラビア語、中国語と並んで広く学ばれている。

 フランス語の最古の文献は、842年にカール大帝の2人の孫、カール禿頭(とくとう)王とルートウィヒ王の間とそれぞれの軍団が交わした『ストラスブールの誓い』にさかのぼるが、これはロマンス諸語のなかで最古の文献であり、以後、各世紀に多くの文献が残されていて、古ラテン語以来の2000年の発展を連綿とたどれる点で言語史学上も重要な言語になっている。

[松原秀一]

国際語としてのフランス語

フランス語はすでに12、13世紀にはラテン語に次ぐヨーロッパの教養語となり、その文学作品はロマンス語圏を越えて各国語に訳されている。11世紀の武勲詩『ロランの歌』、12世紀の『トリスタン物語』などの中世ドイツ語訳、アイスランド語訳、オランダ語訳などがあり、また13世紀にはイタリア人ブルネット・ラティーニが『知識宝典』をフランス語で書き、マルコ・ポーロの『東方見聞録』もフランス語で広く読まれるというように国際語の性格をすでにもっていた。15、16世紀にはイタリア語、スペイン語の隆盛の前にやや衰えたが、16世紀のイタリア戦争でイタリア・ルネサンスを発見したフランス貴族がイタリア文化を取り入れ、イタリア女性と縁組みしたため、サロンの風習が上流階級にもたらされ、会話の洗練への志向が高まった。17世紀後半、古典主義の勃興(ぼっこう)とともに、フランス語は理性のことば、社交のことばとして磨かれた。ボージュラの『フランス語覚え書』(1647)をはじめ、ポール・ロアイヤル運動の指導者アルノーがランスロClaude Lancelot(1615―1695)とともに著した『文法』(1660)、アカデミー・フランセーズによる『アカデミー・フランセーズ国語辞典(アカデミー辞書)』(1694)などによって整備され、ルイ王朝のベルサイユ宮殿を中心にヨーロッパの上流社会の共通語となった。外交交渉にはフランス語が使われるばかりか、18世紀にはラテン語にかわって、学者の共通語となった。ベルリン、ペテルブルグのアカデミーでも紀要はフランス語で刊行され、ライプニッツも『モナド(単子)論』をフランス語で著し、プロイセン王フリードリヒ2世も日記をフランス語で書いているほどである。外交文書でフランス語が公用語となったのは、三十年戦争を終結させる1648年のウェストファリア条約以来のことで、日露戦争の講和条約もフランス語が正文であったが、1919年のベルサイユ講和条約からフランス語に並んで英語も使われるようになった。ただし文言に疑義がある場合はフランス文によるとしている。第二次世界大戦以後国際的に英語の勢力が増しているが、ベルンの国際郵便条約ではフランス語が正文であるので、どこからでも郵便の上書きや届けはフランス語で書ける。

 フランス語を国際語にしたのは、イタリア婦人の影響のもとに開かれた17世紀以来のサロンや、同じくイタリアに倣ってつくられたアカデミーの存在が示すように、フランス語が古典語教育を受けない女性にも聞きやすくわかりやすい美しいことばになるように磨かれ、客観的規範性を保とうという努力によって、単語が論理的に定義づけられ整理されていること、コルネイユモリエール、ラシーヌらによる古典作品をもち、その伝統がボルテールからアナトール・フランス、ジッド、バレリー、カミュら現代まで保たれていて、一定の学習によって比較的容易に同質の言語に到達できることと、必要によって文法もあいまいさを避けることを可能にしている点があげられよう。第二次世界大戦後、アメリカの技術的、経済的優位により英語が国際語として広まったが、国際共通語としてのフランス語は明快さ、規範の均一なことなどにより知的国際語の地位を保っていくであろう。

[松原秀一]

フランス語の特徴

現代フランス語は、四つの鼻母音を含む16の母音と三つの半母音を含む20の子音をもつが、母音は緊張度が高く明瞭(めいりょう)に発音され、延ばしても二重母音化せず、2個以上の子音が固まって発音されることがなく、アクセントは個々の単語では最後の母音、文中では一続きに発音される語群の最後に置かれるが、アクセントの有無にかかわらずすべての音節が明瞭に発音されるので聞き取りやすい。単語では、発音されない語末の子音が意味上のまとまりのある語群のなかでは母音の前になると復活し、母音が続くことを避けるリエゾンliaisonという現象をもち、音声化に単語の綴(つづ)り字が意識されるのはフランス語の特徴である。

