〈反宗教改革〉あるいは〈対抗宗教改革〉という表現は1776年にゲッティンゲン大学の法制史家ピュッターJ.S.Pütterが,プロテスタント化された領地に対するカトリック領邦君主の実力による再カトリック化の試み,という意味で初めて用いた。その際ピュッターは反宗教改革を個々のできごととして理解して複数形(Gegenreformationen)で表現していたのに対し,歴史家のランケは,1803年の《改革時代のドイツ史》で単数形(Gegenreformation)で用い,それ以来反宗教改革はしだいにひとつの時代概念となった。そして,16~17世紀のローマ・カトリック教会による反プロテスタント運動の時代に対して反宗教改革の概念を用いることが19世紀に一般化した。そこには,カトリック側の改革を,ルターの改革のあとでそれに対する〈反動〉として行われた,イエズス会の設立やトリエント公会議の開催を出発点とする反宗教改革としてのみ見る前提があった。しかし第2次大戦後の宗教改革史研究の発展(ロルツJ.Lortz,イェディーンH.Jedin,エーダーK.Eder)に伴い,ルターの改革に先行して存在した〈カトリック改革〉の姿が明らかになり,反宗教改革の概念もより正確に定義されるようになった。
14~15世紀に始まった宗教的な自己改革運動としてのカトリック改革に対し,政教一致の領邦教派国家時代に,再建ローマ教皇制の指導のもと,カトリック教会がカトリック君主の力を借りて行った,プロテスタント化された都市,領邦,地方への外的,政治・軍事的再カトリック化運動が反宗教改革である。もちろん内的,宗教的改革と外的,政治的改革とは現実には深くからみあっており,反宗教改革はその内的活力を,高揚したカトリック改革からくみとっていた。トリエント公会議やイエズス会,カプチン会などの修道会も,反宗教改革の精神的活力となり,再建教皇制のもとに各地で設置された教皇大使館は,政治的再カトリック化をはかるカトリック君主たち(スペインのフェリペ2世,イギリスのメアリー・チューダー,ハプスブルク家のフェルディナント2世皇帝,ババリア公マクシミリアン,フランスのギーズ家のフランソアやアンリ)に直接,間接の支持を与えた。シュマルカルデン戦争(1546-47)もすでに反プロテスタントの政治行動であるが,政治的な反宗教改革時代の発端の目安としては,教皇の指導権が再確立され,アウクスブルクの宗教和議が成立した1555年が便利である。この和議で確認された〈この地方での公式宗教は領邦君主の信仰〉との原則に従って,カトリックの領主,君主は政治権力,武力をもっても領地内のプロテスタント住民にカトリックの信仰を強制することが公認されたからである。ただし同じ原則により,自領の宗教の維持ないしは拡大のために政治権力,武力を用いた点ではルター派もカルバン派も同様であった。正しい政治,社会生活は正しい信仰の上にのみ築かれるという政教一致の原則は16~17世紀でも12~13世紀の昔と変わらぬ原則だったからである。変わったのは,ひとつの正統信仰でまとめられていたキリスト教社会が分裂し,いわば複数のキリスト教社会としての領邦国家ないし民族王国群が生まれたということである。それぞれの領邦国家,王国のなかでは〈ひとつの信仰,ひとつの王国〉という原則が相変わらず妥当していた。
このような反宗教改革の時代はルター派,カルバン派,ローマ・カトリックの三者が教派国家作りに競合しあう〈教派政治体制〉の時代でもあった。カトリック諸君主がルター派,カルバン派の諸君主と同様に各地で同盟を作って政治的軍事的結束をはかり,やがてそれが三十年戦争をひき起こした。この戦争の直接のきっかけはボヘミアの貴族に対する皇帝フェルディナント2世の反宗教改革政策であった。三十年戦争の初期にはボヘミア,オーストリア,北ファルツ,ラインファルツ地方での反宗教改革政策は成功したが,スウェーデンのグスタブ・アドルフ2世の介入による,いわば反・反宗教改革によって失敗に終わった。反宗教改革はドイツ地方だけに限られずフランス(ユグノー戦争),メアリー・チューダーのイギリス,スペインのフェリペ2世治下のネーデルラント地方にも見られた。ザルツブルクの大司教によるプロテスタント追放(1731)のように,反宗教改革的現象は18世紀にまで及んで見られるが,三十年戦争を終結させたウェストファリア条約(1648)で政治的反宗教改革は一応終わると考えられる。そして王権や領邦君主権の世俗的利益つまり〈国家理由〉に宗教的利益を含めた他のすべての利益を従属させるという世俗的主権国家が発展し,教皇権も世俗政治への発言力を失いはじめ,典型的な反宗教改革は不可能になった。
