ジェルジンスキー
Feliks Edmundovich Dzerzhinskii
生没年:1877-1926
ロシア・ソ連邦の政治家。KGB(国家保安委員会)の前身にあたるチェーカー(反革命・サボタージュ取締り全ロシア非常委員会)の初代議長。ポーランドのシュラフタ(貴族)の家庭に生まれ,中学時代の1895年から労働運動に参加した。以後1917年の二月革命まで地下活動を続け,逮捕,投獄,流刑・徒刑,脱走を繰り返した。この間,ポーランド・リトアニア統一社会民主党を指導,1906年には同党代表としてロシア社会民主労働党中央委員となった。十月革命の組織者の一人で,17年12月,チェーカー創設とともにその議長となり,22年にチェーカーがGPUに改組後は,生涯その議長をつとめた。またこの間,内務,運輸の人民委員,ソ連邦国民経済会議議長などをも兼任した。モスクワの中心にあるKGB本部前の大広場はジェルジンスキー広場と名付けられ,彼の銅像が建てられていたが,91年銅像は撤去され,ルビャンカ広場という旧称が復活した。
執筆者:藤本 和貴夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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「ジェルジンスキー」の意味・わかりやすい解説
ジェルジンスキー
ロシア・ソ連邦の政治家。ポーランド生れ。若い頃から革命運動に関わり,1906年ポーランド・リトアニア統一社会民主党代表としてロシア社会民主労働党中央委員。ロシア十月革命に参加し,1917年以降,反革命運動やサボタージュを取り締まるために設けられたチェーカーの議長を生涯つとめる。チェーカーはKGB(国家保安委員会)の前身にあたる。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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ジェルジンスキー
じぇるじんすきー
Феликс Эдмундович Дзержинский/Feliks Edmundovich Dzerzhinskiy
(1877―1926)
ロシアの革命家。リトアニアの没落ポーランド人地主の子。1895年から革命運動に入り、のちポーランド王国リトアニア社会民主党の結成にした。1906年同党の代表としてロシア社会民主労働党中央委員会に加わり、レーニンの信頼を得た。その間、再三逮捕、投獄を経験。十月革命期はペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)の軍事革命委員会のメンバーとして活動、蜂起(ほうき)を組織した。革命後、ロシア非常委員会(チェカー)初代議長となり、「赤色テロ」を組織し、数多くの「陰謀」の摘発を指導するなど共産党の支配体制強化に尽力。22年ゲー・ペー・ウーに改組後も生涯長官を務めた。
[原 暉之]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ジェルジンスキー
Feliks Edmundovich Dzerzhinskii
1877~1926
ソ連の政治家。ポーランド人革命家であったが,ボリシェヴィキに同調し,ロシア革命後は非常取締委員会(チェカー)初代議長となり,合同国家政治局(オー・ゲー・ペー・ウー)に改組後もそのまま議長を務めた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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