 名詞には男性、女性の区別があり、太陽、空はle soleil, le cielと男性名詞、月、大地はla lune, la terreと女性名詞というようにあらゆる名詞に性の区別がある。格変化は英語と同じく代名詞にしか残っていない。動詞はロマンス語として人称変化、時制変化に富むが、発音上も用法上も単純化の道をたどってきていて、用法も論理的に整理されている。統辞法も主語―動詞―動詞補語の語順の安定度が高く、修飾語も形容詞は名詞のあと、副詞もできるだけ動詞の直後に置かれる下降語順をとり、語順に従って次々と理解が聞き手に形成されやすいように発達させられてきた。したがってヨーロッパ諸語のなかでも人工語的性格が強く、ドイツ語ではfahren, reiten, kriechen, kletternなどと様態によって動詞が使い分けられるのに対して、フランス語ではallerという動詞に分析的に補語をつけてaller en voiture, en train, en bateau(車で、汽車で、船で行く)、aller à cheval(馬で)、aller à quatre pattes(四つんばいで)、aller en grimpant(はい上がる)といい、英語がglow, glisten, glint, glimmer, gleamなどとほのかに光るのを様態で区別できるのに、フランス語にはluireという動詞をもつのみであるように、フランス語は感情や情感よりも理知的な情報伝達に重きを置く傾向がある。したがって、日本語に豊かなコロコロ、ゴロゴロ、カタカタ、ノソノソ、ギリギリ、ザワザワといった擬態語、擬声語はきわめて少なく、事態を分析して表現するほかはない。これは、フランス人が自分たちのことばを意識的に知的な道具にするために努力してきた結果であり、国民に美しく洗練された国語に対する関心が高いこともフランス語を特徴づけている。たとえばフランスが第二次世界大戦後もフランス語の普及のため外国に多くの学校を経営し、教師を送り、国立大学の教授を休職させてまで「基礎フランス語」の制定にあたらせ、視聴覚教材の開発に意欲的なことや、英語の借用を制限し、訳語を審議させ、官報に公布するなど国家的努力をしているのにもみられる。しかし反面、民衆語と洗練されたことばの距離を大きくしたことも否めない。

[松原秀一]

フランス語の歴史

発生と成立

フランスの先住民族であったリグリア人、イベリア人のことばは、わずかな地名に推測されるのみで残っていない。南フランスの地中海沿岸は早くからフェニキア、ギリシアの植民が行われたので、ニース、マルセイユ、モナコなどの地名がギリシア語から残された。南フランスはローマ帝国のナルボンヌ属領となっていたが、北フランスも紀元前58~前51年カエサルの征服の結果、完全にローマの勢力範囲に入り、まず都市を中心にラテン語が、ケルト語の一つであるガリア語を話していた住民の間に浸透していった。紀元後5世紀にはガリア語は山間僻地(へきち)を除いては消滅したらしいが、多くの地名のほか、征服以前からラテン語に知られていた樹木名、動植物名(パリ、リヨン、chêne〔柏(かしわ)〕、bouleau〔しらかば〕、cheval〔馬〕、alou〔>alouette,ひばり〕)、ケルト文化に由来する事物の名(lieue〔里〕、arpent〔半エーカー〕、tonneau〔樽(たる)〕、charrue〔鋤(すき)〕、bercer〔揺する、ケルト人が子守に雇われたことが推定される〕、changer〔換える〕)など、かなりの数がケルト系とされる。フランス語の数詞にみられる二十進法の痕跡(こんせき)(quatre-vingts 80〔4×20〕)もケルトの影響とされ、学者によってはuがウでなくユと発音されるのもケルト語の影響と考える。

