日本大百科全書(ニッポニカ) 「シャイアン」の意味・わかりやすい解説
シャイアン(民族)
しゃいあん
Cheyenne
アメリカ合衆国の典型的な北米平原先住民(平原インディアン)の一つで、1870年代に合衆国軍と壮絶な戦いを繰り広げたことで知られている。その名は「異なったことばを話す人」という意味のダコタ語「シャイエラsha-hiye-la」に由来する。自称は「人」を意味する「ツェ‐ツェヘセ‐スタエスツェTse-tsehese-staestse」で、アルゴンキン語族に属する。
1680年にフランス人に接触するまでは五大湖周辺に住み、湖や川のほとりで半農半猟の半定住生活を営んでいたが、フランス人との毛皮交易関係が深まると、スーやチピワのグループに追われて西方の大平原北部に移動し、そこでアリーカラやマンダンと同盟してスーなどと戦った。18世紀に入って馬を入手すると農業を捨てて、バイソンの狩猟を中心とする平原インディアン特有の生活を営んだ。10のバンド(生活集団)に分かれてそれぞれ独立に行動し、ティピ(テント)を張って各地で野営し、年に一度だけ夏に全員が集合して儀式を行った。交易を通じてヨーロッパ製品への依存度を深め、1830年代にコロラド南部にアメリカ人の交易所が設けられると大挙して南下したサザン・シャイアンと、残留したノーザン・シャイアンとの分裂が深まった。
1840年代以降、オレゴン道を西へ向かう白人入植者が急増し、バイソンをやたらに殺したため、これまで敵対していたスーやカイオワと同盟して果敢な抵抗を開始した。1864年にコロラドのサンド・クリークで平和裏に野営していたサザン・シャイアン数百人の非戦闘員が、突如コロラド民兵軍に襲撃され、大半が虐殺される事件が起こった(サンド・クリークの虐殺)。これに怒った先住民は一斉に蜂起し、大平原は一時戦場と化した。その後1876年のリトル・ビッグホーンの戦いで、スーとシャイアンの連合軍は、合衆国第七騎兵隊のカスター大隊を全滅させ大勝利を博したが、翌年には武器・兵力ともはるかに勝る合衆国軍の攻撃の前に降伏を余儀なくされ、オクラホマの保留地に収容された。1878年にそこを脱出して北上した一部のものは、はじめパインリッジ保留地に、1884年には新設のタング・リバ保留地に収容されてノーザン・シャイアンと合流した。
1990年のシャイアンの総人口は1万1809人、そのうちノーザンが4398人、サザンが307人、シャイアンとのみ申告したものが7104人である。ほかにシャイアン・アラパホが2629人いるが、その半数がサザンと見積られている。州別ではモンタナ州に4158人、オクラホマ州に2801人、カリフォルニア州に987人で、この3州で全体の67%を占め、残りの3863人(33%)も主として西部諸州に居住している。
[富田虎男]
『ディ・ブラウン著、鈴木主税訳『わが魂を聖地に埋めよ――アメリカ・インディアン闘争史』上・下(1972・草思社)』▽『フライ・コミュニケーションズ企画・構成、北山耕平訳『シャイアン・インディアン 祈り』ポケット・オラクル2(1994・三五館)』
シャイアン(アメリカの地名)
しゃいあん
Cheyenne
アメリカ合衆国、ワイオミング州北東端、コロラド州とネブラスカ州との州境近くの都市で同州の州都。人口5万3011(2000)。牛、羊の放牧地帯の市場、集散地として知られるが、製油、肥料、電子光学機器など工業の発達も目覚ましい。ユニオン・パシフィックなど古くからの鉄道の中心地でもあり、官公庁と同様に多くの労働人口を吸収する。1867年ユニオン・パシフィック鉄道の分岐地点として町が開かれ、70~80年代には西部の牛放牧の本拠地として発展した輝かしい歴史をもつ。1890年に州都となった。97年以来の歴史をもつ恒例のシャイアン・フロンティア・デーの祭りは、ロデオなど当時をしのぶ催し物で多くの観光客を集める。また、州の歴史、西部開拓史のコレクションで知られる州立博物館がある。
[作野和世]