文化史的な広義の反宗教改革には,論争神学(エックJ.Eck,コホレウスJ.Cochläus,ベラルミーノR.Bellarmino)や,プロテスタント的簡素さと対照的に壮大豪華で,勝利と凱旋の精神に満ちたバロック芸術,聖人伝に擬してカトリック教会の勝利を示すイエズス会演劇,プロテスタントによるカトリックの迫害を描く美術作品など,反プロテスタント的防衛ないし攻撃の戦闘精神の発露全般が含まれる。ただし反プロテスタント的戦闘精神は19世紀のカトリック教会にまで残存しているという理由から反宗教改革を19世紀にまで延長して考えるのは適当でない。反プロテスタント的戦闘精神だけで反宗教改革のしるしとすることはできない。反宗教改革の時代はあくまで17世紀半ばまでの政治的対決を中心に定義されねばならない。17世紀半ば以降のカトリック教会の歴史的な姿は,絶対君主制の確立,啓蒙思想,フランス革命などの影響を受けて,それ以前の教会の姿とは大幅に異なるものとなった。教派的信仰から離れた国家が上述のように教派的立場を超えた独自の政治を展開するようになった。
反宗教改革の教会は反プロテスタント的,ローマ中心主義的,官僚主義的傾向を助長するというマイナスの側面をもっていたが,カトリック改革の精神を実らせ,具体的にはトリエント公会議の改革教令を実施させる外的枠組みを提供し,その結果,修道会,海外布教,神秘思想,スコラ学,実証神学,教会芸術などの諸分野で教会生活の刷新に寄与するというプラス面ももっていた。要するに反宗教改革は,カトリック改革のひとつの結果でありその特殊な,部分的表現であると同時に発展の促進手段でもあった。その際,プロテスタントの宗教改革は反宗教改革に関しては直接のきっかけ,カトリック改革の第2期に関しては間接のきっかけの役割を果たした。
→カトリック改革 →宗教改革
執筆者:澤田 昭夫
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カトリック教会の側からの宗教改革で、第一には新興プロテスタント勢力に対抗するカトリック勢力の結集と政治的反動をいい、第二にはプロテスタント主義との闘いに助長されたカトリック教会内の改革運動をいう。第一の意味では、16世紀後半より三十年戦争を経て1648年ウェストファリアの和議に至るまでの、スペイン・ハプスブルク家を中心とする一連の政争をさす。とくに南西ドイツおよびポーランドをプロテスタントから奪回した意義は大きい。第二の意味では、カトリック教会の内部改革はルターの宗教改革以前から、ロッテルダムのエラスムス、スペインの枢機卿(すうききょう)ヒメネスらキリスト教的人文主義者によって提唱されており、オラトリオ会(1516認可)をはじめカプチン会、テアティノ会、バルナバ会、ウルスラ会など新修道会の創立や旧修道会の刷新が相次いで進展しつつあった。この動きはルターの宗教改革に刺激されて急速化し、1540年イグナティウス・デ・ロヨラによるイエズス会の創立、1545年より63年におけるトレント公会議の開催によって、プロテスタントに対立してカトリック教会内部の刷新と教化を企図するに至った。これらの運動により、司教の司牧権を強化し、優秀な司祭を養成して布教活動を展開し、多年の悪弊であった不在聖職禄(ろく)を撤廃して、信者の教化善導に大きな効果をあげた。その結果は、プロテスタントの浸透を阻止し、むしろ失地を回復し、「地理上の発見」の波にのって新世界に対する布教にまで発展した。またスコラ学の復興と神秘神学の深まりに加え、人文主義的な聖書および教父研究の新生面を開いた。なお、バロック芸術の発達もこのような反宗教改革の精神を背景とするものである。