 フランスをはじめスペイン、ルーマニアなどのローマ属領で話されていた民衆のラテン語は、5世紀ごろまでは意外に統一を保ち、冠詞の発生、母音の長短の区別、格変化の衰退、新たな動詞体系の発生はすべてのロマンス語に反映している。しかし476年に西ローマ帝国が崩壊し、各地域が社会的、文化的に異なった状況に置かれると、それぞれの地方で方言化が別々に進行し、ロマンス語はそれぞれイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語などへの発展の道をたどり始める。ゲルマン人の移動の結果、フランク人の影響を強く受けた北フランスでは、変化がロマンス語のなかでももっとも大きく、ローマ化の深かった南のオック語に対し、オイル語群を形成していった。フランク人と被征服ガロ・ロマン人の混交が進み、人定法による裁判ができなくなったのは9世紀とされるが、このころには、フランク人はゲルマン語に属するフランク語を忘れ、オイル語のみを話すようになっていた。しかしゲルマン語の影響は強く、色名、軍事用語、生活用語を多くもたらし、発音上もラテン語ですでに失われていたhを復活し、いまのg音に残る両唇音wなどをもたらした。こうしてガリアのロマンス語は、フランス語最古の文献とされる『ストラスブールの誓い』に残るフランス語となっていったのである。

[松原秀一]

古フランス語

このフランス語の祖のオイル語は地方差があり、12世紀にはピカール方言、ノルマン方言、シャンパーニュ方言、ロレーヌ方言、西部方言などが認められる。このうち文学語としてピカール方言、ノルマン方言が勢力があったが、パリを中心とするカペー王権の伸張とともに、これらの諸方言を中和した共通語がしだいにつくられた。これをフランシアン方言francienとよぶことがある。11世紀にはフランス文学最古の聖者伝が韻文で残され、とくに1592年(文禄1)イエズス会士によって日本の加津佐(かづさ)(長崎県南島原(みなみしまばら)市)で印刷された『サンクトスの御作業』にも含まれている『聖アレクシス伝』は11世紀末作の古フランス語の傑作であり、その後、何度も改作されている。1092年の第一次十字軍後につくられたと推定される『ロランの歌』も、中世フランス文学の傑作であるが、最古の写本はイギリスで行われたフランス語の方言アングロ・ノルマン語で書かれている。13世紀のパリの人名録といえるエティエンヌ・ボワローの『職業録』も、ピカール方言で書かれている。12、13世紀はフランス韻文文学の最盛期で、多くの武勲詩、物語詩はヨーロッパ的名声を博し、各国で訳され、模倣された。この中世のフランス語は、名詞に主格、目的格の区別があり、語順も浮動性があり、動詞変化も豊かであった。ノルマン公ウィリアムによってイギリスにもたらされたノルマン方言は、上層階級の共通語となり、1362年エドワード3世が廃止するまではイギリス議会ではフランス語が使われ、英語に深い影響を及ぼした。このノルマン方言は早くから格変化を失い、二重母音化をはじめ、大陸の他の方言から離れていくのでアングロ・ノルマン方言といわれるが、文学活動は盛んで多くの作品が残されている。

[松原秀一]

中期フランス語

14、15世紀のフランスは、百年戦争や疫病で混乱期となり、言語の変化が甚だしくなった。格変化は消失し、動詞の変化も減るとともに、主語・動詞・目的語という語順が定着し、主語に代名詞が現れるようになった。フランシアンが標準語となり、15世紀末には方言は書きことばでは使われなくなり、ラテン語からの翻訳に伴う古典語の借用から、法律用語や学者語が増え、古典語の教育を受けた写字生がラテン語風綴(つづ)りをフランス語の表記にもたらし、綴り字が複雑化した。16世紀の古典ギリシア語、ギリシア文化の再発見も加わって、フランス語の語彙(ごい)は豊かにされた。ルネサンスは、イタリア、ギリシア・ローマの魅惑とともに、フランス語をいかにこれらの言語に劣らぬものにするかという運動をもたらした。フランソア1世は1539年ビレル・コトレの勅令で、法廷と法律文書にラテン語を廃し、フランス語のみを使うよう命じ、カルバンはラテン語で書いた『キリスト教綱要』を1541年にフランス語で発表し、1549年にはデュ・ベレーが『フランス語の擁護と顕揚』を著している。

[松原秀一]

近代フランス語

17世紀は豊穣(ほうじょう)になりすぎたフランス語を整理する時期で、前述のサロンやアカデミーの努力でフランス語の語彙は縮小したが、明晰(めいせき)さは増大した。18世紀には産業と工業の発達で科学用語、専門用語が17世紀の古典フランス語に加えられ、他方ルソーにより個性の表現が対照され、フランス革命後のシャトーブリアン、ユゴー、ゴーチエなどによる豊かなロマン派の情感表現に受け継がれる。革命期に国民軍がつくられると、標準語が国民に通じないことが明らかとなり、革命後、兵役と義務教育によるフランス語の普及が図られることとなる。1830年七月革命後の産業改革から、英語好みの傾向も現れた。

 第二帝政期に東洋に関心を示したフランスは、江戸幕府と接触し、軍事顧問、技術供与をはじめ、明治年間まで接触が保たれ、このため日本語にもゲートル、サーベル、ビバークbivouac、シャッポ、シャボン、バリカン(商店名)などの単語がもたらされた。19世紀に小説が詩にかわって文学の主流になり、ロマン派の自我の表現手段としての小説が近代文学として日本に紹介され、その後今日まで先端的文学が紹介され続けている。フランスは軍事、法制の先進国として多くの日本人が明治になると留学したが、第三共和政の時代にはフランスは自由民権の国、美術・服飾の盛んなエレガントな国ととらえられ、日本語にも、デッサン、プレタポルテ、シックなどの単語が入ってきている。

[松原秀一]

『シャルル・バイイ著、小林英夫訳『一般言語学とフランス言語学』(1970・岩波書店)』『アルベール・ドーザ著、杉冨士雄・田辺保ほか訳『フランス語の特質』(1982・大修館書店)』『C・ランスロー、A・アルノー著、南舘英孝訳『ポール・ロワイヤル文法 一般・理性文法』(1982・大修館書店)』『森本英夫・堀田郷弘著『フランス語の心をたずねて』(1983・高文堂出版社)』『森本英夫著『フランス語の社会学――フランス語史への誘い』(1988・駿河台出版社)』『山田秀男著『フランス語史』増補改訂版(1994・駿河台出版社)』『ピーター・リカード著、伊藤忠夫訳『フランス語史を学ぶ人のために』(1995・世界思想社)』『宮永孝著『日本史のなかのフランス語――幕末明治の日仏文化交流』(1998・白水社)』『ミッシェル・セール著、米山親能・和田康・清水高志訳『哲学を讃えて――フランス語で書いた思想家たち』(2000・法政大学出版局)』『東京外国語大学グループ「セメイオン」著『フランス語学の諸問題』(2001・三修社)』『小倉博史著『文化と歴史で学ぶフランス語』(2001・丸善)』『小林正著『フランス語のすすめ』(講談社現代新書)』『ジャック・ショーラン著、川本茂雄・高橋秀雄訳『フランス語史』(白水社・文庫クセジュ)』『田辺保著『フランス語はどんな言葉か』(講談社学術文庫)』『日本フランス語フランス文学会編『フランス語フランス文学研究文献要覧』各年版(日外アソシエーツ)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランス語」の意味・わかりやすい解説

フランス語
フランスご
French language

フランスとその海外領土および旧植民地,カナダ,ベルギー,スイスなどで公用語になっている言語。ロマンス語派に属し,ラテン語がゴール語を基層言語とし,ゲルマン語を上層言語として変化したもの。ロマンス語派のなかでも特に音韻変化が著しい。フランス北部で特にゴール語やゲルマン語の影響が強く,それの弱かった南部の言語と分れて発達した。南部の言語はプロバンス語 (オック語) となり,北部の言語 (オイル語) が狭い意味でのフランス語となった。また,古期フランス語 (1300頃まで) の方言のうち,フランシアン方言が勢力を得て標準語となった。最古の文献は9世紀。母語あるいは第2言語として使用する人口はおよそ 7000万人に達し,また,すぐれた文化を背景として世界中で広く学ばれ,特に外交によく用いられる。日本語に外来語として入ったフランス語はそう多くはないが,マント,ゲートル,シャッポなど江戸時代末期に入った単語もあり,近年は服飾,美術,料理などの分野に多い。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報