[坂口昂吉]
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宗教改革によって誘発されたカトリック教会内部の自己改革運動。15世紀末以来のスペインにおける信仰覚醒と16世紀中葉イタリアに起こった教会再統合の機運とが結合したもので,イエズス会の国際的な宣教活動によって推進された。このため政治的には宗教戦争が激発し,神学上は教皇権の再建を眼目にトリエント教会会議でトマス主義にもとづく近代カトリシズムが確立した。カトリック勢力はドイツ南部に再び地歩を得たほか,大航海時代に続く植民・貿易活動と提携しつつ,新世界(新大陸)やアジア地域にも拡大した。
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…ルネサンス人文主義もまたこの間に西欧に浸透することとなった。 第2は,ゲルマン諸国を中心として16世紀に起こったプロテスタントに対抗する,いわゆる〈反宗教改革〉の精神運動がローマから発生したことである。この運動は新教に対して旧教のドグマと教会の権威を守るばかりではなく,新興文化であるゲルマン的文化に対するラテン文化の対抗運動としての性格ももっていた。…
…ルターやカルバンの宗教改革以前から存在していた,カトリック教会独自の自己改革,革新運動。カトリック改革は,ルターの出現以後,ルターに反対する反動としての反(対抗)宗教改革Counter‐Reformationという形をとったが,カトリック改革すなわち反宗教改革ではない。かつてはカトリック史家もプロテスタント史家も宗教改革ないし教会改革の時代を,ルターやカルバンの〈宗教改革〉とそれに対抗して起こった〈反(対抗)宗教改革〉(たとえばトリエント公会議)という二つの概念だけで説明し,カトリック改革という概念を用いても,それは反宗教改革と同義語として用いられてきた。…
…ビザンティン帝国の滅亡とともにロシアの教会は独立し,1589年にはモスクワ府主教が総主教に格上げされ,名実ともに東方正教圏の最大の勢力となった。現在のウクライナ,ベラルーシに当たるポーランド・リトアニア領内の多数の正教徒は,カトリック反宗教改革の余波で,16世紀末に合同教会に組み入れられ,それに反対する勢力との闘争が続くが,文化的には西ヨーロッパとロシアの接点となり,さらに正教会そのものの近代化にも貢献した。オスマン帝国の直接の支配を逃れたモルドバとワラキア(両国は現在のルーマニアに当たる)の教会は比較的順調な発展を遂げ,コンスタンティノープル総主教座にも影響力を有した。…
…なお,バロックの概念については,〈バロック美術〉の項の冒頭の記述をも参照されたい。
【世界観としてのバロック】
文化・思想の原理としてのバロックは,とりわけ,一方では〈反宗教改革〉運動によって,また他方では〈科学革命〉のもたらした動的宇宙像によって体現されている。
[イエズス会]
反宗教改革とは,プロテスタントの〈宗教改革〉からの打撃から立ち直るべくカトリックが対抗して行った自己改革・自己脱皮の企てであり運動である。…
…ルネサンス期,マニエリスム期においては,芸術は上層のエリートによってのみ享受されるものであったが,絶対主義国家の運営のためには大衆文化をつくり出すことが必要であった。 第3の,通常もっとも直接的な,バロック様式発生の要因とされる哲学は,16世紀にヨーロッパを二分した宗教改革と,ローマ・カトリック教会の変革運動である反宗教改革である。まず,プロテスタントは教会に聖像を置くことを禁じ,聖母,聖人の崇拝をも含むカトリックの教義の多くを否定し,人文主義のもたらした道徳的態度を糾弾した。…
※「反宗教改革」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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